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ちくちく...針のむしろ

2021.6.8(火曜日) medical checkup

人間ドックを受ける。

血液検査の担当看護師さんは新人だった。うまく血管に針が刺さらなくて4回刺し直した。「すいません、すいません」と謝る彼女に「大丈夫です。私の血管は看護師泣かせで有名だから私が悪いのよ」と気を使って慰めておいた。看護師泣かせというのは事実で、何をしても血管が浮き出てこない体質なのだ。それでもベテランさんにかかると「はい、ここ!」って一発OKなのだが、大体は2〜3回は刺される。私はもうそんなこと慣れっこになっているのだが、看護師さんの方は焦るらしくて、焦るとまた刺さらない。その焦りがこっちにも伝わってきてドキドキする。患者がどんと構えているのだからどんと構えて「5回でも10回でも刺してやるわよ〜」くらいの気持ちでやってくれた方が私も助かるのだけど...

次はエコー検査。1時間ほど間が空くから一旦家に帰ってきた。洗濯をして干す(まだやる気は続いているようだ)そうこうしている内に時間が来てまた病院へと向かった。暑い。時間の流れと共に気温が確実に上昇している。今日は30度越えの予報が出ている。

病院の待ち時間に本を読んでいた。今読んでいる箇所がものすごく納得できるものだった。文章は読む人の年齢や住んでる地域や生活環境によって同じ文章でも受け取り方が違うということ。その本の中で語られているのは、例えば『窓の下から届く愛の歌』という文章があったとして、年配の人はどこかヨーロッパあたりの下町の景色を思いうかべるかもしれないし、文学に精通した人はシェイクスピアの世界を思い浮かべるかもしれない。若い男女だったら、そんなのめんどくさい何か伝えたいなら LINEでいいじゃんと思うだろう。そしてその場面は夜なのか、夜中なのか、それとも昼間なのか、郊外に住む人は海辺のコテージなどを思い、都会に住む人は高層マンションの一部屋を思うかべ、設定を変えると読む人によって様々な解釈がなされる。要するに『文章は読む側の枠組みの中でしか理解されない』ということなのだろう。以前、どなたかは忘れたが作家の方が「作品は本屋に並んだ時点で自分のものではなくなる。あとは読む人がどう受け取るかだけだ」とおっしゃっていたのを思い出した。「こういう思いを持って書きました」というのが100%そのまま読む人に伝わるのはなかなかないのだろうなと思った。言い換えれば、伝わらなくてもそれはそれで仕方ないのだ。そう思うと文章を書くのもちょっと楽になる。

エコー、胃カメラ、が終了した。結果発表まで待たされる。「今度は家には帰らないでくださいね」と念を押されたので病院内のカフェで読書しながら待つ。病院内のカフェのメニューをじっくり見ると、どこにでもあるメニューの他に「お粥」があった。びっくりした。でも病院内ならではだ。今度食べてみよう。

検査結果はどこも悪いところはなくさっさと帰宅した。

少し疲れた。晩ごはんは好きなものを食べよう。

蕎麦と日本酒。

あぁ、悪くない。






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