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男は過去にこだわり、女は今にこだわる

短い時間の長い瞬間
5[ 男は過去にこだわり、女は今にこだわる ]

「剣志〜、ごめ〜ん」
叫びながら綾乃が駆け寄ってきた。
ずっと走っていたのか、マフラーもほどけて今にもずり落ちそうな格好になっている。
「大丈夫だよ、今来たばっかりだから」
剣志は昔からあるありきたりな嘘をついた。本当はこの寒空の中20分くらいは待っていたかもしれない。
「退社前にうっかり外線電話に出ちゃって、それでいろいろ…ねっ」
「いいよ、気にしなくて。それより何食べる?」
「寒いから鍋なんてどう?」
「いいね、何鍋な気分?」
「そりぁもうモツ鍋でしょ」綾乃は笑いながら即答した。
剣志は綾乃が「モツ鍋」と答えることがすでにわかっていた。福岡県の出身の綾乃は鍋というとモツ鍋と決まっている。そしてお酒はこれも福岡県の日本酒「比良松」をこよなく愛している。郷土愛が強いのだ。
剣志はそんな単純だが飾らない綾乃が好きだった。
時々、離婚した美涼と比べてしまうことがある。美涼は外食というとイタリアンとかフレンチとか和食でも外観のお洒落な場所とか、そういうのに行きたがった。基本的に田舎者だったんだろうと思う。味はどうでもよくてそういう空間に自分が存在することが好きな女だった。付き合い始めた頃や新婚当時は若かったせいもありそれも新鮮で楽しかったが、何年もそんな暮らしに付き合ってはいられなくなった。それからは転がるようにお互いに不満が募り離婚への道をまっしぐらだった。
綾乃は、自分の意見を言った後に必ず相手の意見も聞くタイプの女で、今日は私の好きなもの食べたから次は剣志の好きなものにしようとサラッと言える女だ。綾乃も地方出身者だが、美涼と違ってどこか都会的な雰囲気があるのも剣志が綾乃を好きになった理由のひとつだ。

剣志はいつも行くモツ鍋屋に電話をして席の有無を確認する。平日ということもあり席は予約できた。
「ほんとに今夜は冷えるね」と言いがなら綾乃は剣志の手に自分の手を絡ませてくる。手を繋いだまま5分ほどの店までの道を急ぎ足で歩いた。
店では窓際の席に案内される。この窓際の席も綾乃のお気に入りだ。
ビルの5階にあるこの店の窓からかはライトアップされた東京駅や新幹線ホームが見渡せる。この店に最初に綾乃と来たときに、「地方出身者はね、東京駅って故郷への入り口みたいに感じるの。だからこのロケーションはちょっと嬉しいんだよ」と綾乃が言っていたのを覚えている。
「でもね、人生がうまくいってない時はこの景色がとても辛い」とも。

東京駅が近いということもあるのか、それともガイドブックにでも紹介されているのか、今夜は外国人の家族連れが1組いて英語が店内に飛び交っていた。喋っているのは主に男性で、料理を運んできたスタッフにカタコトの日本語で「自分はパイロットなんだ」と自慢話をしている。スタッフも大袈裟に驚いてみせ「へぇ〜それは凄いですね」と返している。

「最近、何か面白いことあった?」
「特にないな、この年になると面白いことってなかなか起きないからな」
「そうだね、子供の時はちょっとしたことでも面白かったのにね」
「あっ思い出した。あったよ面白いこと。もう何年も前に旅行先で変な女に遭遇したんだけど、昨日その女を会社の近くの交差点で見かけた。以前も嫌な女だなと思ってたんだけど、やっぱり今も嫌な女っぽかった」
「嫌な女なのに覚えてたんだね」
「最初はどっかで見たことある顔だなって感じだったんだけど、じっと見てたら思い出した。グランドキャニオンに向かうセスナの中でこっちは何もしてないのになんか訳のわからないことで突然文句言われたんだよ」
「向こうは覚えてる感じだった?」
「ぜんぜん。というかこっちを見たのかどうかもわからない」
「加害者より被害者の方が事件のことはよく覚えているっていうもんね」
「確かに」

パイロットだと名乗る外国人男性は、また違うスタッフに「アメリカに行ったことはあるかい?アメリカはいいよ。広いし雄大だ」と大きな声で喋っている。それに対してスタッフがなんと答えたかはわからないが、典型的なアメリカ人の話に剣志と綾乃は目を見合わせて笑った。

「最近、美涼さんはどうしてるの?」

突然の綾乃から発せられた質問に剣志は耳を疑った。
美涼のことは綾乃には一切話していない。
剣志は「えっ」と短く発したあとしばらく無言で綾乃の顔を見つめた。

その謎を解明するには、あと何時間必要なのか…

つづく


今までのストーリー(第1話〜第4話)は、
マガジン「noteは小説より奇なり」に収録してあります。
よろしければそちらもよろしくお願いします。




読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。