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神なる闇、剣なる影にて #3

  目次

 くだらぬ時間の無駄であった。
 狭隘なる路地にて、屍術師シャエニはすれ違った酔漢の頭に鋭細なる切っ先を突き入れていた。人間が傀儡へと変じてゆく際の痙攣をながめながら、さきほどの死霊術師の言葉を思い起こす。
 根源的主体の欠損。
 あのわずかな時間の対峙で、そんなことまで見抜かれようとは思わなかった。
 やはりあの男の死霊占いは本物のようだ。癪に障ることに。
 シャエニが越境者となったのは十と三年の過去。その際、屍を意のままに操る力と引き換えに魂をむしり取られている。魂とはすなわち己自身であり、知能も身体もその付属物に過ぎぬ。今現在この瞬間ウヴァ・ルトクオに在って、死体に戒律を流し込んでいる白皙の青年は、正確にはシャエニではない。空虚なる抜け殻に過ぎぬ。
 今、屍術師の捕われたる魂は、七つの少年のまま時を止め、糜爛の神の腐った手中で狂気の業苦を受けている。
 わかるのだ。もがき、泣き叫ぶ、あまりに無力な幼子の苦しみが。
 伝わるのだ。愛されることを求め、与えられず、見捨てられた絶望が。
 救わなければならない。
 なんとしても。
 実際のところ、魂などなくとも何一つ困りはしない。肉体にも頭脳にも欠けたるところがない、昨今珍しいほど完全な人類である彼にしてみれば、無意識と本能を内包した魂など、むしろ存在しないほうが生きてゆく上で有利だ。
「……違う」
 そんなことではない。そんなことはどうでもいい。
 意味がないのだ。このままでは。
 痛みを感じてもそれを苦しみとは解釈できない。快楽を感じてもそれを喜びとは解釈できない。あらゆる感覚は外界の状況を伝える信号に過ぎなくなり、喜も怒も哀も楽も存在することをやめた。その時彼は、あらゆる情動が精神と魂の結びつきによってはじめて発生する相対的な現象であることに気付いたのだ。
 世界は色彩を失った。神の呪いを受けた、あの日以来。
 冷酷な判断力で日々を生き抜き、《ヴィラ・ディチビラアト妄塔マウキレカスの永夢》の糞のごとき神託に唯々諾々と従い、恩も恨みもない他人を殺戮する人生。何の感動も喚起されない世界の中。
 あまりのくだらなさに笑えてくる。やれ殺せ。やれ奪え。唯一絶対のはずの神が、なにゆえ人間風情の生死を気にするのかまるで理解できぬが、魂を掌握されている以上シャエニは神に逆らえぬ。神の触手によって永遠に圧殺されつづける少年の苦鳴が、青年から一切の自由を奪う。あらゆる欲求あらゆる情感を塗りつぶす絶対的な義務と化す。
 救わなければならない。
 だが、救う方法はない。
 痙攣をやめた男の頭から、刃を乱暴に引き抜いた。引っ張られて屍は均衡を崩すも、振り子のごとくに常態をとりもどした。白濁した眼がシャエニの命を待つ。
「神の剣を探している。それは剣であると同時に、風をまとうた殺意の神性だ」
 沈んだ声でそれだけを告げ、細刃を横へ鞭のごとくに打ち振るった。刃金の靭性が剣身を震わせる。屍は弾かれたように顔を上げ、剣先の指し示す先へと駆けていった。
 シャエニが組み立てた緻密な戒律は、意志なき肉体を走行せしめるばかりでなく、人間に可能なほとんどの動作をさせられる。状態演算、姿勢制御、路面認識、外力適応、その他もろもろ。
 すでに三十三体の下僕を方々に放っている。各々の死体の知覚と、屍術師たるシャエニの意識とは、剣を通じて繋がっている。強力な神気を放射する存在と遭遇したなら、即座にシャエニの知るところとなるのだ。だが、ウヴァ・ルトクオは大都市だ。たかだか三十程度の数では到底探しきれまい。短時間で爆発的に配下を増やし、都市全体を掌握する手段もあるにはあるが、それは禁じ手だ。神剣ンルギレムを求めて蠢動する勢力はシャエニだけではない。なるべくなら隠密にことを終わらせたいのだ。結局、地道に凶刃を振るって奴隷を増やすほかない。
 思考を終わらせ、前方に意識を戻すと、ちょうどそこに人影を見いだす。
 ――三十四体目、か。
 さっさと終わらせよう。
 歩みを速め……ようとした刹那、空漠たる瞳がわずかに見開かれた。
 なんだ、あれは。
 声に皮肉げな笑いが混じる。陰に沈んだ隘路の中心で、その人物はたたずんでいた。
 いや、それを本当に人物と呼んでも良かったのか。輪郭は確かに人類にも似ていたが、それが尋常な者であるなどといわれても、誰も信じはしないであろう。土色の肌は潤いの欠片もなく、あたかも襤褸布のごとくにひび割れ乾涸び弛んでいる。全体的に骨格が皮膚を突き破っており、手足は細く、肉が削げて腱や筋が露出している。そして所々に黒ずんだ茶色の黴が群生し、臭気を放っていた。顔も醜怪で、ほぼ頭蓋骨に薄皮が張り付いているのみで、歯茎や眼窩の様子が容易に確認できる。一言で表すなら、それは乾涸びた死体であった。むろん、ただの死体は直立しはしない。あまつさえ、黒く陰りたる眼孔に意志の光を宿し、見返してきたりはしない。
 “それ”は、シャエニを見ていたのだ。まっすぐに。
「ウヴァ・ルトクオは怪異の巣窟と見える」
 せせら笑いながら、シャエニは歩みを再開した。
 瘴気渦巻く空間の中で、人型の魍魎の姿態がより明瞭になる。驚いたことに、彼の者は涙を流していた。乾いた岩盤の間から脈絡もなく水が湧き出すかのごとくに。
「……ぉぉあぁぁああぁああぁぁぉぉ……ぅぅぉぉおおぉおおぉぉうぅぅ……」
 哀しいのか。恨めしいのか。呪わしいのか。聴く者を暗く冷たい水の底に引きずり込むかと思える鬼哭啾々。呼応するかのように、全身より濁った血が染み出るように流出している。
 何者か。あるいは何物か。
 シャエニは正相を掴めずにいた。まず間違いなく、屍術による操り人形ではない。なぜなら死体は涙を流さない。深奥を極めた屍術師であれば泣かせることもできようが、それをなす理由がない。
 屍術師が死体を操るのは、多少魔術的な要素が絡むとはいえ、基本的には解剖学的な技術だ。現存している犠牲者の筋肉、神経、循環器などをそのまま利用して使役するのだから、ここまで損傷著しい死体を動かすなど不可能と断言できる。そもそも、これは本当に屍なのか。
 乾いている。朽ちている。崩れている。それは明らかに人間の肉体であり、明らかに生きてはいられない腐朽具合だ。にも関わらず、なにゆえに落涙と出血などしているのか。それは彼が生きている証だというのか。意識を保っているというのか。
「……ぃぃいぃぃいいぃいいぃぃぃ……ぎぃぃいぃぃぎぃぃぃああぁぁぃぃいいぃ……」
 動いた。
 痩せ細った脚を前に踏み出し、こちら一歩近づいてきた。シャエニの方へと。緩慢に、苛々するほど遅滞しながら。
「お前は、なんだ」
「……りいぃぃぃぃいいぃぃいいいぃ……ぅおおぉおぉぉぉおおぉぉぉぉおぉぉぅ……」
 ぐらり、ぐらりと上体を泳がせ、前に倒れそうになりながら。
「……ひいいぃぃいぃぃぃいいぃぃぃ……ぃぃいぃぃぃいぃいぃぃぃいいぃぃ……」
 彼は手を伸ばす。シャエニへと。渇望に打ち震えながら。
 ゆっくりと。たどたどしく。
 シャエニの歯が、ぎりりと音を立てて軋んだ。名状しがたい苛立ちだった。むろんそれは危機感が鳴らす警鐘であり、危険を感じた肌が伝える情報でしかなかった。転瞬、砂肉蟲の捕食のごとき刃が青年の腰元からほとばしる。光を曳く。鋭絶なる剣は脆き頭蓋を砕き割り、脳の中心で止まった。間髪入れず、戒律を流し込む。死者を永遠に縛る毒を。
「化け物。おれに従属しろ」
「……ああぁああああぁあぎいいぃいぃぃぃいいぃぃぃ!」
 “それ”は絶叫を上げた。激しい発振に耐えきれなかったのか、喉が裂けて破れ、すぐに止んだ。唐突に静寂を取り戻せし薄闇の底で、黒い瞳だけが滂沱と濡れている。口は開かれて苦痛に歪んでいた。
 同時に、瀑布のごとき衝撃がシャエニの脳を内側から打ちのめした。
「かっ……く……!」
 視界が撹拌される。二重写しとなる。頭の中心で苦い塊が生じる。意識を締め上げる。流れ込んでくる。逆流してくる。繋がる。剣を通じて。その者の内部でもがきうねる、思念。情念。怨念。それらが凄まじい内圧をともなって暴れ回っていたところへ、シャエニは剣を突き入れたのだ。撃ち込んだのだ。荒ぶる巨鯨のごとくに猛り狂う愛が苦痛が悲哀が憎悪が、忽然と出現した出口に向けて急流のごとく殺到した。刃を通り、シャエニの腕を通り、胴を侵し、頭脳を侵し、精神に牙を剥いた。
「ぁ……ぁあ……ぎ……」
 慟哭だった。あるいは愛の残り滓。または狂おしき回顧。転じて心臓を引き千切る慚愧。もしくは理性を灼きつくす渇望。つまりは救済への渇望。わかたれたる渇望。それは嵐。混沌の精粋。シャエニは確信する。奴は人間なのだと。そして掻き分ける。荒れのたうつ嵐の海を。抜け出そうともがく。感情の怒濤の中で。あがいてあがいて。力の限りあがいて。力つきて。沈む。どこまでも沈みゆく。情操の煮汁の底へと。深淵へと。かの者の奥深くへと。
 そして、見た。
 人影を。否、神なる影を。そして永劫を。恒久なる監視を行う雄鶏の頭、絶対秩序の根本原理を表す人の胴、妥協なき卑劣さを振るう両脚は蛇の似姿。右手の鞭は力であり、左手の盾は英知である。混沌たる宇宙を時と空にわかち、根本的周期を定めたる神性。至高なる根源者の、さらに強大なる息子。始まりはなく終わりもない循環の独裁者。
 輪廻の神《真なる虚の裏側より来たる》。
 もしもシャエニが、魂と精神の結びつきに依る尋常な内面の持ち主であれば、神を直に見たその瞬間に発狂していたことであろう。
 己の精神を滅ぼしうる絶対の強者を前に、シャエニは死力をもってあらがった。すでに魂を引き剥がされている。このうえ意思までも奪われてなるものか。
 脳裏に絡みつく菌糸のごとき神気を吶喊とともに吹き飛ばす。叫喚が神の泡影を引き裂いた。尋常なる物質世界への帰還。受肉。腕や脚の端々に意志をゆきわたらせる。
「……らぁッ!」
 輪廻の神との接点たる剣を引き抜き、入れ替わるように拳を叩き込んだ。妙に軽い手応えと同時に、心機を苛む不快な酩酊が消えた。五感が正常に働き始め、世界がどっと押し寄せてくる。臓腑が酸素を求めている。熱を帯びていた躯が急速に冷えてゆく。極限の狂気と相対しはしたが、動揺はない。意識と魂の結びつきを断たれた者は、いかなる事物にも取り乱すことがない。できない。
 とはいえ、精神の疲労そのものはいかんともしがたい。
 巨大な卵が地面に叩き付けられ、中の幼胚が潰死したかのごとき湿った音がした。続いて人体のくずおれる、どさりという音。そこには、頸が粗雑に千切れた首なし死体が転がっていた。
 荒い息をつき、現状を把握する。要するにこの屍は、永劫なる循環の支配者たる神格、《真なる虚の裏側より来たる》に従属する越境者であったのだろう。
 だが、もはや死んだ。いかなる力と、いかなる呪いを受けたのかは知る由もないが、殴られて首が外れ、滅んだ。
 だが。それゆえに。
 冷厳なる知性は警鐘を鳴らす。
 自分以外の越境者が、この都にいた。それはつまり、ンルギレムの所在を知る勢力が、すでにウヴァ・ルトクオに展開を始めているという明らかな証左。
「急ぐべきか」
 いわずもがな。シャエニは影色の外套をひるがえし、何事もなかったかのようにその場を去った。

【続く】

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