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「取り繕えない人たち」こそ『Rejoice!(喜びを抱け!)』

たぶん終の棲家となるであろうこの地に住んで15年が過ぎるのですが、この冬(…もう春ですが)初めて鳥の声が滅多にしか聞けない日々を送っています。
狭い庭に植えてある南天の赤い実がヒヨドリに食べてもらうこともなく次々に地面に落ちたのを見ると、あのうるさい鳴き声が恋しくなってしまいます。
不気味なのはスズメや鳩が激減したこと。
去年、すぐそばの小さな公園にある3本の大木が大胆なまでに枝を切られてしまったことと、我が家のすぐ横で半年以上も大きな工事が行われているせいもあるかもしれませんが、鳥の減少傾向自体は5、6年前から始まっていたことです。
鳥たちの声、姿…戻ってきてほしいのですが…。

というわけで、図書館で目に付いた本。

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タイトルに惹かれただけではありません。解説が小野先生ではありませんか!小野正嗣さんを知ったのは2019年、「100分de名著」大江健三郎『燃えあがる緑の木』の回で講師を務められていたときでした。大江作品をこんなに朗らかに語る人がいるのかと驚くと共に、講義の内容も素晴らしかったのです。

記事も書きました。
『燃えあがる緑の木』~ “引用”、“祈り” で繋がるということ

その2年後に、小野先生が主任講師を務めた放送大学の『世界文学への招待 ’16』を受講しました。
授業の中に他の講師の先生方と共にパリやプラハを訪問されていた場面があったのですが、布製トートバックを肩にサンダル履きという出で立ちでおしゃれな街角をご機嫌で歩く小野先生はとってもチャーミングでした。
が、しかし!
試験も無事終えて来期までの束の間の休みに小野先生の本を2冊図書館から借りて読み始めたのですが…衝撃を受けてしまったのです。
どの本だったのかは書きませんが、一冊は読みづらさに耐えられず挫折、もう一冊は読み終えたものの何だか…よくわからない。
ご本人のキャラクターとのギャップが有りすぎて困惑しました。
でも、よくよく考えると、全くわからないでもない気もしてきたのです。
それこそ、大江さんにもそういうところがあったなあと。
人間のネガティブな側面を容赦なく描く大江さんの物語に、私は何故か一度も嫌悪感を覚えず打ちのめされるということもなく、むしろ清々しい読後感を得てきたのです。
理由もわからないままに。
謎が解けていくきっかけをくれたのが小野先生だったのでした。
そこにある光~「Rejoice!」

それから3年後の今、文庫本の棚から『ことり』を抜き取って(小野先生の解説なら読まなきゃ…)と借りようと決めた直後に目に留まったのが小野先生のこの本でした。(小川~小野なので)

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まず、(この本は読めるんだろうか?)と思いましたが、ざっとページをめくってみて大丈夫そうと感じ借りたのでした。

『ことり』の小野先生の解説文のタイトルは「取り繕えない人たちへの愛の歌」です。
「取り繕えない人たち」とは、小川さんが主人公「小鳥の小父さん」のような人を指して言った言葉です。
人の言葉を話せず小鳥のさえずりを理解する小鳥の小父さんの「お兄さん」もそうです。
信じられないくらいひっそりと生きた「取り繕えない人たち」の人生は悲哀に満ちたもの…なのでしょうか?
『ことり』に引き続いて読んだ『残された者たち』の登場人物たちもまた、全員が「取り繕えない人たち」でした。
が、こちらは可笑しみがあって…でもやっぱり、悲哀からは逃れられるはずもなく。
以下、『残された者たち』からの引用です。

思考は現実に根を持たざるをえない以上、その根は伸びていくかぎり現実という土壌に含まれた毒を探り当ててしまう。

笑うことと泣くことは安全弁なのだ。
自分を開くことだ。
そうやって穴を開けて、世界と心のあいだに空気を行き来させ、笑いと涙によって穴を広げ、いつの間にかできていた仕切りを取り壊し、世界に心を、心に世界をしみ入らせ、心に広がりを回復させるのだ。

小鳥の小父さんもお兄さんも、残された者たちも、生きる世界は狭かったかもしれない。
でも彼らは彼らの認識した世界の中で、その「世界に心を、心に世界をしみ入らせ」丁寧に生きていたのだと思います。

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