その一つの要素がゲームを損なう(When that one thing ruins a game)
本記事は、2022年5月27日、Anthony Faber氏が投稿した「When that one thing ruins a game」の翻訳である。
Anthony Faber氏の記事をよく翻訳しているが、この記事は、彼が今まで論じていた文章を再編成したような内容となっている。本記事は、Anthony氏の好みをはっきりさせるために書かれたものではあるが、今までの記事を読んでいる人にとっては既知なことが多いだろう。
新しくAnthony Faber氏の記事を読む人にとっては、彼のボードゲームの批評に対する基本的なスタンス(好み)を知ることができる。これまで、Anthony氏の記事を読んできた人にとっては面白みがないかもしれないが、今まで論じていなかったゲーム(最新のゲーム)について語っているところに新規性があるかもしれない。
元記事は以下のリンクを参照されたい。ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。
もし、読むよりも耳で聞きたいという人は、Two Wood for a Wheatの最新回でこの話を聞くことができる。そこでは、相方のPatの分も含まれているので怒りの声が2倍になっている。また、「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」のレビューも含まれている。
大部分はすごく気に入ったのに、たった1つだけ明白な欠陥(glaring flaw)のあったゲームに出会ったことはあるかな。つまり、1つのメカニズムが野暮ったくて(annoying)、ゲーム全体が自分にとって楽しいあまり合わなかったというときだ。十分な量のゲームをプレイしてくると、こういったことが起こる。この現象に関して興味深いなと思うのは、こういった強烈な嫌悪感を覚える瞬間が、何よりも明白で即座にゲームにおける自分の好みをさらけ出してくれることだ。この点に関する私のバイアスもすぐさま明らかになる。でも、すぐにネタバレ(spoilers)になってしまわないよう、私的に1つの要素がゲームを損なうことになったゲームの一覧を見ていこう。
「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」/「テラフォーミング・マーズ」
今まで製作されたユーロゲームの中で最も人気のある2つのゲームについての批評から始めよう。両方のゲームに対する不満は一致しているから、両方を合わせて挙げたよ。その不満というのは、2時間30分のゲームにしてはカードの引き運が強すぎることだ。私がプレイしたほとんどの場合において、「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」と「テラフォーミング・マーズ」の両方とも、ゲームの途中の段階で誰が勝つか99%の確実性でわかってしまう。つまり、こういったゲームの大半のプレイ時間に、緊張感や楽しさがほとんど含まれていなかった。「レース・フォー・ザ・ギャラクシー」のように、20分しかかからないタブロービルドゲームにおいては、この種のカードの引き運を気にすることはない。そういったゲームでは、勝者が明白になっても、ほんの少しだけプレイしなければならないかもしれない。しかし、「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」と「テラフォーミング・マーズ」はそういった態度をとるには長すぎる。もう一度配って遊び直すにしても手間がかかりすぎる。
また、戦略の追求が、強いストレスに感じる可能性もある。「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」の最初の手番で、霊長類のシンボルが場に出ればお金をもらえるという後援者カードをプレイできる。ゲームの最初に手札にある霊長類のシンボル2つを必要とするカードも数枚持っている。そして、その後援者カードを使用すれば、そういったカード(※霊長類のシンボルのあるカード)をたった1枚だけ手に入れるだけで、素晴らしいコンビネーションが展開される。だけど、残りのゲーム全体を通して引くことができるカードの中に、もう1枚の霊長類のシンボルのあるカードがないことも十分にあり得るわけだ。各ゲームにおいて、山札のごく一部しか見ることができない。そうすると、あるプレイヤーの戦略に必要な特定のカードが全く現れないで、他のプレイヤーが求めていた全てのものを手に入れてしまうなんてことが時々起こってしまう。山札を循環させてもっと多く手札を引こうとする能力は、この運(※の強さ)と帳尻を合わせるにはあまりにも貧弱すぎる。
もちろん、別の戦略に移行することができるし、こういったゲームにおいて(※戦略)を変えることは重要なことだ。しかし、新しい計画にうまく乗り換えたとしても、最初から最後まで完璧に戦略が功を奏しているプレイヤーに打ち勝つわけではない。
公平のためにいうと、テーマ的にも、メカニズム的にもこれらのゲームの他の多くの点は好きだ。特に、「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」が「シドマイヤーズ シヴィライゼーション:新たな夜明け」から見事に取り出した、素晴らしい5枚のカードアクションシステムは好きだ。だが、「テラフォーミング・マーズ」においては、少なくとも、自分のカードが引けない場合、森をプレイする方向に転換できる。「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」では、動物をプレイすることから逃れることができない。
多くの人が、これらのゲームについてこんな風に感じていないってことは素直に認めるよ。これらのゲームの人気は、プレイする多くの人たちがこういったランダム性を気にしないし、ゲーム中にそんなに頻繁に起こらないことを示している。これらのゲームにおいて、運が大体同じくらいで、それが最後の最後まで続いて(came down to the wire)、最後に誰が最善手を打ったかで決まるといった素晴らしいプレイを体験したことがある。けど、毎回、どんなカードが舞い降りてくるかわからないので、どちらのゲームも私にとってはかなりムラがあるといえる(uneven)。
「Stone Age」/「Kingdom Death: Monster」
こんなに異なる2つのゲームを結びつけるのはとても馬鹿らしいから、この2つのゲームを1つのリストとしてまとめたんだ。けど、あらゆる種類のゲームに及んでいる、メカニズムを分解するような(resolve)ダイスロールが、どれほど好きではないかということも見せたかった。「Stone Age」において、資源を得るためのダイスロールがどうしても見過ごすことができない(can't get past)。私が選択したワーカーの配置場所と同じ場所を別のプレイヤーが選ぶとして、そのプレイヤーはサイコロの出目が悪かったから少ない資源しかもらえない? これがあまり好きではない。このゲームでのばらつき(the variance)は、通常、そんなに大きいわけじゃないことはわかってる。けど、どうしても納得できないよね。
「Kingdom Death: Monster」にいたっては、もっとよろしくない。このゲームでは、まあまあな(okayish)戦闘システムと、素晴らしくて革新的な(groundbreaking)街の建設システムがある。素晴らしいゲームの根源(The roots)がこのゲームにある。しかし、意味のないランダム性があまりにも多くある(random nonsense)。戦闘後に、プレイヤーはダイスロールをしなければならないかもしれない。そして、そして、1の目が出たら、自分のキャラクターは地面の裂け目に落ちて死んでしまう。テーマ性のあるイベントがあるわけでもない。ただ、このゲームは決まりが悪そうに「このゲームは難しいから、みんな死ぬがいいさ!」と考えられるなかで最も安易な(laziest)方法で伝えようとしてくる。このゲーム以外のあらゆる他のシステムであれば、高い確率でキャラクターが死んでしまうにしても、より公平で的確なものになるだろうさ。
ここで簡潔に補足すると、ある傾向に気づいたかもしれない。それは、私がランダム性を理由にゲームを毛嫌いしているということだ(killing)。最初に述べたとおり、このリストによって私のバイアスがかなり明確になる。私は、ゲームの長さや重さとに比して不釣り合いなくらいランダム性が多いように感じるゲームを好まない。もっと微妙な違いを言う(give more nuance)とすると、ランダム性によってゲームがより多彩になる(variable)のが好きだ。だが、私は、そういったランダム性の中に緩和(mitigation, ※ランダム性に対する救済策的な意味合い)や戦略が含まれている場合を好んでいる。「マルコポーロの旅路」は、プレイヤーがワーカーを置いた場所からどのくらい多くの資源を得るかについてダイスロールで決めるという点で、「Stone Age」に似ていると指摘されるかもしれない。しかし、「マルコポーロの旅路」は、サイコロを振り直したり、ダイスの目を変化させたりする方法があるし、低い目に対して特定の利益を与えるし、高い目に対してはペナルティを与える。要は、ダイスの目の多様性(diversity, ※ゆらぎ的な意味合い)から全体として巧妙なシステムが作り上げられている。「Stone Age」においては、低いダイス目は悪くて、高いダイス目は良いというだけで、緩和や戦略があまり含まれていない。
「Revolution!」
実のところ、私は、ゲーム中のブラインドビッド(blind bid, ※握り競り)を気にしない。私が気になるのは、競りに勝つか否かを問わず賭け金全部を失うことだ。このことは、2009年に発売されたこのゲーム(※「Revolution!」)において起こっている。その他の点では、巧妙なエリアコントロールと競りの融合(mashup)を実現しているんだけどね。実際、このゲームは、先ほどのゲームで述べた緩和のないランダム性が嫌いだということの延長線上にある。他のプレイヤーが何をしようとしているのかを推測することは、技能というよりもランダム性が強いことが多いと感じる。このことは、数人の友人と遊んだ「凶星のデストラップ」というゲームを思い出す。このゲームで、私はエイリアン役で、ゲームの毎手番、友人のJonの居場所を正確に当ててしまい、勝負がすぐに終わってしまったんだ。笑ってしまったのは、Jonが、私が居場所を推測するのにとてもイライラしたので、最後の3回とも全くのランダムに居場所を選んだんだけど、それでも私は当ててしまったんだよ。もう2度と遊ぶことはないだろう。
話の要点は、二重思考(doublethink, ※ジョージ・オーウェルの「1984」の話ではなく、単純に自分の行動と相手の行動を考えること程度の意味と思われる。)のゲーム、つまり、彼女は私がここに行くだろうと考えているから私はそこに行くが、彼女は私がそこに行くとわかっているので私はここに行くというのは、個人的に、ダイスを放り投げるのと同じくらい実質的にランダムであると感じられるということだ。ゲームがうまく推測できるかどうかに大きくかかっている場合、「Revolution!」のように遊びたくなくなる傾向がある。
ゲームの長さも重大な要素だ。「ポーカー」が大好きで、「クー」も遊ぼうと思うんだけど、こういった類のブラフゲームはかなり短いプレイ時間となっているし、みんなの意図を解明する(trace)ために十分な量の様々なハンドを必要とすることが多いので、より技能が問われることになる。
「ダイナソー・アイランド」/「イニシュ」/「サイズ -大鎌戦役-」
なぜ、この異なる3つのゲームを1つのリストにまとめたかって。まぁ、今回は、ランダム性に関する話じゃないんだ。この3つのゲームは、いずれもプレイヤーがゲームの長さをコントロールできるんだけど、個人的にその方法は納得できないと感じる。
「ダイナソー・アイランド」については、直近で2回プレイしたけど、初回は3時間以上かかって、2回目は30分だった。初回では、どのプレイヤーも、ゲームの最終終了条件を満たすことに利益があるとわからず、ゲームが延々と続くことになった。2回目は、プレイヤーの誰かが、このゲームをどれだけ早く終わらせることができるか確かめようと決めて、プレイヤーのほとんどが1匹も恐竜を得ることなくゲームが終わってしまった。
これには2つの問題がある。まず、3時間かかるか、あるいは30分で終わるかというゲームとなると、スケジュールに限りがある人たちにとってみれば、実際の予定に支障が生じてしまう。2つ目に、どちらの場合もあまり楽しいと感じられないことだ。初回では、ゲームが終わるまでが長いので退屈してしまった。そして、2回目では、多くのことができたという満足感を覚える人は誰もいなかった(それに、尋ねられたときに備えていうと、「ダイナソー・アイランド」にいる不良ども(hoodlums)も好きじゃないね。)。
「イニシュ」は、ゲームが早く終わったりかなり間延びしたりする可能性があるという似た問題を抱えている。このゲームの場合、プレイヤーはまさに勝利するところでその旨を知らせて、他のプレイヤーはこれを阻む機会が与えられるというシステムと関係している。このゲームにおける問題の一部は、誰もプレイヤーを止めることができないときに勝利に向けてレーダーをかいくぐるような(about sliding under the radar to a win)、政治的・タイミング的な能力(skill set, ※スキルセット)に、私がのめり込めないということだ。それに、ある意味で(partly)、恣意的なだけのようにみえてしまう。すなわち、他のプレイヤーが、(※勝利宣言をした)プレイヤーを阻むのに適切なカードをちょうど使い果たした時に、切り抜けた人が勝者となることが時々ある。
「サイズ -大鎌戦役-」は、ゲームの長さに関して大きな差(huge time disparities)がないが、プレイヤーがコントロールした突然の終了に不満を覚えることが多い。反応したり、最後の手番に組み入れたりする余地ない。ゲームがただ終わるだけだ。手番順は基本的にランダムで、そのことに対する埋め合わせ(compensation)もないので、二重に雑(doubly rough)だと感じてしまう(手番順はプレイヤーボードによって決まり、初手プレイヤーがやや不利になるようにしなければならないはずだが、初手プレイヤーから時計回りに手番が行われる。)。つまり、ゲームを終了させたプレイヤーは、少なくとも1人の他のプレイヤーよりも多くの手番を行う可能性が高い。このことは、ゲームの勝者を決めるにあたって大きな違いをもたらし得る。
Jamie Stegmaier自身も、とても面白いデザインに関する後悔を語る動画(※この動画)の中で、「サイズ -大鎌戦役-」における最大の後悔は、他のプレイヤーに最後の手番を行う機会を与えなかったことだと認めていた(彼はデザインを改める(redesign)動きを許可しなかっただろうけど。)。そうすると、この不満は、少なくとも出版社自身からちょっとした賛同を得られているように思う。ただ、彼(※Jamie Stegmaier)は、可能なルールの微調整を施したとしても、なお残ってしまう手番の不均衡については何も言及しなかったけどね。
「ダウンフォース」
この作品について議論していたDecision SpaceのPodcastには敬意を表する。「ダウンフォース」は、主要な戦略性を伴うゲームの代表をしてくれる。つまり、この点に関連して、みんなが嫌な思いをする「A Few Acres of Snow」やその他のあらゆるゲームを持ち込んでも(※「ダウンフォース」に代入しても)いい。
このゲームの場合、レースに賭けを組み合わせるというとても巧みなカーレースと競りのシステムが実装されている。問題は、自分自身の車に賭けるのが基本的には最善手となり、その車を勝たせようとすることにある。もし、自分が他のプレイヤーの車に賭けていたとする。そのプレイヤーが同じ車(※そのプレイヤーの車)に賭けていても、(※自分とそのプレイヤーは)同じように賞金を得るので、自分はそのプレイヤーを妨害しようとはしなくなる。そして、自分が他のプレイヤーの車に賭けたが、自分の車が勝った場合、それ以外のプレイヤーが自分の車に賭けていたら、それでも自分は負けてしまうかもしれない。したがって、ゲームの大半において、みんな自分の車に賭けるのを見てきた。他の車に遅れて賭けても、2位にはなるかもしれないが、1位にはなれないかもしれない。
注意してほしいのは、別の人気のレースと賭けのゲームである「Long Shot: The Dice Game」では、賭け金がより変動することから、プレイ中に同じ問題が起こらない。つまり、馬主であることから得られる払戻金(payout)を遥かに上回るほどの大金を1頭の馬に賭けることができるわけだ。
最後に
このリストの趣旨が、私が悪いと思ったゲームの不満を述べるためであったり、こういうゲームに問題があるという私の主張の正しさを認めさせたりするためではないということを明確にしておきたい。このリストの趣旨は、私の考えやバイアス、あるいは私がゲームにおいて何が好きで何が嫌いかを明らかにするためであった。そして、他の人たちが同じような好みなのか検討できるように案内するためでもある。
多くの人にとって、「テラフォーミング・マーズ」や「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」のようなゲームのテーマや、楽しい気分になるゲームプレイの流れが、カードの引き運に関する懸念よりもはるかに上回っている。さもなければ、カードの引き運は、ゲームごとにバリエーションが生まれるし、弱いプレイヤーにチャンスが与えられるということから、好ましいとさえ考えられている。多くの人にとって、プレイヤーがゲームの終了をコントロールすることは、決まったラウンド数(a set number of rounds)をプレイするよりも遥かに面白いようだ(実際のところ、私は、プレイヤーがゲーム終了をコントロールする多くのゲームを楽しんでいる。)。多くの人たちにとって、「Kingdom Death: Monster」のようなゲームにみられるランダム性の高いイベントは、心を躍らせるようだ。
そして、多くの人たちは間違っていない。私が嫌だと感じることは、彼らにとってはそうではないというだけだ。
みんなはどう思ったかな。ゲーム中に見過ごせないようなイラッとする(pet peeves)ことは何かな。野暮ったい部分を除けば、心の底から楽しめるゲームはどのゲームかな。下のコメント欄で教えてくれい。
以上
※本記事と関連するAnthony Faber氏の記事として、以下のものがある。
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