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事実と真実 ー 新説・金ヶ崎の退き口

数日前につぶやいた『事実と真実』に関して、自分へのメモで、『太閤記』にある金ヶ崎の退き口を枕に書いておこうと思う。

さて、明日からは何を書こう?個々人の思い描いている真実(Truth)とやらと、他人が見る事実(Fact)はいかに乖離していることでも書こうか?真実などというものは、個々人の持つ空想である。ある事実を違う視点で見ると事実が浮かび上がってくる。

真実などというものは、個々人の持つ空想である。ある事実を違う視点で見ると事実が浮かび上がってくる。物事はずべて相対的であるはずだ。そう言ったアインシュタインが、自分の人生を脚色していたのは、茶番でした。

上記のコメントのレスで、こう書きました。

『事実』は、実際に起こった事、うそ偽りのない事柄です。『真実』は、事実に対する解釈の事です。解釈ですので、『事実』を目撃した個々人それぞれの解釈が異なるのは当然のこととなり、『事実』と『真実』が異なり、一致しないことも多々あります。では、どの観察者が事実を述べられるのか?神の視点でしかわからないのかもしれません。

後に天下を取る秀吉の彼の視点、都合から書かれた『太閤記』なら、激しい撤退戦を展開し、織田信長を助けた最大の功労者という、彼なりに『事実』を歪曲して、豊臣秀吉を持ち上げる解釈での『真実』を書かせ、後代の人たちもその解釈を信じてしまったことになったのでしょう。

現代のマスコミの言辞と同じく、昔から、ある『事実』の解釈での都合の良い『真実』が歴史上でも数多く転がっているのでしょう。

いや、マスコミに限らず、例えば、不倫などの両者の言い分の違いも、彼らしかわからない『事実』に基づいた両者の解釈の違いの『真実』をもって言い合いをしているだけ。

だから、「夫婦喧嘩は犬も食わない」、『事実』は当事者の両者でもわからない、ってことになります。

新説・金ヶ崎の退き口
織田方の最前線が〈難攻不落の国吉城〉だったという重要な意味
【どうする家康 満喫リポート】金ヶ崎の戦い編

「金ヶ崎の退き口」について、様々な切り口から再検討され、その実態が明らかになりつつある。天下統一を果たした豊臣秀吉の一代記『太閤記』では、信長に殿軍を命じられた秀吉が、追いすがる朝倉軍の激しい追撃を苦難の末に逃げ切り、無事に京へ生還を果たしたという逸話として語られてきた。今回は、「新説 金ヶ崎の退き口」ともいうべきもので、おそらく読者の方が知っている、聞いたことがある話とは少し異なるものである。この戦いでは、若越国境の境目の城にして、難攻不落を誇った国吉城が重要な役割を果たし、信長、秀吉、そして家康も足跡を残し、ここから運を開き、天下統一へ飛躍した地でもある。

『太閤記』に描かれるような激しい撤退戦を展開したかも疑問で、撤退時の敦賀郡は幕府軍の占領状態、追撃軍と目される朝倉本軍も浅井軍も姿を見せていなかった。むしろ、信長軍の敵は落ち武者狩りの民衆や宗教勢力だったのでないだろうか。

約3万の軍勢が順々に撤退を開始した場合、後列に近いほど追撃は受けやすかったと考えられる。殿軍を命じられたという秀吉は、織田家中でも新参で身分も低く、実態は織田家中の順位として必然的に撤退軍の後衛に回されたのではないだろうか。

つまり、「金ヶ崎の退き口」とは、敦賀金ヶ崎城から信長軍の本陣である難攻不落の国吉城までの約10キロを逃げてくればよく、撤退の後衛辺りは追撃軍や落ち武者狩りの民衆らに襲われた可能性はあっても、大打撃を被るような大きな追撃戦はなかったと考えられる。何より国吉城が健在であり、幾度攻めても落ちない国吉城に入られては、朝倉勢も諦めるほかなかった……。

これが一番

真実

に近いのではないだろうか。


とこの記事の著者は書いていますが、これ、『真実』という言葉を使うのかい?『事実』の間違いでしょ?と思うものです。



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