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追い立てられる癖

朝からの雨、何か用事があるわけではない。なのに、

「なにかしないと」と自分を追い立てるのはなぜ?
思考の癖だからじゃない?

そんな癖はいらない。子どもが登校した後、何も予定がないのなら・・・とまた寝ました。起きたのは10:00、やることがないときに寝るって悪いことじゃないのに、なぜ今までやらなかったのか。

子どもの頃から、戦後生まれの母親から「昼間から寝ているなんてダメな奴」という頭ごなしの洗脳があったのだと思う。働き者は美しい、という刷り込みです。
父の休日の過ごし方は母からしたら、だらしなく思えたらしいし、反面父は、休日くらいだらだらさせてくれ!だったと思う。私は、母の小言が頭に残っていました。だから、私はダメな奴にはなりたくない・・・っていう根拠のない考え方。

自分が自分を追い立てなくなったら、子どものことも追い立てなくなった。中間テストではあるが、勉強しなかったらどうなるか失敗させるのも、今しかないと思えるようになった。自分がやろうと思わないと、平均点でうろつくのが関の山。そこを追い立ててイヤイヤ勉強している振りをする子どもと、それにまた腹をたてる自分の姿が思い浮かぶ。バカっぽい・・
ついでに、中間テストの成績もあまり興味がない。良かったからどうだ、悪かったからどうだというのだ?私の人生ではない。健全に自立する成人になれば十分ではないか。

このノートを書き始めたときは、中学受験が終わったばかりで、子どもの自立をどう促していこうかと頭が一杯だった。たった3ヶ月ほどで、ここまで気持ちも変わるのかと、我ながら「え?!」と思う。決して子どもがうまく自立したわけでもなく、自分の捉え方が変わっただけであり、それでよかった、そうなれて良かったと思っている。

中学受験になぜそこまで失敗をしたくないと思っていたのか。思い返せば、公立小学校の学びに疑問があったからだ。参加していればいいという一面、宿題の作業的な漢字ドリル、その他一部存在する支配的な教師。
でもそれが無料で教育を受ける当たり外れのある公立ということだ。中学に行っても、年齢が変わるだけで根っこは同じだろう。
とにかく、子どもの望んだ道に進ませた私は、ひとまず責任を果たしたと思っている。

今、私の関心事は、60歳になるまでの自分の時間をどうすごすかということ。この暮らしで、老後の人間関係やら金銭的な自由が決まってくるようにも思える。
仕事を暮らしの中でどのように位置づけるのか、これで楽しいなと思える時間の使い方ってなんだろう、と自分の気持ちを確認しているところ。自分がこうしたいからといって、そのようになるとは限らないけど、考えていないと行き当たりばったりになってしまう。かといって、決め決めの老後だなんて融通が利かずに、自分のクビを絞めそう。

雨の日は、そんなこんなをうだうだと妄想するにちょうどいいみたいです。




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