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それは恐るべき時間の始まりにほかならぬ

短い時間の長い瞬間
10話 [それは恐るべき時間の始まりにほかならぬ]

菜津は検査着に着替えて検査室の前で順番を待っていた。
右腕には点滴の針が入れられ、一滴ずつ落ちてくる雫を暇つぶしに数えながら見ていた。
50ほど数えたところで、看護師が紙コップを持ってきて「これは胃の中の泡を消す薬です。今、飲んで下さい」と普通の紙コップに三分の一ほど入った液体を差し出してきた。朝から食事抜きで1時間前から水さえ口にしていない菜津は喉がカラカラでたとえ薬であってもお構いなしにまるでスポーツドリンクを飲むように一気飲みした。味はなく冷くも温かくもない液体は何の躊躇もなく胃の中に入っていった。
「もうしばらくお待ちください」空になった紙コップを受け取るとそう言って看護師は検査室の中に入っていった。途中の数は抜けてしまったが、また続きから点滴の雫を数え始めた。
初めて受ける検査というのは不安もあるが、多少の疾患は見つかるかもしれないとすでに覚悟はしているし、でも何か見つかったとしても、それほど大騒ぎすることにはならないだろうと菜津は根拠のない自信のようなものがあった。検査を受けるのは医師が何かの病名をつけるために必要なことだと割り切って受けることにしたのだ。
スタッフルームのドアが開いて若い男性医師が菜津の目の前を通り、検査室に入って行った。見た目の判断だが菜津より若い感じがした。菜津はてっきり初診の時に診察してくれて斉藤優里亜医師が検査をしてくれるものとばかり思っていたのに的が外れた。こういう大きな病院は診察する医師、検査する医師、診断を下す医師がそれぞれ違うことを後になって菜津は知ることになる。
若い医師が検査室に入ってから5分ほど経って看護師が「こちらにどうぞ、ゆっくりでいいですよ」と検査室へ誘導してくれた。菜津は点滴がぶら下がっている器具を携えて検査室に入っていった。
喉に何やらキツいスプレーをかけられ、「これから麻酔の薬を入れていきます。左を下にして横になって下さい」と言われ、それに従った。横になってすぐに自然と目が閉じ、「はい、起きて下さい!」と看護師に大きな声をかけられて目を覚ました時にはもう検査は終わっていた。
横になってから20分ほどしか経ってなかった。

同じ頃、美涼は博多のカフェでマサルと会っていた。
「お前さ、いくら借金あると思っとると?今までの分払ってもらわないと次は渡せんよ。慈善事業やっとるわけじゃないっちゃけん」
「なんとかするよ。だから今日の分だけ譲ってよ」
「俺も上から目つけれると困るったい」
「最初に勧めたのはマサルでしょ、こうなった責任は少しはあるよ」
「責任?もう大人やけん。責任は全部自分たい。親に頼めばどうね。年金もろうとるんやろ」
美涼とマサルはお互いに感情が高ぶりながらも人に聞かれてはいけないと思い声をできるだけ潜めて話をしていた。
美涼は両親の年金だけは手をつけたくなかった。今は娘の美佳の世話を全部両親に押し付けている。自分たちだけの生活費でもギリギリなのにこれ以上…と思う。少しは人間らしい気持ちも残っているもんだと自分でもびっくりするが、マサルの次の言葉でその人間らしさもガタガタっと崩れ落ちてしまう。
「あのさ、もっと効き目の良いのがあるんやけど、試してみらん?」
「そんなお金ないの知ってるくせに」
「俺の上司がやってる店があるったい。そこで女の子募集してるけど、そこで働くんなら前金渡してもいいって言ってるちゃ」
「どんな店?」
「カフェみたいなもんたい。来た客にお茶出して話して...」
「それで前金はいくらもらえるん」
「交渉次第。軽く見積もっても100は行くらしい」
美涼は短い時間にいろんなことを考えた。
今、剣志からもらっている娘の養育費で友人のところに間借りさせてもらっているけど100万あったらアパート借りて娘を引き取って、そのカフェの給料でなんとかやっていけるかもしれない。マサルとも時々会って寝てやれば
薬はなんとか調達してくれるだろう。その効き目の良いやつも一度試して見たいし。
「いいよ。そこで働くわ」
「よし、決まった。そしたら明日その店に一緒に行ってみよか。その時に効き目抜群のやつ持ってきたるけん」
美涼は、まるで大学を卒業したばかりの新入社員が希望の会社に初出勤するかのように清々しい気持ちだった。
その反面、マサルの顔は地獄からの使者のような顔つきで歪んでいた。
「それじゃ明日」と言ってマサルは店を出て行った。
美涼も残っているコーヒーを飲み干して立ち上がる。ふらっとよろけて隣のテーブルに倒れ込み、また自力で立ち上がる。
最近やけに汗が出るし足腰にも力が入らない。夢遊病者のような動きで店を出た。店を出たところでまたよろけて電信柱を支えに立ち上がる。
横を歩いていたカップルが、
「あの人昼間っから酔っ払ってるんやね」
「あれは酒じゃないよ、薬や」
「マジ、ダサ」
カップルは哀れな目を美鈴に向けながら立ち去って行った。

もうお昼の12時を過ぎていた。
菜津は検査後のリカバリー室で休憩していた。


つづく


1話から9話まではマガジン『noteは小説より奇なり』に集録してあります



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