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曇天の空の下、きっとここが分かれ道

短い時間の長い瞬間
17話[曇天の空の下、きっとここが分かれ道]

日曜日の午後、菜津は明日からの入院に備えて必要な物を準備していた。
旅好きな菜津はいつでもすぐに旅に出られるように下着類、化粧道具、洗面道具などは旅用セットとして常にスーツケースに詰めてあったが、病院からもらった入院の手引きにあったリストを見ながら足りない物をスーツケースに詰めていた。やたらとタオル類がたくさん必要で否応なしに旅に出るのとは違うのだということを認識させられた。
リストの中に『室内ばき』というのがあった。注意書きで、スリッパなどは不可で足をある程度固定できて底が滑らないようになっているものと書いてあった。『院内のショップでも買えます』となっていたが、あの高齢者がよく履いているような健康シューズのようなものを想像して、あれだけは嫌だと思い下駄箱からまだ数回しか履いていないビルケンシュトックのロンドンを持ってきてスーツケースに入れた。
なるべく病院っぽいものは身につけたくなかった。
母がその様子を見て「ティッシュとかも必要よね、買い置きがあるから持ってく?」と声をかけてくる。
「ティッシュなんて病院の中のコンビニで買えるからいいよ」とそっけなく答えてしまって少し反省した。
母も泣かないようにと必死で耐えているのだ。その気持ちを少しでも汲んでやりたいのだが、それを素直に表現できない性格は今に始まったことではない。父もムッツリとした顔をしているが耐えている。弟だけは現代人らしく「病院なんかに縛られないで最後までやりたいことを思いっきりやった方がいいよ」と言っていたが、やはり心の中はきっと難しい気持ちなのだろうと思う。
「明日は、お父さんは会社があるから行けないけど、私はついていくから」と母が言う。
「ひとりで大丈夫だよ。ついてきても今は感染症対策で面会禁止だから病室には入れないんだよ」
とまたそっけなく言ってしまう。
「それはわかってるわよ。ただ、担当の先生に一言ご挨拶しておきたいだけなのよ」
もうこれ以上この母を悲しませる権利は私にはないと菜津は思った。
「わかった。10時までに行かなきゃいけないから、少しだけ早起きしてね」
とできる限りの優しさを込めて母に告げた。

月曜日の朝、父が出勤前に「気をつけてな。お母さんのこと頼むよ。これタクシー代だ。電車は何かと疲れるだろうからタクシーで行きなさい」と言って封筒を渡された。
「お母さんのこと頼むよって、入院するのは私なんだけど」と冗談っぽく言うと「お前は大丈夫だと思っている。お母さんの心の方が心配だ」と笑っていた。封筒の中には5万円入っていた。
「こんなにたくさんいらないよ、病院までだと1万円もしないと思う」
「残ったら病院で必要なもの買いなさい」
「ありがとう」と受け取る。今朝はやけに素直な私だこと、そう思って菜津は自分自身を笑った。

大通りまで歩いて、タクシーを止めて運転手さんにスーツケースを後ろのトランクに入れてもらう。
その時に「ご旅行ですか?いいですねぇ」と運転手さんに言われ「いや、違うんですよ」と母が答えていた。
タクシーに乗り込んで行き先を告げると、さっきまでにこやかだった運転手さんの顔が少し曇るのを菜津は見逃さなかった。
「ご旅行ですか?」と口走ってしまった自分を反省しているのだろう。でもしょうがない。こんな春の日にスーツケースを見たら誰でも旅行を想像するものだ。
途中の公園の桜が七分咲きくらいになっていた。
「桜、咲いてるね。今年はちょっと早いみたいだね」と、母が言う。
あっという間に通り過ぎた公園を名残惜しそうに母が振り返って見ている。
「もう少し先にもっとたくさん咲いてるところがありますよ」と運転手さんが母に声をかけた。
「そうですか、それは楽しみ」と母は笑みを浮かべている。

タクシーは菜津が勤めている会社の通りに入って行った。いつも歩いていた道だ。通勤時間をとっくに過ぎて、今はフレックスで遅れて出社する会社員たちがぽつぽつと歩いている。電車で来るつもりだったからもうこのオフィス街を見ることはないと思っていたが、タクシーの中から見るこの街は変わらず日常を生きていた。
赤信号で止まったタクシーの横を自転車が信号無視して渡って行った。
菜津は「あいつか?」と思って目を凝らしたがまったく違う人だった。あいつの名前も聞かなかったな.…まぁいいやどうせもう二度と会わないだろうから、と思っていると運転手さんが「危ないね、最近自転車通勤する人が増えたみたいだけど信号無視平気でやっちゃうから」と私たちに言ってるのか独り言なのかわからないような口ぶりで言った。
母は「そうなんですか」と、いちいち反応して答えている。

病院の正面玄関でタクシーを降りた。
運転手さんがスーツケースを下ろしてくれて、乗車する時の罪滅ぼしのように丁寧に「お大事になさってください」と母に向かって言った。
母はそれに対して訂正することもなく「ありがとうございます」と頭を下げていた。菜津も訂正することなく軽く会釈をした。普通はそうだろうなと思う。年配者と若者が一緒に病院に来たら、年配者が患者で若者が付き添いだと誰だって思うだろう。運転手さんには何の罪もないのだと母と目で確認し合った。

病院内はまだ朝10時前だというのに受付には大勢の人が順番待ちをていた。入院受付だけは空いていて、すぐに必要書類と保険証を見せて手続きをしてもらった。希望の部屋などを聞かれて、そんなことは考えてもいなかったので一瞬どうしたらいいか迷ってちょうど中間の値段の4人部屋にしてもらった。「病棟の看護師が迎えに参りますのでしばらくそちらでお待ち下さい」と言われて待つ。
母は急に口数が少なくなってまるで他人のように菜津と目を合わそうとしない。菜津もあえて口にすることは何もかった。
迎えに来た看護師さんに「母が担当の先生にご挨拶をしたいと言ってるのですが可能ですか?」と聞いたら「医師と連絡をとってみます」と電話をかけ始めた。すぐに電話を切って「大丈夫のようです。これから消化器内科の相談室に来てくださいとのことです。おふたり一緒においで下さいとのことでした。スーツケースは私がお預かりしてもよろしければ病室に運んでおきますが……」と、言われたのでお願いした。
母は「まるでホテルみたいだね」と感心している。
菜津も同じことを思っていた。親切にされればされるほどこれからの自分に課せられる試練を再確認させられるような気持ちになった。

相談室には、高橋医師と渡辺看護師がいた。
渡辺看護師は、先日と同じような穏やかな笑顔で「体調は大丈夫ですか?」と声をかけてきた。
高橋医師は「初めまして高橋と申します。お嬢さんの治療担当をさせていただきます。今朝、斉藤医師は外来担当のために同席できませんが、質問等があれば遠慮なくおっしゃってください」と母の方を向いて言った。
母は「娘から病気のことは充分聞きました。難しい病だということもわかっています。でも先生、なんとか娘を助けてやって下さい。それだけお願いするために来ました」と泣きそうになりながら言う母に「絶対助けるとは言えません。難しい病です。関係者みんなでできる限りのことをしたいと思っています」と前回と同じように冷静に高橋医師は言った。母は昔の人間だからこういう時は嘘でも「大丈夫です。きっと治ります」と言ってほしいのだろうが、今の医師はそんな曖昧なことは絶対に言わない。特にこの高橋医師はそんな曖昧なことは死んでも言わないだろうと菜津は思っていた。
不安そうな母に渡辺看護師が「お母さん、私たちもお嬢さんに治ってほしいと思っています。そのために私たちも頑張ります。お母さんも応援してあげて下さい」と優しく言葉をかけてくれた。

母を病院の玄関まで送って行く途中で、初診の時に見かけた若い夫婦の奥さんとすれ違った。以前より一回り大きくなったお腹を抱えながら病院内に入って行った。あのとき、相談室に入って行った旦那さんはどうしているのだろうと、ふと思う。
玄関前に並んで客待ちしているタクシーに母を乗せた。
「気をつけてね」と母に告げると「菜津もね」と母が手を握る。
「あっ、またお会いしましたね」という車内からの声で、来るときと同じ運転手さんだとわかった。
タクシーが見えなくなるまで菜津は玄関に立って見送った。

2022年3月28日 月曜日。
曇天の空模様。
菜津は雨が降り出しそうな空をしばらく見つめ、病院の脇にある桜に目をやり、ゆっくりと白い病院の中に入って行った。


つづく

*1話から17話までマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済。

あらすじ
それぞれが何かしらの問題を抱えて生きている複数の男女がいる。まったく違った時間の中で違った価値観で生きているが、それぞれはどこかでちょっとずつすれ違っていく。そのすれ違いは大きな波を呼ぶのか、単なるさざ波のようなものなのか……
病気、薬物中毒、離婚、隣で起こっていても不思議ではない物語は徐々に佳境を迎えつつある。
何も知らぬ者、すべてを知った者、それぞれが少しずつ近寄っていく。

主な登場人物
菜津:東京で働く女性
剣志:東京で働く男性
美涼:剣志の別れた妻
綾乃:剣志の現在の恋人(美涼の高校の後輩でもある)
美佳:剣志と美涼の子供
加藤マサル:美涼の高校の同窓生




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