戦争論-文明・文化

100分de名著から「戦争論」を述べていきたい。第1回は近代的戦争の誕生。著者は人類学者のロジェ・カイヨワ(1913年~1978年)、講師は東京外大名誉教授で哲学者の西谷修氏。ここはTVの流れに乗るべきかも知れないが、私は私の道で出合えた多くの想いを載せたいと思っている。

あなたは力を付けて鰯玉の最奥へ隠れたいと思うかも知れないし、大方の人も恐らくはあなたと同じ感覚だろうな‥こう書かれた記事にムカつく人は多いだろうし、だけどそれだけの人は詰らない。私はといえば、詰らない人で在りたくなくて、それで肯定的に肯定する姿勢の私でゐたい。

ロジェ・カイヨワも西谷修氏も、ご本人は肯定的に肯定する姿勢のようで、ただ心やさしく気遣いなさってて、ムカつかせる言動をお取りにならないだけだろう。だけど戦争論を語る場でストレートな物言いを避けるなら戦争賛美者のように多くの人に賛嘆される気がする‥これ私の理解ね。(*´з`)

ま、私の目的は誰かをムカつかせることでないから、この後はヴェールを被せておいて、ほとぼりが冷めたころに公開させていただきます。もちろん、無料公開です。私は、これで結構気を使うタイプなんです。(^_^;)

番組案内役・伊集院光氏にいつも感じるのが負けん気ですが、氏の年齢ももう51歳9か月で、如何ともしがたいのを覚えてらっしゃるかも。ですがその負けん気も私には素敵に思えて決して失くさないで欲しいのです。負けん気にも善悪があって彼なら善に肩入れできるのでなかろうか‥なのです。

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さて、カイヨワの人物像に関心を以って軽く検索。彼の立ち位置は反ファシズムのようだ。第二次大戦時は祖国フランスへ帰ることが叶わず、戦争の悲惨さを生身で味わうことは少なくて、異国の地から傍観するしかなかった。戦争に憑りつかれたような世界を観察するなかで「戦争論」に至った。

(私には)状況を科学的に分析する手法は西洋文化が得意とする所と想える。科学は手元の情報に引きずられるとき偏頗な結論に導かれる。そういった部分はカイヨワにも観られるようだが、その事実を割引いても彼の「戦争論」は面白く想える。結局、(私は)カイヨワに引きずられてはなるまい。

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人類学を言うならやっぱり生物学まで遡らなければなるまい。私は現代文明の知識や現代文化の知恵に触れる機会を得て、カイヨワは私ほどの機会を得なかった事実の差はある。だからカイヨワを分析する機会が私へ巡ってきたとも言える。カイヨワを唯々受入れるだけの私では余りにも能がない。

文明は平和の産物である‥カイヨワは「戦争論」の中でこう述べたようだ。西洋ではそう想われているのかも知れず、カイヨワはその思想にウッカリ染ったのかも知れないが、私の箱庭園芸の実態はそうでないことを示す。カイヨワのお陰で文明文化の私なりの意味付けができたことは有難い。

ナメクジ(に限ることではないが)は(私との)戦争の中で文化度を上げている。そんなナメクジとの戦争で私の文明に磨きが掛っている。戦争は平和の謂いなのか?私は戦争を平和と捉えずに、戦争を悲惨と捉える。他者を殺して快感を覚える者はゐるかも知れないが、私はその快感を健常と想えない。

カイヨワのは人類学、私のは生物学と言い逃れしたい人へ、カイヨワのは特異な例、私のは普遍的でしょうね。その者の文化(度)が上ることでその者の文明に磨きが掛る。文化 即 生きる知恵。例は他にもある。弱い日本蜜蜂はスズメバチをやっつけるが、強い西洋蜜蜂はスズメバチの敵ではない。

弱いから負けるのでなく、強いから勝てるのでもない。だから弱肉強食でない。生き残るために文化(度)を上げる戦いが肝心です。文化(度)を上げるためには多種多様な仲間の存在こそが絶対有利となる理屈。盗っ人が仲間になれば空き巣の被害を受け難くなる理屈はお分りになるでしょう?(#^.^#)

カイヨワの戦争論の弱点が見えたあなたの文化(度)は上がったのです。逆にカイヨワは素晴らしいと盲目的な知識人は西洋蜜蜂と同じ、大事な仲間を捨てて、烏合の衆と化し、スズメバチに向かっていって皆殺しの目に遭う。それじゃ私の箱庭園芸のナメクジの文化より酷いかも知れないね。笑。

第一回の講義の学習は一旦此処で置きます。浮かれてるとカイヨワの逆襲を浴びて旧日本軍の二の舞ですから、褌の紐をしっかり締めて参りましょう。

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