ボードゲームにおける非対称性とバランス調整(Asymmetry and balance)
"ボードゲームレビュアーが陥る3つの大きなバイアス⑴・⑵"や"9タイプの困ったボードゲーマー"を書いたAnthony Faber氏のBGGの記事を翻訳した。
上記の記事を読むと、Anthony氏は、ボードゲームの戦略的な面やメカニズム的な面ではなく、ボードゲームにまつわる周辺的な事柄(社会的な面)について意見を述べる人というイメージを持つかもしれない。
しかし、それは、訳者がそのような記事を選別したにすぎない。むしろ、Anthony氏は、戦略的な面やメカニズム的な面を歴史的に紐解いていきながら、熱く意見を述べることが多い。
さて、本記事はそのようなAnthony氏の記事の中でも、出色のエッセイである。普段から重いゲームを遊んでいる方にとっても面白いものであろうし、ゲームを創作している方にとっても有益と思われる。
なお、ヘッダーの画像はGJ様ものを使用している(noteのみんなのフォトギャラリー機能を利用)。また、本文内の画像はBGGから引用しており、それに伴いクレジットを付記している。
元記事は以下のリンクを参照していただきたい。
もし,あまりの文章量に目がかすんでしまったら,この著者のポッドキャスト「Two Wood for Wheat」を聞いてほしい。そこでは、クラシックユーロゲームであるコンコルディアの新しいデジタル版についてレビューしている。
このエッセイのポイントをいうと、ゲームにおいて多様性(variability)とバランスを同時に達成することは難しいということになる。デザイナーは、しばしば難しいトレードオフを実現しなければならず、それにより、人を満足させたり、嫌がられたりする。人気ゲームの歴史を少しばかり見て回って(take a brief tour)、多様性とバランスという観点から、(デザイナーが)どのような選択をしたのかを見ていこうと思う。
クレジット: W. Eric Martin
なぜ、私がこのトピックに興味を持ったか。様々な人たちが、ガイア・プロジェクトのような、非対称性の強いプレイヤー能力と豊富なセットアップ(highly variable setups)が一緒になって搭載されたゲームに対し、同じような批判を繰り広げている(leveled)。要するに、これらのゲームは、特定のセットアップ下において、ある特定の種族(factions)を他の種族よりも優遇している(feature)点が悪いゲームデザインであるという感じだ。だから、このような微妙な差異(nuance)を理解してない新規プレイヤーは、当人が預かり知らないまま勝手に(arbitrarily)開始時点で不利な立場に置かれてしまう。そのようなゲームバランスの悪さ(inbalances)に対処しようとして、特定の能力を得るために勝利点を入札していく上級オークションバリアントを実装しても、自分のゲームのバランスを適切に取ろうとしないデザイナーによる安易な(lazy)選択として捉えられてしまう。この批判の多くは、デザイナーが決断しなければならない苦渋の選択についてあまり理解してないことが原因で、完全に性質が異なるゲームの多様性やバランスを検討することにより
、このような決断を真に理解できるようになる(illuminate)と感じている。
クレジット: Mark Farr
最終的にガイア・プロジェクトの話に戻るが、まずは大きく異なるゲームといえるチェスから始めよう。スタート時のセットアップが完全に固定されていて、プレイヤー固有の能力(variable player power)がなく、先攻プレイヤーに有利という点を除きほとんど運要素やバランスの悪さがない、極めて大きな成功を収めた戦略ゲームの例としてこれ以上のものはない。単純なシステムには、アブストラクトの空間ゲームで起こり得るような膨大な多様性と深さが備わっていて、チェスで可能な駒配置は、宇宙の星の数よりも多い。
このことにより、信じられないほどの人気を得た不朽のゲームが創作されたが、欠点がないわけじゃない。ゲーム開始時の多様性が完全に欠けると、ゲームの序盤が台本どおりの定石ばかり(scripted)となってしまう。こういう台本どおりの開始手番を研究したプレイヤーは、そうじゃないプレイヤーより大きく優位に立つことができ、広範囲に及ぶ開始手番の研究はトッププレイヤーにとって義務となる。膨大ともいえる機械的な手順の暗記がゲームの結果に大きな違いを生むという考えは、当然、多くのプレイヤーのやる気を削ぐ。他方、このことが、プレイヤーの駒のスタート位置を混ぜ合わせた多くのチェスバリアントの創作につながった。
評判良い1つの例は、元世界チャンピオンのBobby Fischerにより考案されたチェス960と呼ばれるゲームだ。そのゲームは、駒のスタート時のあり得る配置が960通りあり、ランダムで選ばれるというシステムを採用したという特色がある。これにより、特定の開始手番の研究を完全に不要とするのに有効だった。しかし、チェス960は、うかつにもゲームバランスを崩してしまい、誰が先に動くかという、チェスが有するたった1つの小さなバランスの悪い点を増幅させてしまう。通常のチェスでは、白い駒のプレイヤーが少し有利となる。チェス960では、スタート時の配置の中には、(先攻の)白側にとって実質的にほとんど有利にならないものもあれば、後攻の(黒色)プレイヤーにとって非常に悪い配置になることもある。このことは、ほんのわずかな非対称の要素を備えた多様性をシステムに加えると、ゲームバランスに深刻な問題が生じ得ることがはっきり示される。
クレジット: W. Eric Martin
さて、最初の大きな人気を博したユーロゲームであるカタンについて検討していこう。カタンは、現代ゲームにおける可変式のモジュラーマップを実装した最初の例の1つということもお気付きだろう。ほとんどのプレイヤーが賛同してくれると思うが、毎ゲームで同じセットアップとなったら、カタンはずいぶんつまらないゲームと感じるだろう。ただ、カタンにおける可変式のセットアップに、わずかばかり不公平感があることは、否定できない。スタート時の開拓地の配置をスネークドラフトで決めても、プレイヤーは自分が悪いわけでもないのに、若干良い場所に置くこととなっなり悪い場所に置くこととなったりしてしまう。
このことがカタンにおいてとりたてて大きな問題となってない理由の1つは、ゲーム中のリソース獲得がより大きく運に左右される(the larger role of luck)ことで目立たなくなっているからだと考えられる。自分の開拓地や都市の位置がわずかに有利であることよりも、自分の開拓地や都市にどれだけ有利なダイスの目が出るかのほうが重要であるということだ。今日では、経験豊かなプレイヤーほど、比較的長時間ゲームにおいて、強い運要素を好まない。しかし、モノポリーのようなゲームしかゲーム経験のない新規プレイヤーにとって、多くのダイスを振る長時間ゲームが運要素だけのクソゲー(deal breaker)になると断罪することはできないだろう。いずれにしても、リソース獲得のために種々のダイスロールを組み合わせたカタンの可変式セットアップは、新鮮で予想不可能なゲーム体験を維持した上で、ほとんどのカタンプレイヤーに対し、完全な公平性やゲームバランスについてあまり気を取らせないようにしている。
クレジット: 削除済みのユーザ(https://boardgamegeek.com/image/38668/ticket-ride)
さて、現代のゲートウェイゲーム(※ボードゲームにのめり込む入口となるようなゲーム)の巨匠である、チケット・トゥ・ライドでは、スタート時の路線を決める最初の手札を引くところに若干の運要素がある。これには非対称性がみられるものの、ランダム性を減らしていることがわかる。運要素は、列車カードを引くという形式としてゲーム中に現れるが、カタンにおけるダイスよりも間違いなく運要素が低くなっている。ただ、基本ゲームのチケット・トゥ・ライドにはそこまでの多様性はなく、経験豊かなプレイヤーであれば、例えば、南北路線よりも東西路線のほうが有利であるといった、このゲームのもつバランスの悪さも発見してしまうだろう。
要するに、このゲームの多様性がやや欠けている点が、プレイヤーに「もっと多様性を」という欲望をかき立てている。そして、この場合、独立拡張や純粋な拡張として新しいマップを買わせるという完全な商業的解決策を用いて、その欲求を満たしている。新しい路線のパターンにより、新しい戦略が出現する。このゲームは、もっと買わせることで、スタート時の多様性の少なさという問題を解決させている。これを批判的に思っているわけではない。みんなと同じように、新しいマップは好きさ。
クレジット: Claudia Barmbold
このモデルがより複雑なゲームでは通用しないと思う人は、史上最も愛されている中量級のユーロゲームの1つであるコンコルディア(BGGでは18位。※現在(2021年11月)は19位)をみてみると、同じモデルを採用している。コンコルディアはルート構築のマップドリブン(マップ駆動)ゲームで、プレイヤー固有能力はないものの、リソースの配置についてほんの少しのセットアップの違いしかない。毎回のゲームでわずかに違うデッキを構築できるが、毎回プレイヤーは、概ね同じ場所で同じことをすることができる。したがって、しばらくすると、新鮮なプレイ感を維持するためにもっとマップが欲しいと考えるようになる。
サルサ拡張であろうがヴィーナス拡張であろうが、拡張は、当然、ゲームに多様性も増やす。私は、そこまで拡張好きではない。というのも、特に、拡張が、ゲームの初めから考えられていたというより、むしろその場しのぎのもの(※原文では、at hocとなっているが、ad hocの誤記である。)として考え出されたものであれば、元々のゲームデザインとうまく調和する保証はないからだ。ただ、大抵の拡張は、多様性を増やすことに成功していると思う。
クレジット: Werner Bär
プエルトリコは、優れた基本のゲームシステムを備えた独創的な現代ボードゲームの例となる。唯一の欠点は、いつも同じ方法でセットアップがされてしまうところにある。上質で奥深いゲームではあるが、チェスのように、スタート時の多様性のなさが序盤の台本どおりの定石につながってしまう。私はプエルトリコを遊んだことがあり(ほかのゲームについても聞き及んでいるが)、最初のラウンドのミスをすると、卓の周辺で経験豊かなプレイヤーから不満の声が上がっていた。つまり、(ミスしたプレイヤーの)後手番のプレイヤーの勝利がほとんど決まるのがわかってしまう。このような問題は、あまりにもプログラム化されたプレイを防ぐ可変式のセットアップの力を証明することになる。
ユーロゲームの草創期における多くのゲームは、多様性とゲームバランスの両方に対処するために、競りといった単純なメカニズムを使用していた。デザイナーのほうから値付けをせず、プレイヤー自身に値付けさせることでゲームバランスを取っている。当時から、Reiner Kniziaが多く(の競りゲーム)を製作しているなど、素晴らしい競りゲームはたくさんある。もっとも、ゲーマーは、どこにでも競り要素があることについて当然皮肉るようになり、頻繁に安易なゲームデザインを選択したと評するようになった。
このことに、現代ボードゲームにおいて序盤から洗練された(smooth)プレイ体験が求められるようになったことが加わって、競りゲームの衰退につながった。今日では、最初の(相場が)よくわからないまま競りに参加し、そこから起こる災難に対処しようとする忍耐力のあるプレイヤーはほとんどいない。洗練されていない(rough)初回プレイを提供してしまったら最後、(プレイヤーは)次のゲームに移ってしまう。
クレジット: Juma Al-JouJou
今まで述べてきたことを全て踏まえると、プレイヤーが、クランズ・オブ・カレドニアやガイア・プロジェクト/テラミスティカのような、固有のプレイヤー能力をドラフトするバリアントルールを含んだ現代ゲームを耳にした時に、皮肉めいたことや嫌悪感を露わにする原因をうまく説明することができる。まるで、デザイナーが最初から適切に能力間のバランスをとることを悩んですらいないかのように、そのこと(固有能力をドラフトするバリアントルール)を搭載することが安易だと、プレイヤーに思わせてしまう。
しかし、非対称性の強いプレイヤー固有能力と全く異なった初期セットアップの両方についてバランスを考えなければならない、このような複雑なゲームにおいて、この種の競り要素は、おそらくたった1つの実現可能なバランス調整の方法である。
例えば、ガイアプロジェクトにおいて、青い惑星に隣接した次元横断惑星が多めにあると地球人が強くなり、少なめだと弱くなってしまう。このことは、地球人の能力のデザインと、モジュラーマップにより毎ゲーム違う場所に違う惑星が配置されることの双方が分かち難く関連している(is baked into)。可変式のセットアップを止めるか、地球人の固有能力を取り除くかしない限り、このことを変えることはできない。
そしてさらに、ここからの話は議論の火種となるが、このバランスの悪さは問題がないだけでなく、実のところ、このことがゲームをユニークで特別ものとして成立させている要素でもある。あらゆるセットアップ下においてどの能力が最も強いかを見極めることは、ゲームの中の上質で面白い要素だ。非対称性の強い能力や可変式のセットアップを搭載したいかなる複雑なゲームにもよく当てはまる。このようなゲームを創作することによって、セットアップのバランスの悪さに打ちのめされる新規プレイヤーやあんまり経験を積んでない(casual)プレイヤーよりも、ゲームの機微を発見する経験豊かなプレイヤーを優遇していることになるんだ。
クレジット: Frederic Diebold
2段落目(※本文の頭にはPodcastの宣伝があるので、実質は3段落目になる。)で話した内容に戻ると、今まで話してきたことが、断固として悪いゲームデザインだと言う人たちは、Simone Lucianiのマルコポーロの旅路やマルコポーロ:大いなる帰還について考えてほしい。これらのゲームには、あり得ないくらい非対称性の強い能力と幅広い可変性のあるセットアップを搭載している。同時に、Lucianiのゲームの中で群を抜いてバランスの悪いゲームでもある。セットアップの中には、特定の固有能力に対して非常に有利に働くものもある。このことは、Lucianiがこれらのゲームに対して安直なゲームデザイナーであることを意味していて、よりバランスの取れたゲームにおいては、勤勉に取り組んだってことになるんだろうか。さもなければ、これらのゲーム(※マルコポーロ2作)は、はなからバランスを取ることがほとんど不可能だったってことなのだろうか。
"バランスの悪い多様性のあるゲームは悪いデザインだ"勢の言うことは、半分当たっている(half a point)。つまり、経験を積んでないプレイヤーやゲームのセットアップについて戦略を考えることを楽しめない人たちにとってみれば、悪いゲームデザインとなる。しかし、そのほかのより経験豊かなプレイヤーにとってみれば、良いゲームデザインになる。言い換えるならば、多分、"良い"ゲームデザインとか"悪い"ゲームデザインとかという話ではなく、誰向けのゲームを創っているのかに関する、ゲームデザイナーが決断しなければならない選択にすぎない。経験豊かなプレイヤーに向けた重く、非対称性のゲームには需要があることは明らかだ。ガイア・プロジェクト、テラミスティカ 、クランズ・オブ・カレドニア、ユーロ圏外に目を向けたいのであれば、トワイライト・インペリウムやルートのようなゲームに対してどれだけ多くの評価がされているか(そして、いかに高い評価を得ているか。)を見るといいだろう。
クレジット: Kyle Key
他方、はるかに多様性のないゲームデザインを採用しており、(ただ、ほとんどの後続作品では多様性を増やす方向でちょっとした工夫していると主張したいところだが)メカニズム面で多くの後続作品を生み出した、息の長い人気作であるプエルトリコを見るといい。今日のユーロゲームでは、多様性を低めるゲームデザインを採用するものはほとんどないが、物語をベースにしたり、レガシーだったり、ほかの"1回きり"(one shot)のゲーム(EXIT 脱出 : ザ・ゲームを念頭に置いてほしい)だったりといったゲームの盛り上がりを見ると、ほとんど多様性やリプレイ性のないゲームが今日でも成功を収めている(thrive)ように思える。
ゲームが成功を収めるには、単に完璧なメカニズムの組み合わせを実現するだけでなく、それ(組み合わせ)自体がどんなもので、ゲームや受け入れてくれるプレイヤーにどのように働くかということを知らないといけない。BGGのランキング上位のゲームをみれば、複雑そうなタイトル、楽しく遊ぶには経験を積まないといけないような可変式のゲーム、血も涙もない(unforgiving)ゲーム等の"難しい"ゲームがたくさんある。他方、ウイングスパン、エバーデール、Parksのような、多くの人々をこの趣味の世界に惹きつける、心が広くて(forgiving)、より洗練されたゲームもほんの少しだけある。
それどころか、誰からも好かれるようとしているゲームにこそ、バカにされてしまいがちのように(tend to attract derision)思う。一定のストレッチゴールを達成したら、5つ以上のプレイヤー固有能力を付けることを約束するような、ありふれたKickstarterのプロジェクトについて考えてみてほしい。私が主張しているように、バランスをとることはちょっと不可能なことで、バランス調整を軽視しているように思う。そういった固有能力は、より奥深く面白いゲームになるように十分なテストプレイをしたのだろうか、もしくは、リプレイ性を増やすための無駄な努力の一環として、一度試してみて次に進むための要素を付け加えてるだけなのだろうか。ほとんどのゲームは、多くの非対称の能力なんて必要としていない。そうしたいのであれば、面白くて程よくバランスのとれたゲームにするに当たり追加の労力を要することになる。そうでなければ、ただゲームを複雑にするだけで、奥深さも楽しさも生まない、(Kickstarter的なゲームだよねという)固定観念と一致する要素に成り果てるだけだ。
さて、たとえ私に異を唱えたいと思うような事柄であっても、これまで話した内容から何か面白いと思うものを見つけられたら嬉しい。私は、簡潔なカタンへの言及以上に、多様性の議論の中でランダム性/運についても言及しようと思った。(※原文ではthoughだが、thoughtの誤記)。けど、そうすると、エッセイの主題をわかりにくくしてしまい、とてもじゃないけど収集のつかないことになりかねない(too big of a can of worms to open)ということがわかった。下記のコメント欄に思ったことを書き込んでほしい。いつもと同じだけど、ここまで読んでくれて感謝。
以上
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