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セガレジェンドクリエイター・鈴木裕 特別インタビュー『セガハードヒストリア』コンプリート版

『Beep21』の創刊号(パイロット版)では、
セガハードヒストリアに収録された
インタビューの中から、セガ家庭用ハードの父
とも言える、佐藤秀樹氏のコンプリート版
インタビュー
を掲載しました。

セガハードの「レジェンド」
佐藤秀樹氏だとするならば

セガのソフトの「レジェンド」の筆頭は
やはりこの鈴木裕氏が挙がってくると言えます。

1985年の「ハングオン」以降、
「スペースハリアー」「アウトラン」
「アフターバーナー」などで
セガの名を多くのゲームファンに知らしめ
セガファンを生み出したレジェンド中の
レジェンドが語る当時のセガ。

セガのアーケードでヒット作を連発し、
CG時代には「バーチャファイター」
シリーズや、壮大なスケールの
「シェンムー」など、開発チームの
AM2研とともに時代をリードした鈴木裕氏

セガのレジェンドクリエイターが
当時のエピソードを1つずつ明かしていく
コンプリート版インタビュー。

当時の話をぜひじっくりと
お楽しみください。
今回の記事はこちらもぜひあわせてご覧ください!

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【鈴木 裕(すずき ゆう) 1958年6月10日生】「最近は基礎研究ですね。いろんなこと、やりたいことを、やってます。モバイル、コンソール、PCなど広範囲に。最近は昔と違って、開発支援ツールが豊富ですから。そういったものも使いながら、あとはいろんなアセットを研究したりして。今は手軽に実験もしやすくなってるので、いろいろことを試すのに良い環境ですよね。最近はAIという言葉が一人歩きしている感じもありますが、昔から思考論理みたいなものは興味があったので。僕ん中じゃ、思考論理をシミュレーションする程度のものから、ファジーみたいなもの、思考論理っていうものなど、そのへんも含めて、興味ある分野ですね」といつもの笑顔で裕さんは楽しそうに語ってくれました。

入社当時のセガの雰囲気とセガを選んだ理由

──まずはセガに入社した当時(1983年)のお話をお伺いしたいのですが、その当時のセガというのはどんな感じでしたか?
鈴木
 僕が入った頃は、平屋の社屋(※「物流棟」と呼ばれていた建物。その詳細は以下の記事で詳しく解説されている)がありましてね。元々セガは外資系だったので、当時はいろんな書類がみんな英語だったんですよ。イシューシート(※発注書)とか、いろんなことが全部英語で書かれてて。ちょっと不思議な会社だなと思ってました。僕は開発に配属されたんですけど、最初はソフト(開発)と、 アートのことを「デザイン」と呼んでたので、「ソフト」と「デザイン」と「サウンド」のどれにしますか?と聞かれて。3つとも興味があったんですけど、「ソフトがいいんじゃない」って(当時の上司の吉井さんに)言われて、ソフトに入ったんです。今でも記憶にあるんですが、(この当時は)ソフトウェアとハードウェアは、だいたい似たような場所にいましたね。 後のセガはハードウェアセクション、ソフトウェアセクション、さらにはコンシューマとアミューズメントといったように分かれていきますが、この当時は大きくソフトとハードが同じような場所にごちゃっと固まっていました。 

※参考記事(当時のセガ社屋の雰囲気についてはぜひこちらをご覧ください)

──それはパーテーションとかの仕切りもない感じで? 
鈴木
 自分から周りを眺めた感じだと、一カ所に 40~50人いたような覚えがありますね。で、僕はソフトとして入ったんだけど、最初の頃の仕事っていうのは「ラッピング」と言って、ハードで配線をやったり、TVを分解してブラウン管だけ取り出したりするみたいな、ソフトとはいえない(ような)仕事でした。仕事自体が、ハードなのかソフトなのか、ごちゃごちゃでしたね。文字通り「ハードワーク」というか(笑)。ゲーム用の開発機器っていうのも、ワークステーションでもなく、PCでもなく。当時のPCなんて能力も低いですから、ゲーム開発専用機みたいなものがあって。木でできたパイプオルガンチックなやつを、カッと上げると、中にキーボードとモニターがそこにあって。たぶん、アメリカかヨーロッパから仕入れてたものだと思うんですけど、そういう開発機材でゲームを自社開発してたんです。でも、 僕が入る前までは、ジュークボックスを海外から買ってきて売ったり、海外から輸入したゲームを売ってたりしていた会社だったので、ゲームの自社開発には、そんなに力を入れているわけでもなかったのですが、ちょうどこの頃から、自社で開発したゲームも増やそう、なんて雰囲気が出てきて。とはいえ、当時は開発用のコンピュータはみんなに行き渡らない状態で。1日何分間しか新人は使えないとか。そんな状態でしたから、会社に泊まったりすれば先輩のいないところで自由に使える。そんな感じでした。

※当時の開発環境はこちらの記事で1984年入社のHiro師匠が語っています。

 ──裕さんが、そもそも「セガを選んだ理由」というのはどんなところだったんでしょう? 
鈴木
 セガが完全週休2日制だったから(笑)。当時完全週休2日の会社って、珍しかったんですよ。 僕は大学が岡山だったので、面接の旅費を一泊分出してくれる会社。その会社の中の1つにセガがあったんです。 旅費を出してくれて、完全週休2日。これがポイントでしたね。本当にふざけた話ですけど、元々ゲームを作るっていうんでもなかったんで。大型コンピュータの会社を何社か受けてたんです。そうすると、悪い話受ける会社が一社増えるごとに「一泊分」ずつ浮くじゃないですか。最初はそういう不純な動機でセガを受けたんですが、そしたら面接の担当の人が結構口が上手い人で、すごくセガが面白く感じたんですよ。ああ、いい会社だなって思ってセガに決めたんです。後で聞いたら、その人は「人買い遠藤」と呼ばれていた人で、採用トークがすごくうまい人だったんですが、実際セガに入ってみたら普通は勤めてみて5年後くらいに同窓会があると、たいがいは会社の文句とか上司の文句とか愚痴を言ったりするんでしょうけど、僕の場合は幸いながら仕事が趣味みたいになっちゃって。仕事が楽しくて、会社が楽しいっていうわずかな部類の人間に幸せなことになったんですね。 

──そんな経緯で入ったセガですが、最初に作られたゲームはSG-1000の「チャンピオンボクシング」。これを題材に選んだ理由は? 
鈴木
 あまり深くは考えてないですよね。なんか「作れそうなゲームを」って考えてたら、ボクシングになったんじゃないですかね。キャラを2体動かせばゲームになるな、と思って。

© SEGA

──そこから次はアーケードへ? 
鈴木
 あの当時はアーケードが圧倒的にパフォーマンスが高いハードウェアで、コンシューマ(家庭用ゲーム機)は能力が低い。だけど、「チャンピオンボクシング」はコンシューマのわりには、デキがよかったということで、アーケードのゲームセンターにも置かれたんです。アーケードの筐体の中に、 SG-1000を入れて。配線のところにコンパネを繋いで、ちょっとロケテストしてみたらインカムが好調で。そういう経緯もあって業務用(アーケードゲーム)の体験もちょっとはしてたんですね。それで次はアーケードをやらせてみようっていう話になったんじゃないかと思うんです。 

持ち込み企画から始まった「ハングオン」

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