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ナボコフ『青白い炎』(富士川義之訳、岩波文庫)の感想

 ロシア出身のアメリカの作家ウラジミール・ナボコフの最高傑作といわれる『青白い炎』。本作は奇抜な構成の小説です。注釈者の前書き、詩人の遺作、注釈、索引の四つに分かれて、注釈者の狂気を感じる膨大なコメント群が詩本編をとりかこんでいる構成を持ちます。

わたしは機会あるごとに彼の怠惰癖を克服して書き出すように勧めてやまなかった。わたしの小型日記帳には、「英雄対韻句(ヒロイック・カブレット)を用いるように彼に示唆した」とか、「逃避行をまた話してほしい」とか、「わたしが吹き込んだ録音テープを彼が用いたらどうかと話し合った」とかいうようなメモが書き込まれている。そして最後に、七月三日の日付で、こう書きとめられているのだ。「詩が書き出された!」
(p199、ルビをパーレーンに送る改変をした)

 注釈者チャールズ・キンボートにとって、それは「『わたしの』詩」(p355)です。彼が故国を逃れた冒険と悲劇をきいた高名な詩人ジョン・フランシス・シェイドが猛烈にインスパイアされて作品化したことを彼は信じて疑わない。詩がまるきりそうは見えなくても。

 そもそも注釈者の故国であるところの「ゼンブラ」という国自体の存在を私たちは信じることがむずかしい。だから、注釈を逸脱した語りは詩自体とも世界とも紐づけすることも困難で、だが同時に、詩人の最期の証言である切迫性もはらんでおり、二重にスリリングです。

 そして、シェイドの遺作であるところの「青白い炎」がこれまたよい詩で、おだやかな生涯を送った、だが幸福ばかりではない詩人が自分が捉えうる真実の手ごたえを記そうとする自在さと敬虔さを感じます。だからこそ、読みの力点をどこに置くかにとまどいます。

 こころみに「秘宝」をめぐる記述を追うことでキンボートとシェイドのことばを貫くながれを解釈したいと思います。そのことで私自身にとって本作の力点が何かを特定したいと思っています(研究者の語り手〇〇説はそうした力点を特定しようとする試みとしては共感しています)。

 以下、ネタバレに注意してお読みください。

 キンボードは自分の宝の存在を繰り返し示唆します。「王冠やネックレスや王笏は絶対に見つかるまい」(p451)「その容れ物が何であるにもせよ、宝石を鏤めたわたしの王笏や、ルビーのネックレスや、ダイヤモンドをあちこちに嵌め込んだ王冠と同じようにぬくぬくとまだそこに預けられたままだと、わたしは思う。」(p501)

 この宝の強調は索引にまで伸び「Crown Jewels(王冠の宝石類)」「Hiding Place(隠し場所)」「Taynik(タイニク、露語で秘密の場所)」など、詩本編とはっきり無関係なのに記述が多い。索引の価値は最後のZの項目だけでなく宝をめぐる暗号的な示唆にあるでしょう。

 注釈を読むとまず正しいように感じますが、この宝のありかはずばり「リプルソン洞窟」です。(p288からはじまる)「一四九行目」の注釈が「この注釈を読者が楽しまれたことと信じる」で締めくくられるのは、それが彼の物語の輝かしいクライマックスだからでしょう。

 そして、この注釈が重要なのはそこが「山」を出発してたどり着くべき場所であることにあると主張します。山頂に石を積み帽子をかぶせる「石男」はここ(p296)に登場していることを確認して次の一節を読むとき、キンボートが純粋に自分の妄想を生きようとしていると分かります。

「(略)もしも《完成作品》をわたしに見せることを同意して下さるならば、別のおもてなしをいたしましょう。つまりあなたのテーマをなぜわたしがあなたに与えたのか、もっと正しく言うなら、誰があなたに与えたのかを、あなたに打ち明けることをお約束する、ということなのです」
「どんなテーマかね?」と、わたしの腕に寄りかかって徐々にしびれた脚をまた使えるようになりながら、シェイドがぼんやりと言った。
「忘れられぬ青い国ゼンブラと、赤帽をかぶった石男(シュタインマン)とか、海の洞窟のモーターボートとか––––」(p519-520「なぜ」「誰」の傍点を略、石男のルビをカッコに送った)

 自分が高貴な人間であることを打ち明けようとする際に、「宝」の存在がそこに欠かせないことがさりげなく示唆されている場面です。そうでなければ、モーターボートに付随するエピソードにすぎません。キンボートは自分の秘宝も詩人とある意味共有しようとしているのです。

 この本気さを踏まえて、今度はシェイドの詩の「山」を見ましょう。シェイドが発作による臨死体験のさなか「白い噴水」に出会います。それは詩人にとって「真実」のような存在です。同様の体験をしたさる夫人と対面することで意想外な展開を迎えます。

 「そっくりそのままです。夫人の文体を変えたりなどしていません。
 ただ一箇所だけ誤植がありましてね――大したことじゃないんです。
 噴水じゃなくて、山なんですよ。そのほうがタッチは荘重ですね」

 誤植に基づいた――永遠の生とは!
(p152「噴水」「山」の「ファウンテン」「マウンテン」のルビを略)

 自分が求めた真実が鼻先で語呂あわせのように別ものに転じてしまうこと。これがシェイドに深い省察を与えていくことも興味深いのですが、私が衝撃を受けたのは、このシェイドの「誤植」をキンボートが完全に誤解する度肝を抜く展開です。引用は略しますが七八二の注釈(p472)です。

 ここでキンボートは、「噴水」が「山」に変わったのではなく、「もともと山なのになぜか噴水になっている」と言っています。キンボートにとって噴水はゼンブラと無関係で、白い山は秘宝の最初の里程標を示すもの。当然詩に書かれていなければならないからです。

 このとき二人は、自分の大切な「物語」が誤植してしまう存在として重なります。ここに本作の力の中心にあると私は感じます。誤読の「裂け目」には分かりあえない「大いなる虚無」があるのではなく(p126)、誤読してしまう過剰なまでの生命の「炎」のかがやきをみとめていると思います。

 それらの人たちが誰であるかは問題ではない。音も、
 ひそやかな光も、彼らの入り組んだ住居からは
 届かなかった。だが、彼らはそこにいたのだ、(中略)
 こちらでは長命の炎を燃え立たせたり、あちらでは
 短命の炎を消したりしながら。
(p154)

 そして、私たちもまたその青白い炎のひとつです。本作は詩がキンボートの妄想とリンクする部分、詩人の家族の描かれ方、そしてキンボートの無数のコメントたちが未定の謎として立ち現れます。その解読で浮かび上がるのは、きっと私たちの文字を熱する誤読の生の炎でもあるのです。

 ナボコフの『青白い炎』は私たちが文学を読むこと、何かに感銘を受けること、それが100%現実世界とリンクしない連鎖の肯定としてある。読みと命の双方を心に抱いてつかの間を生きること。短い命とそうでない命の誤読をめぐる悲哀と滑稽とを「対位法」で示したものが本作なのです。

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