見出し画像

ボードゲーム(における|の)植民地主義 その1(COLONIALISM IN AND OF BOARD GAMES: PART ONE)

本記事は、2021年2月15日、The Daily Worker Placementというウェブサイト上で投稿された「COLONIALISM IN AND OF BOARD GAMES: PART ONE」の翻訳である。カナダのトロントを中心としたゲーマーにより運営されているサイトのようだ。

本記事は、上記のウェブサイトのメンバーの1人であるNicole H.氏が執筆した記事である。彼女の大学での専攻や、カナダという国の歴史的な事情が元となってこの記事を書いたようである。

さて、前情報はこれくらいにして、本文をご覧いただければと思う。その2は、できる限り早く翻訳しようとしているが、いまだに手がつけられていない。気長に待っていただけると幸いだ。

元記事は以下のリンクを参照されたい。ヘッダー画像は著作者不明(公的資料)として、Digital Commonwealth上に挙げられており、かつ、ほぼ確実にパブリックドメインとなっている「A New and correct map of the British colonies in North America」を引用している(なお、Boston Public Libraryでは、19世紀アメリカの興味深い商業アート等がみられる。)。

子供の頃は、自分が遊んだゲームの大きな文脈について考えたことなんてなかった。ほとんどのボードゲーマーもそんなことしてないと思う!「人生ゲーム」や「モノポリー」が我が家の定番(standards on my table)だった。そして、歳を重ねてもなお、ボードゲームが描写している世界、社会の歴史や規範をボール紙とゲームの駒に持ち込んでいることについてなんて考えもしなかった。私たちを取り巻く世界から何ら触発されていないゲームなんて本当にほとんど存在しない。人類は、自分たちが知っているもの、見ているものを取り込んで、それを芸術に吹き込んでいる(infuse)。それが、ゲームやテレビ番組のような構造化されたもの(structured)であろうが、演技(performance)や絵画といったより深遠なもの(esoteric)であろうが同じことだ。こういった物の見方(bias)やゲームの中に問題のある描写が不意に現れることに気づき始めたのは、ずいぶん歳を重ねた時だった。人類学を学んでいたことがこの方向に後押ししたことは間違いないし、コンベンションやソーシャルメディアでゲームについて議論する機会を得たことによって、植民地主義のようなテーマについてより批判的に考え始めることができるようになった。

この点をもう少し深くみてみると、ゲームとゲームにおける世界や歴史の描写の関わり合い方を考えることはとても魅力的なことだ。遊びながら、望ましい価値観(values)、歴史、そして私たち自身を学ぶことができる。こういったことが交差する場所(intersection)では、植民地主義的なテーマの含みを考える場合、特に関連性がみえてくる。こういった(※植民地主義的なテーマの含みの)描写をしたゲームを体験して気づく価値観とはなんだろうか。遭遇することになるのは誰の歴史なのだろうか。そして、なによりも、白人のホビーゲーマーのグループであることが明らかな私たち自身に関することを学んでいるのだろうか。もし、こういったことをもっと理解できるのであれば、真にゲームの物語(the narratives)を変えることができるように思う。

ほとんどの人は、植民地主義が招いた過去の非道さを把握することができない。それは、先住民の人々にとって壊滅的な影響を与え、奴隷とされた人々の貿易に直接つながるものであったし、今でもそうなっている。土地、人々、文化が奪われて抹消されるか、より劣悪な状態となった。植民地主義は、第一にヨーロッパ、そして主にイギリスから多くの場所において、帝国と権力によって推進されている。長い間、イギリス連邦(Commonwealth)に属する2つの国に住んでいたこともあり、植民地主義の影響と、それがどんな状態で今でも続いているかを目の当たりにしてきた。私は、ゲームそのものに限らず、もっと広い意味において、ボードゲームという趣味における植民地主義の影響について考えてきたところ、これについて腰を据えて分析したいと思う。

まず、歴史的に何が植民地主義を駆り立てたのかを少しみることから始めよう。しかし、ここでの主要な要点は、世の中に植民地主義的な影響力を通じて帝国主義がどれほど深く浸透しているかを調べることだ。もちろん、ボードゲームにさえも。ゲームの中で植民地主義がどのように表現されているかとか、(好むと好まないにかかわらず)ゲームの参加者をどのように表現しているかとか、(おそらく入植者や植民地の住民たちの子孫として)プレイヤーである私たちがこういった要素からどのような影響を受けているかとかといったことについて分析したい。この記事での私の目標は、こういった点を問いただして、卓上ゲームにおけるこの種の考え(genre)が広まっていることや、(作り手側であれ遊び手側であれ)ゲーム愛好家としてこれを批判するために何ができるかについて、理解を深めることにある。そして、こういった考えについていえば、ゲーム業界に有益な変化がみられることを願っている。

世界中で拡大と侵略が繰り広げられた有史時代において、生物学的本質主義と社会的ダーウィニズムという現代の物語によって、権力者は、他の人種に対して、"生物学的に有意に異なっており、こういった違いが価値の序列をもたらす"とみなすことができた(注1)。こういった物語は、植民地の拡大と暴力によって影響を受けた。植民地主義の基本的な定義をみると、歴史上で広くみられた他国の人々や彼らの資源を"征服して支配すること"と表現されることが多い(注2)。しかし、それ以上に、植民地主義は、盲信された(believed)優位性の結果として、主に人々とその文化に影響を与え、"植民地支配をされた人たちに、支配国の文化と習慣"を押し付けるものだ(注3)。Boritら(注4)は、McLeod(※John McLeod)を引用して、どこか新しい場所に入植者たちを入植させる際に、植民地政策において実行していた支配の形式を具体的に検討している。携帯ビデオゲームに関連するものではあるが、Euteneuerの"入植による植民地政策は、単一の定義可能な出来事に分類されるものではないが……入植者達が、先住民の生活や先祖から伝わる特定の場所とのつながりを犠牲にして領土を拡大しようとする継続的なプロセスである"という指摘は、重要な考察となっている。プロセスや構造としての植民地主義は、歴史的な形をとっていたとしても、いまだにこの2021年においても生き生きと活動している。

ゲームプレイやテーマにおいて、どれほどゲームに植民地化の思想とふるまいが植え付けられているかを検討すると、潜在的(tacitly)であるか否かを問わず、社会、西洋的な価値観、そして西洋で既定された(default)"優位性"という歴史的又は現代的な考えを表現していることが非常に明白であるように思われる。これだけでなく、植民地をテーマにしたゲームにおける"勝利"という本質も、他者に対する優越(dominance)という考えと適合する。"現実の"生活を表現しているかどうかを判断するために、植民地をテーマにした3つのゲーム(「プエルトリコ 」、「ストラグル・オブ・エンパイア」、「Archipelago」)を検証する中で、Boritら(注4)は、"この3つのゲームにおける全てのアクションと選択肢が、植民地テーマに関連した実際の状況やアクションと合致しているように思われる"ことを見出している。こういったゲームにおいて、文字通りか比喩的かであれ、歴史を表現する話法があることは間違いないし、私たちはそこで表現されている歴史的な現実からさほど遠く離れた場所にいるわけではない。ゲームが、現代においては深く隠されてしまっている、植民地主義を何ら疑問としないというイデオロギーを正常化しているのを見てしまっている。

そうすると、なぜ、私たちは、植民地主義を称賛して、ボードゲームを用いてこの種の歴史的な優位性を再現するのだろうか。比較的白人の多いホビイスト(hobbyists)の集団である私たちが、先祖の多くが"自らの優越性を確信"(注6)しながら参加した歴史や現実世界の植民地主義の影響から距離を置くことができるのはなぜだろうか。私たちは、どのようにしてうまく自分自身を引き離すことができるのだろうか。私は、ゲームのテーマ、語り口、それにプレイヤーに与える影響(特に、世界中の他者の見方)について批評するにあたって想像した以上に"単なるゲームだろ"という言葉を繰り返し聞いてきた。こういった影響は、遊びと現実、歴史と現在との間にみられる断絶を考えると、自覚されないことが多いかもしれない。遊びという行為は、本質的に暴力的であったり、抑圧的であったりすることはない。しかし、そこには、無視することができない結び付きがある。遊びは、私たちの価値観や、こういったゲームとか価値観とかがもつ影響(consequences)を考慮する意欲があること(もしくは意欲がないこと)を他者に伝えることもできる。人間は遊ぶように組み込まれている。社会的なやりとり(social interaction)、適切な行動、モラルを学ぶことは、幼少期の発達にとって不可欠なものだ。あなたが(※遊びに興じている)人々(年齢は問わない)を見て、"あいつらは遊んで楽しんでるだけで、真剣ではないな"と思ったら、その人たちは、あなたが目の当たりにしているとおり(※皮肉的な物言いをしている。)、学んで変化している可能性が高い。そのとおり、私たちは、楽しむために遊ぶことが多い。しかし、大抵、表面下ではそれ以上のことが起こっている。遊びは、娯楽(recreation)であり、"別の創作活動(re-creation)でも"あり、それは、社会に内在する価値観の再演(dramatization)である(注7)。私たちが自覚しているか否かにかかわらず、ゲームは意味を作り出し、影響を与える。Bogost(注8)は、このことを"手続的レトリック"とか"ルールを通じた説得の技術"とかと呼ぶ。"勝者により書かれた歴史“という考えを検討する時、私たちは、ゲームによって、人類の歴史として長いこと共有されてきた、この歪んだ見方を長く持続させるように説得されているわけだ。もっと強く言えば、こういった現象は本質的に邪悪なものだ。しかし、私たちは、遊んでいる多くのゲームにおいて、不完全な視点が多く含まれていることを認めなければならない。私たちには、ゲームそのものという文脈の中で、そのことを認識する様々な機会が与えられているわけではない。

もちろん、植民地をテーマとしたゲームを遊ぶことで、プレイヤーは、ゲーム以外の場面でそういった活動に従事するように駆り立てるといった洗脳を受けるわけではない。(一般的にいって)こういったゲームを行動の指針として用いはしない。しかし、批判的な目を持たずにゲームをプレイすることによって、植民地主義の行為と結果について暗黙のうちに受容してしまっていることは無視できない。ポストコロニアルのゲーム研究という広い学問分野では、"帝国の価値体型を遊んで訓練するものとしてのゲームという十分に批判検討された議論が……今までに数多くある"(注9)。プレイヤーは土地を奪っておらず、先住民の虐殺に関与していない。プレイヤーはキューブを動かしたり(pushing)、カードで遊んでいる。しかし、間違いなく、こういったようなゲームの設定の裏にある文脈を認識しなければ、歴史上のあらゆる人々に関する問題のある表現を超えた特権を行使する(ride our privilege)ことができてしまう。

そうすると、私たちは、実際の植民地支配の恐怖や暴力がゲームの中で描写されていることを滅多にお目にかからないということになる(「Colonialism」はこの原則の例外であるようだが。)。むしろ、"典型的には、個々のプレイヤーの達成目標の部分、つまり、建物、開発、富の蓄積といったテーマ性をもった目標において強調される"(注10)。わずかな例外を除けば、入植と植民をテーマにしたほとんどのゲーム(「カタン」や「スモールワールド」のような、タイトルのみといったかなり表面的なレベルにとどまるゲームから、「モンバサ」やら「Goa」といったもっと"真剣な"ゲームの深い部分まで切れ込んだものまでを含む。)は、植民地主義がどれほど直感的で(visceral)長く続くものであるか(という考えから)断絶させるために、多くのことを実行している。プレイ時におけるゲームと物語の不協和音(ludonarrative dissonance, ※ゲームにおいて、ストーリーによって語られる物語性とゲームプレイを通じて語られる物語性が一致していないことを指す。Ludologyとnarrativeを複合した造語であり、定訳はなさそうであることから、直訳調で訳している。)として知られているものであり、"ゲームのストーリーが、ゲームそのものの根底にあるメカニクスからして一致しなくなる瞬間"ことである(注10)。ポッドキャスト「Ludology」の最新回(※230回の「Design Re-Verb」)を聞いていたら、これ(※ゲームと物語の不協和音)が植民地主義的なテーマを大量に含んだボードゲームの中でたくさん見てきたものであるということが、私にとって明らかなものとなった(そして、この考えに触発されてこの文章を書こうとしたのは間違いない。)。実際に、Boritら(注4)は、このゲームと物語の不協和音を体験することや、"ステレオタイプな入植者の目を通した、道徳的に疑問のある過去を再現することに参加するようプレイヤーを誘うこと"によって、"勝者により書かれた歴史"的という非常に一方的な方法で、世界や歴史に対する認識に影響を与えることになる。

この議論の第一部をまとめる前に、私自身や他の"ボードゲームメディア"のライターや批評家がこの種の話題にどう臨んでいるかについて考えていきたいと思う。さまざまな理由から、レビューや他のメディア形式において広範に、ゲームにおける植民地主義のテーマに係る批評はほとんどお目にかからないのが普通だ。"単なるゲームだろ"という繰り返されてきた戯言が卓上で聞こえてくるのがその理由の一つだけれども、批評的な視点でゲームを見ようとした際に聞こえてくる"ゲームに政治を持ち込むな"というのがその理由である可能性が高い。ゲームプレイについてだけでなく、テーマについても当てはまる。興味深いことに、"映画、文学、テレビ番組、音楽といった他の大衆文化における批評とは異なり、ゲームレビュアーは、コンピュータゲームから政治要素を取り除く傾向がある"(注6)。私は、ボードゲームのコンテンツにもますますこの現象に酷似していっていると思う。ユーロゲームというジャンルに変化を望むのであれば、加担したり黙っていたりすることはできない。変化を起こそうとしていたり、何か違うことをしていたりするゲームに光を当てなければならない。大好きなものを批評するのは、改善や発展を見たいと思うからだ。そして、私は、卓上ゲームにおいて、それが起こることを本当に望んでいる。

ゲームとプレイヤーの相互作用について検討したが、先の話に進む価値があるように思う。つまり、一歩下がって、この議論全体における、特定のテーマ、ゲーム、それにデザイナーをみていく価値があるように思う。私は、ゲームにおける植民地主義について全般的に探究してきたが、更に深く掘り下げるだけでなく、ボードゲームそれ自体やボードゲームという趣味がどのように植民地主義的になったのかを見ていきたいと思う。ここまで興味を持って読んでくれてありがとう。そして、来週、ボードゲーム(における|の)植民地主義に関するこの議論のフォローアップを読んでくれることを願うよ。

参考文献
ヘッダー(※冒頭の)画像:1886年の大英帝国の範囲を示す帝国連合の世界地図(Norman B. Leventhal Map Centerから)

注1 イブラム・X・ケンディ「アンチレイシストであるためには」(2019)

注2 アーニャ・ルーンバ「ポストコロニアル理論入門」(1998)

注3 Butt, Daniel. 「Colonialism and Postcolonialism」(2013)

注4 Borit, C, et al.「Representations of Colonialism in Three Popular, Modern Board Games: Puerto Rico, Struggle of Empires, and Archipelago」(2018)

注5 Euteneuer, J「Settler Colonialism in the Digital Age: Clash of Clans, Territoriality, and the Erasure of the Native」(2018)

注6 Osterhammel, Jürgen & Frisch, Shelley L 「Colonialism : a theoretical overview」(1997)

注7 Scott, JKL. 「Dissuasion, Disinformation, Dissonance: Complexity and Autocritique as Tools of Information Warfare」(2015)

注8 Bogost, I. 「Persuasive Games」(2007)

注9 Murray, S. 「The Work of Postcolonial Game Studies in the Play of Culture」(2018)

注10 スチュワート・ウッズ 「ユーロゲーム ― 現代欧州ボードゲームのデザイン・文化・プレイ」(2012)

あとがき

私は、ミシサガズ・オブ・ニュークレジット・ファーストネーション(the Mississaugas of the Credit First Nation, ※カナダにおいてイヌイット又はメティ族以外の先住民をファーストネーションといい、この共同体のことのようである。)を含む、ウェンダット族(Wendat)、ホデノショニ連邦(Haudenosaunee Confederacy)、アニシナベク族(the Anishinabek Nation)の先祖の土地である、Tkaronto(※カナダのトロントの起源とされている言葉のようであるが、この呼称が話題になったようである。)に住んでいることを認識したいと思う。そして、ここは太古から現在に至るまで彼らの土地であり続けた。私は、白人入植者として、ここカナダでも、母国であるオーストラリアでも、歴史の解決の難しい部分の結果であると自覚している。和解と補償のためにできることは全てするつもりだ。

もし、自分が居住している土地が誰のものか知りたいのであれば、Native Landというウェブサイトを見て詳細を調べてみてほしい。もし、自分のエリアの先住民族のグループとコンタクトすることに興味があるのであれば、そのウェブサイトからリンクされている多くの資料がある。また、女性や若者のグループを見つけるかもしれない。家族や若者の組織は、特にボードゲームの寄付をしたい場合には、そういった第一歩としては最適だ。

以上

※この記事に関連するものとしては、以下のものがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?