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『Beep21』片岡洋特別インタビュー 〜クリエイター・リユニオン・ファイルVol.7〜

過去のセガハードで多くのファンを
魅了した数々の名作、そしてそれらを
生み出してきたクリエイターのルーツと
初公開の足跡をリレーインタビュー形式で
お届けしていく『Beep21』特別企画
「リユニオン・ファイルズ」

あの名作を生み出したクリエイターの
子供の頃の話やゲーム業界をこころざした経緯けいい
なども含めた各インタビューは、ある意味
その人のにもなっています。

セガハードヒストリアのレジェンド
クリエイターインタビューは『Beep21』で
そのコンプリート版を順次掲載していますが
それらと一緒に並べて読んでいくと
読み応えも増していくと思います。

▼Vol.1〜Vol.6  過去のリユニオン・インタビューシリーズはこちらから

7回目の今回は、セガAM2研で
「ファイティングバイパーズ」をはじめ
セガサターン「ファイターズメガミックス」、
そして「バーチャファイター4」以降は
アーケードのネットワークゲームの
基盤を支え、現在もセガの取締役として
活躍中の片岡洋氏が登場。

片岡氏の視点から見た当時のAM2研の
各タイトルの裏側を語ってもらった。

ぜひ最後までご覧ください。

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【片岡 洋 (かたおか ひろし)】1967年4月生(牡羊座)。「ファイティングバイパーズ」で『セガサターンマガジン』の誌面にデビュー。以降、セガサターンへの同作の移植や、1996年末にはお祭り的ソフト「ファイターズメガミックス」も担当。「バーチャファイター4」ではアーケードのVF.NETの実現を推進し、その後はSEGA-AM2の代表取締役にも就任。現在はセガの執行役員兼技術本部本部長として活躍しており、技術本部の”本部長”として、CSの特定のスタジオに所属しない技術者集団を統括する一方で、AM開発生産本部の”副本部長”も兼任している。今回は片岡氏の意外な経歴も含めた足跡がたっぷりと語られます。

小学校はマーチングバンドのトランペットをやっていた

──片岡さんは当時『セガサターンマガジン』に最初に掲載された時にも記事を担当させていただいていたのですが、実は片岡さんのお子さんの頃のお話とか、セガに入った経緯というのは、お伺いする機会がなかったと思います。今日はそのへんのお話もしたいと思いますが、片岡さんはお子さんの頃はどういう遊びをしていたりしましたか?

片岡 そんなに特徴はないんですが、小さい頃は普通に野球をやったりとか、ザリガニったりとか。あの当時、横浜でもまだ田んぼとかありましたからね。ただこの時代って、いろんな楽しいものが世の中に出てきた時代じゃないですか。そういうものに、どんどん興味が移っていった...というのはありましたね。漫画が出れば漫画を読み、ゲームが出ればゲームをやるという感じで。

──漫画というと、作品的には?

片岡
 自分が一番覚えてるのは『ドラえもん』の1巻を、本屋に買いに行ったことですね。

──アニメからじゃなくて、単行本から?

片岡
 そうですね。たぶんあれって、小学館の雑誌の『小学何年生』とかにってたんですよ。「これは面白い」と思って、1巻を本屋に買いに行って。本屋のおじさんに「『ドラえもん』ありますか?」って言ったら、「えっ、それ何?」って言われて(笑)。今なら、本屋に行って「『ドラえもん』ありますか?」って聞いても、「何?」なんて言われないじゃないですか。まだそれほど知られてない時期でした。

──1970年代とかだと、テレビアニメとかも結構流れてた頃だと思いますが、アニメとかは?

片岡
 もう普通にいろいろ見てたと思うんですけど、一番衝撃的だったのは宇宙戦艦ヤマト(1974年〜75年)」ですね。

──それは再放送じゃなくて、最初のシリーズをリアルタイムに見てた?

片岡 普通にテレビで見てました。第1話は見逃したと思うんですけども。あとは「ヤマト」が終わったら、次は「銀河鉄道999」にいって「宇宙海賊キャプテンハーロック」という流れで。「999」の映画は徹夜して並んで観たりしましたが、本当にものすごく、いろんな影響をいろんな人に与えた作品でしたよね。

──当時はアニメブームと言われた時代でしたが、まさにあの頃をそのまま体現してきている感じですね。その他にやり込んでいたこととか、打ち込んでいたこととかはありましたか?

片岡
 勉強のことはあまり覚えていない、というか普通にやってたと思うんですけど、小学校4年の時にマーチングバンドに入って、トランペットを吹いてましたね。

──小学校でトランペットを? それは興味あって始めた? それとも親にすすめられて?

片岡
 仲の良かった上級生の影響で始めました。今でも楽器を演奏する趣味は続いています。

ゲームセンターのゲームからパソコン、ファミコン、『Beep』とのつながり

──そのへんの話は後ほどつながってきそうですね。ちなみに、テレビゲームやビデオゲームみたいなものと出会うのはこの頃から?

片岡
 たぶん、「(スペース)インベーダー」が小学校の時だったと思います。中学ではまだファミコンは出てないと思うので、小・中学校の頃はゲームセンターに行ってましたね。

──ゲームセンターでは、どんなゲームを遊んでました?

片岡 新しいのが出たら結構何でも遊んでました。「平安京エイリアン(1979年)」とか「カメレオンアーミー(※スペースウォー)(1979年)」とか「キング&バルーン(1980年)」とか、片っ端からやってました。それこそ漫画「ゲームセンターあらし」の世界ですよね(笑)。

──ゲームセンターには結構通ってた感じですか。

片岡 お小遣こづかいの許す範囲でやってましたね。ゲームセンターのメダルゲームも好きでよく遊んでいました。メダルを落とすプッシャー系だったり、競馬ゲームだったり。ゲームセンターが好きだったんですよね、きっと。

──その頃って、セガのゲームとの接点はありましたか?

片岡 たぶん、セガのゲームはやってたと思うんですよ。「インベーダー」っぽいゲームとか(※「スペースアタック(1979年)」)。セガを認識したのは、それこそ情報誌『Beep』が出た時代で、大学生ぐらいになってからじゃないですかね。

▼参考

──すると、1985年か、86年くらい?

片岡 そうですね。「ハングオン(1985年)」が出て「スペースハリアー(1986年)」「アウトラン(1986年)」、ハードでは「セガ・マークⅢ(1985年)」があって、みたいな時にセガというのを認識して。それ以前はあんまり、ゲームのメーカーとか意識してなかったと思います。

──よく遊んだゲームっていうのは、セガ以外にも?

片岡 ナムコの初期のものはことごとくやってました。「ラリーX(1980年)」「マッピー(1981年)」とか「ディグダグ(1982年)」とか、「ゼビウス(1983年)」とか。

──家庭用ゲームの方は?

片岡 最初に買ったのは、家庭用ゲームじゃなくて、パソコンだったんですよ。ソード社の「M5」っていう機種です(笑)。M5ではBASICのプログラムでゲームを作ったり、カートリッジでナムコの「マッピー」とかをやってました。

──そのパソコン(M5)は親御さんが買ってくれたんですか?

片岡 たぶん自分のお小遣いだけでは無理だったと思うので、多少親にねだったりしたんだと思います。そのM5の後にパソコンのMSXを買って。MSXからMSX2て、そこからファミコンを買った感じでしたね。

──ファミコンではどんなゲームを?

片岡 ファミコンはもう「ゼビウス」ですね。ファミコンを買ったというよりは、「ゼビウス」を買った感じでした(笑)。家で「ゼビウス」できるって、もう信じられない!というか、想像を絶する出来事でしたから。

──さっき『Beep』の名前が出てきましたけど、するとセガのアーケード体感ゲームは一通り、遊んでた?

片岡 「ハングオン」は知ってましたけど、あんまりやってなくて。やっぱり「スペースハリアー」ですね。「スペハリ」に「アウトラン」に「アフターバーナー」と。特に「アウトラン」の時は浪人してましたので、予備校に行かないで、それこそ「アウトラン」ばっかりやってた(笑)。あとはゲームの音楽が結構好きだったので。初期のナムコタイトルもそうでしたが、「アウトラン」とかは曲が「おおっ!」と思ったんで、CDも買って(笑)。

──『Beep』だと、ソノシートの付録がついてたので、それも聴いたり?

片岡 ソノシート、聴きましたね! たぶんソノシートが欲しくて『Beep』は買ってたんだと思います(笑)。

──だんだんとセガ色が...。

片岡 そうですね。当時の『Beep』には開発に関わった、鈴木裕さんとかもってたじゃないですか。曲を作ってたHiro師匠(川口博史氏)とかも、たぶん誌面で初めてそのゲームの開発者っていう人の顔が出てきてて。ゲームのクリエイターの顔が見える形で初めて触れた機会だったと思います。もちろんそれはまだセガへの入社前でしたよね。

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