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散ると知りながら咲くことを恐れない

短い時間の長い瞬間
18話[散ると知りながら咲くことを恐れない]

4月に入り、剣志の周りはさらに忙しくなった。
感染者数が少し落ち着いてきたことにより会社の仕事量も増え、新学期が始まる前に美佳と綾乃を迎え入れる新居も探さなくてはならない。美佳が通う幼稚園も探さなくてはならないが、そこまで手が回らず、母の知人が幼稚園を経営しているということで、申し訳ないがそちらから紹介してもらうことにした。
それと一番厄介なのは、美佳の親権変更の申し立てをしなくてはならないことだった。親権者の美涼が行方不明ということもあるし美涼側の親族も今回の件については同意しているという点からそれほど難航しないと思っているが、初めてのことで戸惑うことも多い。
新居に関しては、何度も綾乃と会って不動産屋に出向き相談した。
綾乃は、剣志と美佳が同居生活に慣れてから自分が入るというのがいいのではないかと提案したが、そうすると美佳に2回の変化を求めることになるから最初から3人一緒の方がいいというのが剣志の意見だった。
そんな相談の合間に、綾乃の両親と剣志の両親との6人で東京のホテルで食事会をした。
綾乃の両親は、初婚の娘が離婚歴のある男性と結婚するというのに引っかかっているようだったが、それよりも突然5歳の子供の母親になるということに不安の色を隠せなかった。

綾乃は、「いろいろ大変なこともこれから起こるかもしれないけど、私は剣志さんと美佳ちゃんの力になりたいと思っている。最初からダメだと決めつけるのは簡単だけど、それじゃ誰も幸せになんてなれないと思う」と両親に向かって力説し、「100%納得して下さいというのは無理かもしれないけど、私を信じてほしい」と訴えた。
綾乃の両親はしばらく黙っていたが、父親が立ち上がって「娘をよろしくお願いします」と頭を下げた。
それに対して剣志の母親が「いろいろご心配なのは重々承知しております。私たちもできる限りの協力を惜しみません。こちらこそ至らぬ息子ですが、よろしくお願いします」と言い、父親と共に頭を下げた。

それから数日して新居となるマンションを契約した。
契約を済ませた後、そのマンションの近くにあるカフェで綾乃とランチをした。4月に入ったといってもまだ少し肌寒かったが、「テラス席がいい」と綾乃が言って、「冷えるといけないので」とスタッフがブランケットを用意してくれた。カフェの前は遊歩道になっていて、桜の木も道沿いに植えてある。ほぼ満開になった桜は誇らしげに春の主役を演じているようだ。
遊歩道を歩く人は日曜日ということもあり家族連れが多い。みんな桜の下で立ち止まり写真を撮ったり指を刺して何かを確認したりしている。剣志たちと同年代くらいの夫婦が子供の手を引き行き交う姿も見える。
剣志は桜の花にそれほどの思い入れはないが、満開の桜とその下を歩く幸せそうな家族連れというシチュエーションは希望や幸福を連想させるものだなと思いながら見ていた。
それと同時に何かの本で読んだ『桜は散ることを知りながら咲くことを恐れない』という言葉を思い出していた。気強い花なんだなと思う。

「私たちもあんなふうになれるといいなぁ」
「時間はかかるかもしれないけど、きっと大丈夫だよ」

剣志が思い出したように言った。
「ずっと前に、旅先で会った嫌な女を交差点で見かけたって話したよね」
「うん」
「その女にその後2回ほど会ったんだよ」
「そうなの」
「会社の近くで自転車でぶつかりそうになり文句言われて、それから博多から帰ってきた日にカフェに寄ったら隣のテーブルにいた」
「へぇ〜意外と縁があるのかも」
「そこでいろいろ話したんだけど、なんか病気になったって言ってた。厄介な癌なんだって」
「えっ、そうなの」
「綾乃の仕事はさ、そういう人とよく会う仕事でしょ」
「よくっていうより、そういう人ばっかりだよ。どこの病院とか言ってなかった?」
「そこまでは聞かなかった」
「じゃ、いつか何かの縁で会うかもしれないな。名前はわかる?」
「なつ。苗字は知らない。もし会ったら相談に乗ってあげてよ」
「なつ…覚えておく」

その頃美涼の実家では、美佳に新学期になったらパパと一緒に東京で暮らすことになるんだということを説明していた。
「ママは?」と聞かれることを予想してあれこれ口実を考えていたが、不思議と美佳からはその質問はなかった。
「新しいママができるんだよ」とは言えず、「ママの代わりにパパのお友達のお姉さんが美佳ちゃんのお世話してくれるんだよ」と、自分でも稚拙だなと思えるくらいの説明になってしまったことを情けなく思ったが、祖母にとって孫に対する精一杯の気持ちだった。
美佳は納得はしていないと思うが、「うん、うん」と頷いていた。
「じゃ、パパとお姉さんがお迎えに来るときまでおばあちゃんとおじいちゃんとで待ってよね」
「うん」
しばらくして、たまりかねたように美佳がぽつりと祖母に向かって言った。
「ママは、美佳のこと忘れてどこかに行っちゃって美佳のところにはもう帰ってこないんだよね」
「どうしてそんなこと言うの?」
隣のおばちゃんが言ってた「美佳ちゃんのおかあさんどこに行ったんだろうね。もう帰ってこないかもしれないよ。美佳ちゃんかわいそうだね」って。

こんな子供を相手にしてまでうさわ話をするのかと嫌悪感が募った。それと同時に早く美佳を剣志さんのところにやらなければここにいると美佳の心が大変なことになってしまうと思った。
もし覚醒剤のことがこの町の人に知られてしまったら、どんなことになるだろうと想像すると怖くなり、もう自分たちはこの町に住めないかもしれないとさえ思った。
それにしても町の人たちはどこまで我が家の事情を知ってるのだろうと確かめたくなって、スーパーで買ったデコポンを持って隣の家に行った。
「奥さん、これたくさん買っちゃったからお裾分け」と言って渡したら、「あら〜ありがとう」と言って受け取りながら話し出した。
「こないだ、警察の人がうちに来よったよ、おたくの美涼さんのこと聞きに。美涼さんどげんしとるとね」
うわさは予想以上に広まっているようだ。
「さぁ、私もわからんとよ。ほんなこついい年して親不孝な娘たい」
「美佳ちゃんがかわいそかよね。なんも知らんとまだ待っとるとでしょ」
「美佳は母親と違うてしっかりした子やけん大丈夫ったい。そしたらまたね」
「デコポン、ありがとね」

この感じだと美佳はもっといろんなことを町の人から聞いているかもしれないと思った。
美佳は美佳なりにじっと耐えていたのだなと不憫に思い、5歳の子供にそれだけの試練を強いる美涼が自分の娘ながら憎らしくて仕方なかった。
先日まで警察に行くのさえ迷っていたが、その迷いはどこかに消えて、「早く捕まってくれ」と心の中で願うほどになっていた。


つづく

*1話から18話までマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済。

あらすじ
それぞれが何かしらの問題を抱えて生きている複数の男女がいる。まったく違った時間の中で違った価値観で生きているが、それぞれはどこかでちょっとずつすれ違っていく。そのすれ違いは大きな波を呼ぶのか、単なるさざ波のようなものなのか……
病気、薬物中毒、離婚、隣で起こっていても不思議ではない物語は徐々に佳境を迎えつつある。
何も知らぬ者、すべてを知った者、それぞれが少しずつ近寄っていく。

主な登場人物
菜津:東京で働く女性
剣志:東京で働く男性
美涼:剣志の別れた妻
綾乃:剣志の現在の恋人(美涼の高校の後輩でもある)
美佳:剣志と美涼の子供





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