『Beep21』 セガハード開発者当事者が訊く! 真・セガハード列伝 -文責 : 戸崎健司-
「セガハード列伝」がさらに奥深く本物に!
セガのハードについては過去いろいろな形で
当時の話が世に出ていますが、
『Beep21』では今まで世に出ていないような
セガハードの話題をお届けしてきました。
▼セガハードのコードネームの当時の秘話
▼幻のハード”プルート”のスクープ記事
▼メガドライブ2開発秘話
▼6ボタンパッド開発秘話
もちろんセガハードの父である
佐藤秀樹氏インタビューもセガの
家庭用ゲーム機の歴史としては見逃せません。
今回から「セガハード列伝」は
さらに深く、当時の真相に迫り
後世に語り継げる内容にするべく
新しいスタイルへと進化します!
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当時のハード開発者自らがセガハード設計者に訊く!「真・セガハード列伝」がスタート!!
『Beep21』ではサウンドクリエイター
古代祐三氏が当時のレジェンドたちに
直接インタビューをしていく
「古代祐三が訊く!」が好評連載中ですが
この企画と同じように
当時のセガハード開発者が
それぞれのセガハード設計者に訊く!
新連載をスタートします!
実際のセガハード開発者が、
当時の設計思想や今までに
世に出ていない裏話などを
訊いていくこの新連載。
本物の当事者が、より専門的に
訊いていくことで、今までになかった
本物の話をお届けしていきます!
そんな新連載のナビゲイターとして
登場するのは、当時のセガハード
設計者であった戸崎健司氏。
戸崎氏はセガハード専門誌
『セガサターンマガジン』や
『ドリームキャストマガジン』でも
何度も誌面に登場し、たくさんの
開発秘話を世に出してくれた方です。
セガの家庭用ゲーム機の歴史を現場で
見てきた、まさに"本物の証言者"でもある
戸崎氏が、持ち前の鋭い視点と
当時の人脈を生かし、セガハードの
真実に迫っていきます。
もちろん戸崎氏自身も
その当事者の1人として、
膨大な裏ヒストリーを順に
明かしていってくれる予定です。
注目の今後の掲載予定記事はこちら!
本連載の企画段階の戸崎氏のメモ書きを
少しお見せすると...
世の中に出なかったハードが山ほど存在し、
動作サンプルまで作ったものや、
製品化直前だったもの、そして
アイデアだけで終わったもの...
そんな、世の中には知られていない
数々のプロダクトエピソードも、
当事者だからこその開発秘話として
お届けしていく予定です。
おそらく世界初公開の話題も満載の
この「真・セガハード列伝」は
みなさんからのご質問にも
当時の関係者がお答えしていく企画も
予定しています。
セガマニアならずとも
家庭用ゲーム機の歴史の真実として
見逃せないこのシリーズ。
いよいよ今回からスタートします!
というわけで、今回はその導入編。
ここからは、戸崎氏にバトンを渡し、
まずは自己紹介がてら、戸崎氏の
当時の話をお届けしていきます。
【戸崎健司】セガ家庭用ゲーム機事業の歴史を見てきた~周辺機器開発チームマネージャー〜
私がセガ・エンタープライゼスに入社したのは、1988年の春。メガドライブが発売された年でした。
そこから10余年...。セガを退職したのは2001年。Dreamcastの製造中止を発表し、セガが家庭用ゲーム機事業から撤退した年でした。その間、いつしか社名も株式会社セガ・エンタープライゼスから、株式会社セガに変わっていました。
13年間、セガの家庭用ゲーム機の開発部門に在籍しましたが、その間にセガはメガドライブ/ GENESISで大飛躍し、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」で一瞬世界を制し、Dreamcastで終焉を迎えてしまう...。そんなセガ家庭用ハードの浮き沈みを最前線で見てきました。家庭用ゲーム機ビジネスが急速に事業拡大し、セガの名前は世界的にも有名になりました。そしてゲームファンの誰しもが、最後に「セガってゲーム機で失敗した会社だよね…」と記憶することになりました。
このダイナミックな激動の動きのまっただ中にいた時は、とにかくいろんな体験をしました。当時は「それ」が当たり前の日常のようでしたが、今にして思えば、普通のサラリーマンでは体験できないような経験をしてきたんだな、と感じます。
自分たちが創造したものが、数百万台も生産され、世界中に輸出され、店頭のショーケースに並ぶ...。つい2ヵ月前まで会社ですったもんだしていたものが、工場でじゃんじゃん生産され、コンテナに詰め込まれ、船で運ばれ、いろんな国で販売され、世界中のお客様の手に渡っていく…。それによる売上、そして利益はすさまじい金額だったと思います。そんなプロダクトに関われる人なんて、世の中を見回してみると、実はそうそういないのだと思います。
普通のエンジニアでは体験できない、見聞きすることすらできないような最先端の技術や、研究機関も現場で見てきました。
とにかく「新しいこと」にすぐに飛びつくセガ。世界トップクラスのテクノロジー企業が、研究中のモノを見せにきてくれました。すごい技術なんだけど使いどころがない技術でも「とりあえずセガに持っていこう」。当時の工業界では、そういう風潮すら本当にありました。
そして、これはおそらく私のポジションからすれば、本当に特殊なことだったと思いますが、役員の方々ともかなり近い距離で接する機会も多かったと思います。場合によっては、大きな会社にありがちな社内政治や、パワーバランス、経営的な話や財務的な話などにもリアルに触れたり、見聞きすることも多かった、と思います。そんな状況も、もしかしたら普通のサラリーマンでは得られなかった経験だったのだと思います。
どれも、本当にいい想い出です。
ビデオゲームの歴史の大事な一コマを遺すために
セガを辞めて21年。風化して腐りそうな昔話となりつつありますが、しかし、最近思うのです。こんな面白い経験をしてきたのだから、そろそろ誰かに伝えていくべきではないか。セガというものすごい会社で体験してきた話を誰かに伝えることで、セガの本当の歴史を残すことにもなるのではないか、と。そして、それはビデオゲームの歴史の一コマを遺すことでもある、と。
いやね、普通、サラリーマンが20年以上前に退職した会社のことについて、今さら思い出して記録に残そうなんて考えないでしょう?
セガという会社はそれほどまでに、まったくもって不思議な魅力を持つ会社であり、今も色褪せないような仕事をさせてもらったのだと思います。辞めてから20年以上経つのに、今も不思議な気持ちにさせてくれる。セガとはそんな会社であり、そして、今もとても感謝しています。
だから。そんなセガでの話を少しずつ書き残しておこうと思います。
今回の企画はそこから始まりました。
あらためて自己紹介と経歴を
そんなわけで、自己紹介兼ねて、まずは私の経歴を振り返っていきます。
学歴は高等専門学校(いわゆる高専)の機械工学科。卒業研究は熱力学。将来は、ホンダかヤマハでF1エンジンを設計するのが夢でした。当時は典型的なバイク・車好きの青年でした。
余談ですが、学生の頃からホンダで楕円ピストンのNR500エンジンを設計し、後にセガの社長に就任した入交(昭一郎)さんの名前は知っていましたし、エンジニアを目指す者として入交さんは憧れの人物の一人でした。そんな憧れの人の元で将来働くことになるとは…。
学校を卒業する頃、自動車産業は「構造不況」と呼ばれ、新卒採用を制限していました。自動車のエンジニアになるという夢はあっさり閉じられました。そんな中、ゲーセンでは「ハングオン」や「アウトラン」にハマっていて、セガという会社の名前は知っていました。
たまたま求人票にセガの名前を見つけ、セガを受けてみたくなりました。当時はゲーム会社なんて、(世間的には)あまり"まともな会社"とは認識されていなかったので、学校の教官からは「再考」を促されましたが、「3年で辞めるつもり」ということでセガを受験したら、サクっと採用されたのでした。
1988年4月にセガ入社
セガと言えば「ハングオン」「アウトラン」というイメージが強かったので、配属は当然AM開発部門だと思っていました。ですが私は、機構設計エンジニアで入社した4人の同期の中で、唯一家庭用ゲーム機部門への配属が言い渡されたのでした。
実は入社が決まってから、セガにもファミコンがあることを知りました。いや違う。家庭用ゲーム機があることを知りました。それくらい、(個人的には)セガと家庭用ゲーム機には馴染みがなかったのです。マークⅢ?マスターシステム? なんだそりゃ?でした。
セガに入社した後に手がけたのが以下のものです。
今にして思えば衝撃だったのが、メガモデムの機構設計でした。いつの間にか私がチームリーダー的な立場になっていて、説明書の制作からゲームアプリのリリースまで関わりました。セガ初のネットワークゲーム「ゲーム図書館」を作ったのは、実は今やPlaySstation 5のハードウェアアーキテクターのマーク・サーニーでした。彼と一緒に仕事をしたことは本当に思い出深いです。
この頃は「商品企画部」という名目で、新企画の製品を研究していました。その中にはセガサターンの本体デザイン開発も含まれています。これについては、本連載の中で当時の担当者を交えた座談会で語る予定です。
非常に様々な技術をリサーチし、テクノロジー企業、製造会社とのコネクションも広がりました。このころの活動によって、センサー技術への知見も深まり、それはのちの製品開発の基礎となりました。
またAMメカトロ研との交流が増え、VRの研究にも着手したのもこの頃でした。海外の展示会や、アメリカ法人のセガ・オブ・アメリカに何度も訪れたのもこの頃です。
企画研究業務から、製品設計に徐々に比重が変わってきたのがこの頃。商品企画部から第2開発部へと名前を変え、周辺機器を開発しました。
なお、ゲーム機本体は第1開発部が担当していました。この2つの開発部は、本体と周辺機器とで区別されていました。
これからのゲームコントローラーのスタンダードを作るというテーマで、セガサターン用アナログコントローラーを開発。ここでセンサー技術の知見が活かされました。
一方、Dreamcastの企画、基礎研究がスタートしたのも実はこの頃です。ゲーム機本体のデザインスタディを繰り返し、コントローラーのコンセプトを思案していた時期でもありました。
周辺機器をインターフェースからすべて開発し直すという、かつてない大規模な範囲での開発を推進。さらに複数の周辺機器開発チームをマネジメントするという...今思うと、どうやって仕事を回していたのか、もはや意味がわからない状況でした。
当時30歳。よくやったもんだ、と思います。
営業部門との商品企画開発のリレーション向上のため「マーケティング部を兼任してほしい」と、営業側と開発側の役員から当時打診され、軸足を開発部門に置いたまま、マーケティング部も兼任することになりました。開発だけではなく、営業の業務を肌で感じ、家庭用ゲーム事業の収支や市場動向についてもかなり理解が深まりました。
1年の兼任をしたあと、これまでずっとお世話になっていたセガ家庭用ゲーム機の始祖である、佐藤秀樹さんが副社長COOに急遽就任されることになりました。社長は、当時のセガのオーナーである大川功さん。しかし、大川さんは病気療養中で、実務では佐藤さんに大きな負担が掛かることは、容易に想像できました。これは大変なことになった(?)と思い、直訴をして社長室業務も兼任することに。社長室は、社長や副社長のサポートを行い、他の役員や事業責任者との連携を調整するのが業務です。実質、副社長をサポートするのが仕事になります。
大胆な行動でしたが、10年以上勤めてきたのだから、そろそろ好きに動きたいと思っての行動でもあったと思います。
社長室では、グローバルでのゲーム機事業の採算、海外法人の収支などを知ることができました。そして家庭用ゲーム事業どころか、セガがちょっと危機的な状況になっていることもわかりました。
2001年1月にセガは家庭用ゲーム機事業(※ドリームキャスト)の撤退を発表しました。私が軸足を置いていたゲーム機の開発部門は、ストレートに言えば会社にとって不要となりました。そうです。リストラの対象です。
セガに残ることもできましたが、ここでやれることはもうやりきった。そう思ってセガを退職することにしました。
振り返って見れば、退職前の3年間が怒濤でした。普通、一部上場企業で勤続10年くらい程度の30歳の若造が「副社長のことが心配なので、社長室に行かせてください」と言って、聞き入れられるようなことは絶対ないでしょう。
普通では体験できないことを体験させてくれて、私を成長させてくれたセガには、本当に感謝しかありません。セガの次に転職した会社でも、セガとの関係が続き、セガの製品を開発していました (※以下はその一部)。そしてその次の会社でも、セガの某アーケードゲームの重要な部分の開発に関わっていたりもしました。
セガとこんなに長く縁が続くなんて、想像もしていませんでした。「3年で辞めるつもりで」と軽く受けて入社したセガでしたが、人生何があるか本当にわからないものです。
次回予告! 幻のメガドライブレーシングコントローラー!!
さて、セガの家庭用ゲーム機の
絶頂期と最期を見届けた戸崎氏。
次回からはそんな戸崎氏をナビゲーターに
当時のセガハードの当事者に「訊いていく」
連載が始まります。
セガハード開発当事者が訊く!真・セガハード列伝
にぜひご期待ください。
第2回の次回は
「幻のメガドライブレーシングコントローラー」についてです!
当時の開発記録を公開しつつ
幻となったメガドライブ用
レーシングコントローラーの真実に迫ります!
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