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めっちゃ嫌いな人は

どうしても好きになれない人がいた。
私が出席番号近いから普通に話しただけだったのに、一度ご飯を食べただけだったのに、一生ついてこようとしてくる人。
中学一年生の頃の思い出。
そこから、私はそんなに執着されるのが嫌で逃げているのに、逃げていても、嫌なんだとその人は思ってくれなかった。(徐々に気づき始めたのかもしれない)
行動を読み取ってくれないのだと思ったその時から、その人が話しかけてこようとしたら、私は、全無視するようになった。
その人がそこにいないように仕向けた。
これは、私があいてにされたら一番傷つく行為なんだと気づいていたから、そういう手段をとったのだと思う。中学一年生に所属した部活で私は、そういう目にあっていたから。
強制的に距離をとりたかった。

私は、いじめ被害者であると同時に、いじめ加害者であった。
私は、明確にいじめたと意識があるのは、この一人に関してだ。
当時いじめを受けていたストレスでは片付けられない、なんでこの人(Kさんと呼ぼう)だけに?という疑問がずっとささくれのようにひっかかっていた。

先ほど大学の図書館で、風景論のコーナーでお目当の本を探していると、目に入ってきた一冊の本があった。

横道誠『イスタンブールで青に溺れる 発達障害者の世界就航記』文藝春秋 2022年

私が大好きなスカイブルー色の装丁に加え、タイトルにイスタンブール(トルコ語発音を重視しない伸ばし棒が入っているのは気になるが)。
また目的を忘れて、本をひらいていた。

本書は、ASD、ADHDを抱えた文学研究者の見える世界を文章にした、当事者紀行として、筆者は価値づけており、読めば読むほど、青に惹かれる部分や、過集中してしまう部分や、同じものを食べたがる部分(新しいものを吸収する一歩が重い)、感受性が高い部分など、開幕40ページで共感できる部分がじゃらじゃらでてきた。

私はつい最近ASD傾向がかなり強い、ADHD傾向もあり、でも、社会に適応できているから、発達障害という診断ではないといったことを医者に言われ、発達障害グレーであることを認識したばかりだ。

自分の発達障害グレーの受容の過程にある。
本書に出てくる、普通に擬態する怪物という言葉を内面化してしまう部分にひどく共感したと同時に気づいたのだ。

私は「普通でない」と、居場所を求めて入った、いたかった場所から、排除された。いじめられた経験から、「普通になりたい」「普通じゃないと排除される」「許容されるほどの個性にとどめないと排除される」という強烈な強迫観念をもっているのではないのか。
これは、「孤独はもっともつらい」という思いが、いじめられてつらかった思いが強化しているのだと思う。

本を読んでいると、クリムトが嫌いというエピソードが出てくるのだが、著者は、自分が見ている水中の世界と似た表現をクリムトが表現するのだが、彼に表現されると、自分の見ている世界が粗雑に描かれているようで嫌だという反面、彼の絵画表現を超えるほどの表現が自分にはできないという、嫉妬から嫌いという感情に結びついているのでないか、と分析していた。

私ははっとした。
ああ、私は、Kさんを無視し、いじめ続けたのは、そこまで毛嫌いしたのは、同じASD特性をもっているのに、Kさんは、普通の圧力を感じ続けず、好きに生きている、その様に、嫉妬していたためか。

Kさんが、教室で大声で、BLを語る。
「BLは世間では公に語ってはいけないとされているんだよ」
「大声で喋るなよ、みんなに迷惑だろ」
「人と話しているのに、急に割り込むなよ。普通に迷惑だろ」

彼女だって、発達特性ゆえに理由もわからず排除されていてつらかっただろうに、友達がいなくてつらかっただろうに。

人間は自分と似たものを嫌悪する。
他人なのに、似た特性をたくさん発見すると、他人なのに自分を投影してしまう。

私の贖いは、また再び出会った時に本人に謝ること。
そして同じ悩みで、苦しむ人に気づいてあげること。助言をすること。

今はそれしか見出せない。


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