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MOON-RADIATION vol.19(老人の脳)

ムーンラジエーション。これは造語です。
月明かりが、
放射状に全世界に広がり、
しかしラジオのようにひっそりと、
聴く者だけに届くようにと思い、
この名前を付けました。

MOON-RADIATION vol.1

※この話では、「お年寄り」と「老人」を分けて考えています。その理由は、後述しています。

高齢化社会。

今の高齢化社会と、

僕らの高齢化社会。

今と、未来の高齢化社会は、

決して同じ社会ではない。

と、僕は思っている。


昨日、11月26日。日曜日。

いい風呂の日だったそう。

世田谷にある、宇多川の湯に浸かる。

大道路から抜けた、地域に根付いた古い銭湯。

ロッカーの板を抜いて、靴を入れてすぐに、番頭さんが待っている。

80歳近い、お婆さん。

若者も1人いたが、それ以外はお年寄りがちらほらいた。

大人1人、520円。

細々と経営している中でも、湯船に見える、
大きな赤富士がその歴史を語っていた。

お年寄りは、にこにこしながら、熱い湯船に浸かりながら
会話をしている。

当たり前の光景。

いや、今はもう当たり前の光景でもないかもーーー

若者たちが楽しむ、レトロという言葉。

それが当たり前だったお年寄りが、

置いてけぼりになっているのでは、と思った。

小さな分断。

情報でも、起きている分断。


インターネットができたことで、僕らに新しい世界ができた。

これがあるだけで、僕らの生活にフィルターをかけることができた。

馴染みがない、色眼鏡。

自分が見ることも、知ることもできないものが手軽になった。

国境を越えて、コミュニティができた。

その中で情報が作られた。情報の積み重ねが、ネットを作った。

ゆえの、分断。

インターネットを知らない人。

インターネットが使えない人。

インターネットが嫌いな人。

その多くが、お年寄りだ。


お年寄りは、自分の見たものが経験になり、情報になる。

インターネットがない時代。携帯もない時代まで遡る。

他人が見たものを、共有するとき、人は対面し、話す。

コミュニケーションをする。

それは、道端であり、お店であり、仕事場であり、

温泉に浸かりながらでも。

一方、僕らはインターネットが使え、たくさんの情報を知れる。


本当に、そんなことが言えるのだろうか。

本来、どちらの方が良いか悪いかの比較はできない。

でも。比較のできない情報を、ここでは別の視点で、比較をする。

比較をしなければならないと、僕は思った。


今、多くのお年寄りがインターネットと隔絶されている。

それは、僕らの生活のフィルターという、とても薄い世界だけれど、
別の世界。

ここに、接続ができない。

世界と繋いでいる僕らは、インターネットで作られた膨大なデータと、
統計的に得られた「常識」を「元」にして、
世界のニュースを知れる。

接続していないお年寄りは、
これまでの「情勢、自身の経験、直感、理論、歴史」などを
「基」にして思考する。

インターネットに繋がった僕らは、次の日曜日に会う人たちと共通認識で、土曜日のニュースの話題ができる。
もし1人がその話題を振って、知らなかったら、その場で調べることができる。見逃す、知らない、という概念がなくなる。

しかし、インターネットの隔絶されたお年寄りは、
それぞれの共通認識といえばマスメディアによって選別された情報である。

それが良い悪いということではなく、

2人が同じ地域にいれば少しの話題も知れるだろうが、

テレビで報道もされていないような情報はわからない。

そして、定期的にテレビを見なければならない。

そして、ラジオをつける。

見逃せばその時点での共通認識はなくなる。

知らないことを、その後、知ることができない。

しかし、インターネットに溢れているビッグデータ、

つまりインターネットが使えている者たちに作られた情報=若い脳の元

では、そのすべての者たちが共通認識をとることができる。

だから、「老人の脳」がとても重要になる。

経験の量が膨大な個人データは、老人の方が年齢からも分かる。

そして、

それはインターネットで得られたコピー&ペーストに少量のアイデアを加えるどころではなく、一種の職人的な叡智も含まれるだろう。

例えるならば、ナポレオンや織田信長をInstagramで政治を発信していた証拠

を残しているならば、、その行為自体が興味深いものになる。

「発信するものがない」→文書として残せばよいが、

インターネットであれば、それを世界中の共通認識に入れることができる。

(もちろん、ネット上の情報を全て認識できる者は誰ひとりいない。)

ただの無名が、何か文章を残して、

それが何代も語り継がれるものはないかもしれない。

価値を持つ文章なんて、死んだ後の遺言くらいだ。

それでも、僕らがこれまでの経験や日常を呟いているのと同じように、

お年寄りが発信していたら、もっと多様なネット社会ができるのでは・・。

老人の脳は、僕らの脳よりも価値のあるものかもしれない。なぜなら。

残された、猶予。

僕らが高齢者になった時を考えた。

未来を想像した。

僕らの上の世代に、誰もいない世界だ。

SFではなく、必ず起こることだ。


このまま、お年寄りが、

その経験をインターネット上に残さないということは


インターネットでも、そして言葉でも伝承できないものは、

僕らが伝えない限り、後世へは語り継ぐことができなくなる。


インターネットの世界のお年寄りと、

現実世界のお年寄り。

インターネットにも、人生のお年寄りを。

ビックデータは、若い脳でしかない。

そこに、経験を持った老人の脳を入れる。

それが、遺産になるはず。


小さい頃から、ITに触れさせる。

IT人口が増えてきている。

しかし、この若い脳のしわを増やす鍵は、

僕らの上の世代なような気がする。


インターネットが当たり前の私たちではなく、

インターネットが当たり前の社会になった時、

僕らの子どもたちはこう思うかもしれない。


どうして、その人たちは、インターネットに、

生きた証を残さなかったのか。


刻一刻と、時間は進む。

文化が、なくなるまでに、

いや、もっと早くの、

僕らの上の世代がなくなる前に。


若い脳に刻む必要がある。


お年寄りはライブラリ。

老人は、老いた人ではない。

僕らの若い脳を、甦らせる。

若返らせる。

だから、貴重。


全てを書き終わった今。

こうやって、インターネットを使わなければならない、
それは、僕らの世代や、僕らより若い世代のためになるから

ということ自体が僕ら若い者のエゴかもしれない。

でも。

でも。

若い者の、わがまま。


今の僕らにできること。

今しかできないこと。


温泉に浸かりながら、ふと思う。


湯船の温度は高かったけれど、
お爺さんは平気な顔をして、
そして、幸せそうな顔をしていた。


これ以上、考えるより、
そろそろ上がろうか。


いい湯だな。

いい湯だったな。


今日も、ダラダラと、

何も考えず、

考え事ばかりしながら書きました。


以下は、これまでの作品です。
もしご興味ありましたら、ご覧ください。

https://note.com/benkein/m/maaa8bb350561

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MRich
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