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野良猫のあの子みたいに⑥

こんばんは。id_butterです。

↓よろしければこちらもご覧ください。
初回:野良猫のあの子みたいに①
第二回:野良猫のあの子みたいに②
第三回:野良猫のあの子みたいに③
第四回:野良猫のあの子みたいに④
第五回:野良猫のあの子みたいに⑤

今回は最終回、悲しい話になる。
ペットロスの方やペットにまつわる話でトラウマがある方はお読みいただかない方がいいかもしれない。




長女が生まれた日、それはチビの命日だ。

そう、この愛しい宇宙人はチビと入れ替わりでわたしの元にやってきた。
長女が特別だというのは、そういうところ。

今までいろいろな猫たちについて書いてきた。
でも、間違いなくわたしにとって一番印象的な子はチビだ。

チビは、わたしにとって、特別な子だった。

このとき以降は、わりと平和な日々が続いていた。

チビの去勢は、しなかった、というかわたしができなかったのだ。
だから、チビは散歩に行くのをやめなかったし、その後2回くらい赤ちゃんを産んだ。

その度に里親探しをしたけれど、チビが野良猫だったせいか、子どもたちは体が弱くて、ちゃんと大人になれた子は3匹産まれても1匹くらいだったから、里子に出したのは2回だけで、それ以外の子はうちにいた。
ジャンプできるようになって嬉しくて、木から落っこちて亡くなった子もいた。命が意外とあっけないことを知った。
反対に生まれた時点でこの子は育たないかもしれない、というほど小さくて体もゆがんでいたような子がすごい気力で育っていくのも見た。
人間として生きているとどうしても鈍くなる、命の儚さと強さを側で見た。

そういう命の営みに対して、「わたしに何かできる」あるいは「わたしには何にもできない」と思うことは不遜だと思った。
「悲しい」そう思うことより、ただ受け入れるしかなかった。
定まった運命に向かって、チビと寄り添ってただ生きることくらいしかできない、でもそれでいいと思った。

そうしてチビたちと数年暮らした。

わたしは、子どもを産みたいと思うようになった。
それまでも考えたことはあった。
だけど、虐待のニュースを聞くたびに、わたしは、ああならないと言い切れるだろうかと自問自答した。
自分の母のようになるのがいやだった、いや怖かった。

当時、わたしは、毎日毎日怒っていた。
チビは怒ると、買ったばかりの新しいソファに粗相をしたりする。
さらに頭がよいからか、粗相をしてから反応を楽しむかように、わたしの方にバカにしたような表情を向けてくるので、本当に腹が立ったのだ。
だからか、うちもわたしも結構ボロボロだった。

これではダメだ、そう思いつづけたある日、ふと思った。
チビに対して穏やかに接して、ちゃんと生活していけたら、その時は子どもを授かれる、虐待したりしないいい母親になれるかもしれない、そうなんとなく思った。

その日から、チビを子どもに見立てた練習生活がはじまった。
わたしの母親は、すぐ感情的になるところがあった。
だから、何かあってもチビに当たらないようにしようと思った。

けど、今思えば、そんな風に腹が立つ部分こそが人間のようで、本当にチャーミングな猫だった。
強くて、外では人気者だった。
喧嘩でもなんでもいつもイケイケで、むき出しだった。
わたしが餌をあげるのを忘れたり、帰ってくるのが遅いとすぐ怒って、カバンに粗相した。背中を向けて、耳だけがこちらに向いていた。
子どもたちに愛情深くて、すごくかわいがっていた。
あんなにわがままなのに、子どもたちにおっぱいをあげるときだけは大人しくて、丁寧に1匹1匹を毛づくろいしてあげていた。
賢くて、ちゃっかりしていて、おねだりする時の顔にわたしと元夫はメロメロで、彼女が好きな餌をつい買ってしまうのだ。
自由で気まぐれで、でもなぜか優しくて、わたしが泣くときは絶対膝の上にいてくれる。背中に落ちる涙をうざそうに毛づくろいして舐めていた。

チビみたいに、なりたかった。

そのころ、何度か精神的に病んで、カウンセリングに通った。
仕事と日本語が下手くそな中国人の年上男性が隣に座っていた。
彼はいつもうまくいかないと周囲に切れて当たり散らす。

ある日のカウンセリングで、フォーカシングというものを体験する。
「あなたの右腕に嫌いなひとがいることを想像してみて。」
そうカウンセリングの先生がいう。
「つらいかもしれないけど、その感覚を味わってみて。」

右腕にすごい風が吹きつけてきて、コンクリートみたいに固まって、砂になってサラサラ溶けていってしまう気がする。

次にカウンセリングの先生がいう。
「本当は、抵抗してもいいのよ。その腕を、守ってみて。守ってみたいって願ってみて…あなたの腕、どんな感じになった?」

わたしの右腕は、みるみるうちに毛が生え、チビの前足のようになった。
そう、わたしの肩から生えた前足には、隣の嫌いなひとを引っ掛ける鋭い爪がついている。
腕、じゃない前足は毛がふさふさであったかかった。

そう、わたしのロールモデルはチビなのだった、女としても、母としても。
チビが思い通りにならないことに毎日腹を立てながら、そんな彼女のようになりたいと憧れていた。
彼女のように、強く優しく気高く生きたい、そう思っていた。

毎日をチビと過ごした。

お休みの日、わたしは朝起きられない。
すると、おでこにチビのしっとりした肉球がおかれる。
「うーん、やめて。」
次に、とんとん、起きられないわたしのおでこを前足が軽くノックする。
それでも起きないと、ギィ、おでこに爪が軽く刺さる。
「わかった、起きるから。」
観念して、飛び起きる。
ここで起きないと、出た爪がギーッと動いておでこに傷がつく。
それだけは避けたい。

チビは人間の皮膚が弱いことをちゃんと知っていて、普段は手加減をしていた。ブラッシングされたくない時や傷にブラシが当たってしまったときとかは、猫パンチで拒否した。
それでもわたしがやめなければ爪を出すけれど、つきあいが長くなってからはそんなことも減った。
家の中でも猫たちを相手にするときは爪を出していたから、TPOのわかる猫なのだった。

背中に何度か引っかき傷を作って帰ってきたとき、消毒をして薬を塗ったけど、治療だということもわかっていたみたいで、痛がりながらも恨みがましい目でこちらを見ながらも攻撃してくることはなかった。

また数年が経ち、わたしは元夫と結婚した。
そして、長女を授かった。

生まれてくる子を思って引っ越したマンションはペットの外出が禁止されていた。そして、わたしは軽度の猫アレルギーであることが発覚した。

つわりで掃除もままならない、経済状況はギリギリで出産直前まで休むことはできなかった。
働きながらの妊婦生活は、ハードというかせわしなかった。
月に数回の病院は予約をとっても意味がなく、9時半からの診察はいつも11時過ぎに始まった。
休むためには、引き継ぎをしなくてはいけない。普段の仕事に加えて引継資料を作った。きてくれた派遣社員の方がわたしの業務をこなすには、スキルアップが必要だった。そのための資料も新たに作る。
派遣社員の監督を任せる社員にも同じことを説明する必要があった。

いつか戻ってこなくてはいけないその職場で、笑顔を貼り付けて過ごした。

そして、家では必要に迫られ、一つの部屋にチビたちを閉じ込めた。
外出できないチビたちは、ストレスが溜まっていたようで部屋の中はすぐボロボロになった。
けれど、チビたちのその不衛生な環境がわたしの精神状態を余計に追い詰めた。トイレの世話をした後、手を洗いながらお腹の赤ちゃんはだいじょうぶだろうかと不安になる。

お腹の中で子どもがすくすくと育っていく。
それは本当に嬉しかった。
けれど、急激な変化についていくためには、何かを犠牲にしなくてはいけないのだった。
夫や実家のサポートは期待できず、わたしはひとり孤軍奮闘した。
ピリピリしていた。
プレッシャーや焦りや不安で、ぐちゃぐちゃだった。
生まれてくる赤ちゃんを優先にしながらも、チビたちへの罪悪感でいっぱいだった。

そして、チビが急激に痩せたことに、気づかなかった。

予定日まであと5日、そんなときに夫は入院することになった。

「救急車を呼ぶくらいなら俺はこのまま死ぬ」
夜中にそんな意味わからない言葉を吐き続ける夫を、呼んだタクシーまで肩を貸す妊婦の身にもなって欲しかった。
家で死ぬほうが厄介なんだけれどそれがわからないのだろうか、と冷めた頭で思った。幸いにもタクシーの運転手さんは優しく、夫のわけのわからない言葉をさらっと流してくれて、救急病院まで無事にたどり着いた。

救急には夫の腹痛の原因がわかる医者がいなかった。
看護婦さんに明日のお昼に出直したほうがいいですよ、と囁かれる。
つまり、目の前の医者は研修医かなにからしい。
どうりでこんなにのたうちまわっているのに2時間放置されたわけだ。
自信がないから逃げていたのか。早く、言ってほしかった。

翌日同じ病院に連れて行った。
ネームプレートに書かれた名前が看護婦さんに教えてもらった名前と同じであることを確認して、昨晩の状況を説明する。
一旦は落ち着いていたけれど、腹痛は治らなかった。
その先生がレントゲン写真?か何かを見てくれて、夫は胆嚢炎だということが判明した。昨晩撮った写真には、とってもわかりにくいけど胆嚢炎であることがわかる何かがうつっていたらしい。
昨晩の医者に感謝する。
本人がわからなくても、そのレントゲンを撮ってくれた、それだけで十分だった。なかったら、苦しんでいる中、診察は初めからやり直しだったのだ。

そして、夫は急遽入院することになった。

暑い中、臨月のお腹を抱えて駅の反対にあるユニ○ロに歩いた。
何組かの下着とTシャツ、パジャマを買って病院に戻る。

帰り道、これから1ヶ月の夫の収入がないことと、夫の入院費を払うこととかを考えながら、区役所によって帰ることにした。
貯めていたお金は出産費用であって、社会保険から出る手当金などが入ってくるにはまだ間がある。
出産費用と入院費を払えたとして、そのあとの生活はできるのか。
また、追い詰められる。
いざとなって何か頼れるものがあるのかどうか、区役所で確認したかった。

結論からすると、何もなさそうだった。

今すでにご飯を食べられない人の支援はできる。
けれど、何ヶ月か先にお金が入ってくる予定があるひとを助けるものはない。生活保護にしろ他の支援にしろ、わたしのようにまともに働いて生活できてしまっている人間を助けてくれるものは何もないのだ。
夫がいるのに生活に困っているはずはないし、そんなに生活に困っているのに子どもを産むはずがないのだった。
いざとなったらサラ金かもしれない、と思った。

翌日から、夫の病院に通う羽目になった。

夫はわたしが出産する病院に入院していたので、検診もそのまま通った。
そして、最後の検診でも担当医に注意された。
「自分のことも考えないと。ちゃんと休んで。」
羊水が減っていた。
予定日が過ぎても生まれる兆候はなく、促進剤を使って出産することになり、入院の予定が組まれた。

入院予定日は、荷物を抱えてひとりでタクシーに乗った。
心細かった。
あんな夫でも、さすがにひとりよりはましだった。

「チビ、行ってくるね。」

チビは元気がなかったけど、疲れてるのかなくらいに思っていた。
エサは、入院する夫が外出許可を取って毎日通ってあげることになった。

我が家はこうやって書いていると、トラブルだらけのように思われる。
最近はこれでも平和なほうだ。
このころの方が、今よりしんどかった。
今思い出すと笑えるけど、当時は笑えなかった。

入院して、当日の午後から促進剤の投与が始まった。
当日はほとんど進まなかった。
翌日朝から、また促進剤の投与が始まる。

他の階から夫が来てくれて、腰をさすってくれた。
でも、全然きかない。
ベテランの看護婦さんの手だけが、わたしの腰の痛みを和らげてくれた。

けれど、翌日も産まれなかった。

入院して翌々日。
あれ以上の痛みを人生で経験することはないだろう。
大きな男の人がわたしの腰に思い切り鉄のトンカチを叩きつけている、そんな痛みだった。
その痛みに耐えていると、30秒が30分のように感じる。
いつまでも時間が過ぎなかった。
死をすぐそばに意識した。
チビが出産した時のことを思い出した。

その日の夜に、やっとのことで子宮口10cmになり分娩室に移動する。
で、下半身裸のままそこで数時間放置された。
痛みは続いているけれど、隣の分娩室でもお産が始まっていて、看護婦さんが常にそばにいるわけではない。
部屋は明るくて、痛くて情けなくて泣きたくなった。

それでもなお、わたしのお産はなかなか進まなかった。
他のお産がすべて終わったのか、分娩室に人が集まり始める。
そうかと思ったら、今度は集まりすぎだった。
長引きすぎた陣痛を警戒して、今度は帝王切開に切り替えるかどうかの判断が始まっており、お医者さんが3人くらい待機しているのだった。
看護婦さんも含めて10人弱くらい、今度はプレッシャーだった。

ヨガの呼吸と同じ呼吸を看護婦さんに褒められながら、お産はそこから数時間続いた。
出産が始まるときに「いつもの」と用意した謎の台に飛び乗った女医さんが「ふんっ!!!」とわたしのお腹を渾身の力で押す。
それがダメ押しとなり、やっとの事で長女は生まれた。

「0時1分です。」

10人弱分のがっかりしたようなため息が、漏れきこえた。
そう、日をまたいでしまったのだ。

まぁそんなこんなで、長女は無事生まれた。
長い間わたしの腰をさすっていた夫は、点滴を指した腕の血が逆流してしまっていた。

そして、たぶんそのころ、チビは息を引き取った。
誰も、そばにいてあげられなかった。

翌朝、エサをあげに行った夫が発見した。
夫は自分が入院したあたりからチビの体調が悪いことに気づいていたけど、わたしには言えなかったらしい。
そして、毎日エサをあげながら、わたしの退院まで保たないかもと思っていたそうだ。

退院するときに、夫に聞いた。

わたしは、チビが子どもを守ってくれたのかなと思った。
わたしはもう命が当たり前でないことを知っていたから。

これにも書いたけど、自分の子とは思えないほどに、長女は神々しくひたすらに美しかった。
長引いたのにも関わらず、健康体で元気だった。

退院して帰ったそのうちに、チビはもういなかった。
小さな命を抱きしめながら、いえに残る痕跡を探した。
けれど、そこからまた始まる育児に忙殺されて、泣くことも忘れた。

チビと暮らしたのは10年足らず。
もうすぐ我が家の宇宙人は9歳になり、チビの年齢を追い越す。

チビに会いたい。
チビの背中を撫でた感触を今でもわたしの手は忘れない。
尻尾を触られるとぞわぞわするらしく、触るたびに背中の毛を逆立てていた。その尻尾はかぎしっぽで、先の3cmくらいが90度曲がっていた。
それを触るのが好きで、いやがりながらも知らんぷりして触らせてくれた。
拗ねてるとき向ける背中も、ふわふわして丸く見えるほっぺが実はシュッとしていることも、抱いた時の軽さも柔らかさも、何もかも。
今でも鮮明に思い出せる。

わたしは、チビを喪って、宇宙人と暮らすことになった。

チビと宇宙人は似ている。

自由で、愛らしく、自分勝手で、すぐにどこかに飛んでいってしまう。
そう、長女はわたしの分身のようだと書いたけど、チビの分身のようだ。

産まれたばかりの赤ちゃんを抱きしめながら、チビを思って泣いた。
その子が今、大きくなってわたしを困らせている。
チビと同じように、宇宙人はコントロールがきかない。
だからこそ、愛おしいのだ。
その子がその子であること。

宇宙人は、我が家に未来を持ってきた。
あのとき、チビとそのまま今まで通りに暮らす平穏、ではなくわたしは新しい未来に進むことを選んだのだ、たぶん。
それまでのわたしには、明日はなかったし、いらなかった。
あの日から、わたしは未来を考えるようになったのだ。

チビは野良猫としてうまれて、最後まで野良猫だった。
ちょっとおとなしくして一緒に行こう、とはならなかったのかもしれない。

でも、宇宙人を連れてきてくれたのはチビだ。
チビは宇宙人の手をひいてきて、わたしにその手を渡した。

いや、逆かもしれない。
チビは隣でわたしの手をひいて歩いてくれていて、わたしの手を宇宙人に託したのかも。

もし生まれかわれるなら、チビと一緒にいたい。
今度は、明日とかなくていい。
毎日、チビと鮮やかでカラフルな毎日を過ごす。
雨にうたれたり、寒さに凍えたり、暑さにやられたりしながら、生き抜く。

そう思うくらい、チビが大好きだった。
どんなふうに生きたいか、そう問われたら「野良猫みたいに」と答える。
わたしは、猫に憧れていた。
猫になりたかった。

でも、人間になってしまった。
今は、チビが連れてきた宇宙人の母になってしまった。

だから、もうちょっと生きる。
チビ、待っててね。


書きながら、頭の中をずっとこれが流れてた。



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