読書課題が難しすぎる話
やっほー。べんとうです。
暇すぎてブログ書きまくっちゃいますね。
心理学のゼミで、読書課題を決めたのですが、僕が選んだ本が難しすぎます。
近代の哲学書かよ。
すべてが抽象語で埋め尽くされているため、ワーキングメモリがぱんっぱんになります。
僕の実力では読み切らないというのと、すぐ馴化して(飽きて)集中力が切れるので、PowerPointを作成しながら読んでいます。
もはや、PowerPointを作ることが目的になっています。
なので、べんとうのお昼休みに必ず週1で解説動画をあげます。めっちゃ勉強になると思うので、よろしければ見てください。
カサニマロのアカウントにも、リア垢にもyoutubeのリンクを貼り付け奉りますので、全員見やがれ!
それはそうと、文章というのは「弁別」が大事だと痛感しています。
僕の文章は、そもそもの文体は読みづらいと思います。小説とか昔から読んでこなかったからね。
それでも、なんとなく読めた感じがするのは、この「弁別」に帰着するんだろうなぁと思うのです。
今日読んでいたその例の本にこういう記述がありました。
―「赤い」という判断には、他人に伝達をする手段として形成された「思考の表現のための語とそれらを結び合わせる方法」としてのコトバと、これらの「音声または文字を手段として人の思想、感情を表現・伝達しまた理解する行為」としての言語という2側面が含まれている。
太字は勝手に僕が付けたものですが、意味わかりますか?
意味不明ですよね。僕はこういう本を永遠に読まなきゃいけないわけです。(こりゃ早起きせんといかんわ。)
しかし、次の文章である程度理解が統合されます。
―種々の信号的意味を持った感覚的属性(中略)だけでなく、コミュニケーションの手段として発達したコトバを、コミュニケーションの手段として発達したコトバを(後略)
なんとなく、意味わかりませんか?
この文頭には本来来るべき接続詞「要するに」「つまり」「すなわち」が省略されていましたが、意味はわかります。
2つの異なる説明に対し、それぞれ別な説明を加えているという点で、これらは「弁別」されているのです。
僕が思うに、「すなわち」や「要するに」は、具体を抽象にしたり、抽象を具体にしたりするという、単なる要約の過程を示すディスコースマーカーではないと思うのです。
筆者が伝えたいことが、言葉を媒介したせいで正確に伝わらないという事態を回避すべく、読者が脱線した思考をしているのを修正するための過程だと思うんです。
...という今の説明にも、なんだか「弁別」という過程が含まれているような気がしますね。
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