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川端康成『山の音』(新潮文庫)の感想

 ノーベル文学賞受賞者の川端康成の作品。代表作としてよく『雪国』『伊豆の踊り子』が挙げられるという点から、生き生きとした(少)女と繊細な恋心の描写が川端の読みどころと言える。しかし一方、川端康成には、昏睡する裸の美女と添い寝する「宿」に通う老人の童話的物語『眠れる美女』という、相当アレな作品も書いている。
 『山の音』は、老年に達した会社社長尾形信吾が、「遠い風の音に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力」(p11)を持つ「山の音」を聞き、「死期を告知された」という予感を持つことから開始される。主人公の「死」という終わりを象徴する冒頭から、後の物語はその残響というか、「終わりのつづき」とでもいうべき、大変残念なムードに満ちている。子どもたちの夫婦関係はぐちゃぐちゃだったり、信吾の物忘れがひどかったり、息子の修一のヨメ菊子に惚れていたりする。何よりも私が残念なムードを生みだしていると思うのは、信吾の視点が全編にわたって、無駄に性的な点である。そうした自分について信吾が反省したような一節を引用する。
「信吾は近年自分が見たみだらな夢を思い出して見ると、たいてい相手はいわゆる下品の女だ。今夜の娘もそうだった。夢にまで姦淫の道徳的苛責を恐れているのではなかろうか。
 信吾は修一の友だちの妹を思い出してみた。胸は張っていたと思える。菊子の嫁に来る前に、修一と軽い縁談があって、交際もあった。
「あっ。」と信吾は稲妻に打たれた。
 夢の娘は菊子の化身ではなかったのか。夢にもさすがに道徳が働いて、菊子の代りに修一の友だちの妹の姿を借りたのではないか。
    (略)
 その心底が抑えられ、ゆがめられて、夢にみすぼらしく現われた。信吾は夢でもそれを自分にかくし、自分をいつわろうとしたのか。」(p247)

「みだらな夢にみだらなゆらめきもなかったのは、なんとしてもなさけないことに思えて来た。どんな姦淫よりも、これは醜悪だ。老醜というものであろうか。」(p247-8)
 この「みすぼらしく」想起される性的イメージは、「自分は誰のしあわせにも役立たなかった」(p276)という無力感に無秩序な印象を添える。『山の音』は、平均以上の生活を営んできたはずの信吾に訪れる老いの無力と無秩序という絶望の物語と言える。
 そして、それが不思議なほど軽やかに読めてしまうというのが、本作の名作たるゆえんだ。季節の移り変わりとともに、無力や絶望がするりするりと訪れる。それは同時に季節のいろどりの中に溶け込み「家族生活」として馴染んでいく。そのことに「希望」を読むこともできるし、さらなる「絶望」を読むこともできる。『山の音』はそんな作品だと思う。

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