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仕事終わりに映画を観れば、全てがフィクションになる。

今までとは全く違うリズムを、生活が刻み始めたのはちょうど一年前くらいからだ。もう一年経とうとしているのか。

一年前。
ご時世的に卒業旅行に行くこともままならないまま、わたしは、社会人と呼ばれる、特に何も成し遂げていないのに、一定程度、社会から認めてもらえる、賃貸契約も難なく結べるような、そんな人間へとなった。
悲しくも嬉しくもなかった。ただ安堵した。「けっこうちゃんとしてますよ」みたいな感じで、世界を騙しながら生きていくスキルが自分にあることに。
わたしは、そこそこ興味のある会社に入れた。そして、そこはそこそこ忙しい業界だった。だけど、この間までみんな横に並んで、インプットばっかりしていたような赤ちゃんに、一年目から仕事が降り注ぐわけもないだろうから、夜は8時くらいまで働いてそこから飲んだり、お風呂に浸かりながらうたた寝したりする生活が、社会人一年目はできるだろうと思っていた。

これは大きな大きな誤算でした。

クライアントの一声で動く仕事だから忙しいのに加え、知識のある人の取り合いの業界だから、ある程度仕事ができるなと上司が判断したら、社会人赤ちゃんにもわんさか仕事が回ってくる。わたしに「任せてもらえて嬉しいな」と思える長女気質がなかったらどうしていたんだろうと思うほどに。
唯一の救いとしては周りの人たちが温和な人が多いということ。あとおじさんが少ないこと。
めちゃくちゃに叱咤されることとかは一度もなくて、たまにピリピリした空気がオンライン会議ツール上に流れるくらいで、それくらい。

だから、あまり怒られない分、わたしは心の中に「最近の若いもんは」と怒るおじさんを飼うことになる。
そうなると仕事終わりもなかなか休まらない。心の中でおじさんが「あれはもうちょっと他のやり方があった」「そもそも理解が甘い」とか言ってくるので、一応スミマセンみたいな態度を取りながら、夕飯の支度をする。電子レンジに入れるだけの。

大体23時ごろ、ぼーっと冷凍パスタを食べているのはノンフィクションだけど、心の中で出自のわからないおじさんがわーわー言っているのはあくまでフィクションだ。
わたしが新社会人になってぶつかった壁のようなものは、実際に起きたことと、自分の被害妄想的な日々の反芻の区別がつきづらくなったことだった。
そうなると厄介で、次の朝は、怒られた日の次の日という扱いになる。誰にも怒られていないのに。そして昨日怒られた人の顔をして出勤をする。誰も怒ってないのに。

「これって無駄な労力すぎるし、そんなところにエネルギーを使うなら仕事とか趣味に使いたくない?」と学生時代は一緒に過ごしていた心の中のギャルが言う。
その通りすぎる。
わたしはそのための打開策を考えた。

それが
仕事終わり、どんなに遅い時間でも映画を観ることだった。
心の中にいる最近の若者はおじさんを自分の想像の産物と割り切ることができず、日中のできごとから、帰路に着く頃に耳元でしつこく言ってくるおじさんから、今日寝る前に見たものまで、全てをフィクションとして自分を錯覚させることにした。良いのか悪いのかは分かりませんが。

仕事が終わってコンビニ飯ですませた午前1時。

次の日のことを考えるとすぐ寝た方がいいか?と、100人に聞いたら98人がハイと答えそうな時間だけど、セレブの自宅から次々と金品を盗っていく少年少女の話を観た。あまりに現実離れしているけど実話を元にした作品。
ロサンゼルス郊外の、そこそこ裕福な家庭のティーンたちが日々の刺激を求めて、承認欲求の塊を振りかざして、そしてそのニュースが全米を賑わせて。正直、あまりにも他人事すぎる話だった。

それがまたよかった。

きっとアメリカに暮らすtiktok撮ってるJKからしたらわたしの日々の生活なんてso what?でしかないし、わたしからしてもそうだ。別に「日々の生活の出来」に大きな意味なんてなく、それが良かろうと悪かろうと、何にも作用しない。作用するとするならば、わたしの心くらいだ。
今日あった一日。それはただ私だけが知覚したもので、他人からしたらまるで嘘みたいな出来事の羅列なんだとしたら。そんなことを考えながらついた寝床は、案外悪くなかった。

仕事が片付いたのに脳が起きて眠れない夜。

あまりにも仕事で踏ん張りすぎると、勤怠を切っても脳が「僕まだやれます!」と元気にピンピンしてる時ってないだろうか。私は時折そうなる。
そういう日も深夜いそいそと映画を観るのがいいと思っている。

そんな、とある夜に観た映画は、脳内のAとおしゃべりして仕事や私生活をどうにかやっているアラサー女子の話。恋愛とか友情とか趣味とか、そこに綺麗事があまり介在していない展開で、ぼうっと観るのにちょうど心地よかった。
主人公の彼女もまた、頭の中と現実の区別が曖昧になりやすいようだった。そんな彼女を支える脳内のA。

印象に残っているのは、主人公がお一人様旅行をしていたシーンだ。彼女はそこで、どうしても許せないような発言をする男性たちに出会った。でもその発言は主人公の彼女に向けてではなく、女芸人に対してだった。その女芸人に対して何も言葉をかけられなかった主人公。彼女は自分の正義感と裏腹に、何もできない自分に悔しさを覚えた。そこで脳内のAが主人公に言葉をかける。そして、落ち着きを取り戻した主人公。

その一連から私も落ち着きを取り戻した。自分の中の秩序が乱れてしまった時、それを整えるのもまた自分の中の言葉だったりする。内省に内省を繰り返して訳がわからなくなってしまう日常に、私も嫌気がさしていたが、そんな言葉の反響の中の一つが、自分を助けることだってあるのかもしれないと、信じて、こんな騒がしい自分を認めてあげたい。

1日の終わりに映画を観れば全てが地続きになる。

こんな風に、平日夜に早寝をせず夜更かしをした夜をふたつほど書いてみた。まるで自分の日中の出来事はフィクションだと錯覚できるのではないかと思い立ち、やってみた試みだったけれど、作品の中の人物たちと、私の人生が地続きになる瞬間が幾度もあった。
自分の人生はフィクションかもしれなくて、あの主人公たちの人生はノンフィクションかも知れなくて。
いつを1日の終わりとするのかも、どこを嘘と本当の境目にするのかも、全部全部自由なんだって気づくことができた。
もっと自由に生きていい。
綺麗事みたいだけど、自分中心に生きていい、迷惑をかけたっていい、とかじゃなくて、もっと自分の頭の中は、自由に物事を頭の中で仕分けていいんだって気づかせてくれるのは仕事終わりの映画だった。

眠れない夜は、寝なきゃと頑張らなくても、いいことがあったりするんだよって、ここでそっと呟いて終わりにします。

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