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神なる闇、剣なる影にて  #2

  目次

 天地が腐臭を放つより前の時代を知る者は、もはや一人とて生きてはおらぬ。
 少なくとも、尋常なる生命の中には。
 幾柱もの強壮なる神々が黒くぬめる御手を伸ばし、あまねく万象をかき抱いている。もはや二度と解き放つこともない。
 世界は正常に狂っていた。
 時世は至当に醜かった。
 神々は宣う。
 原初からそうであったと。
 時空も位相も整然と繋がり流れることをやめ、世界は闇に狂い咲く離弁花のごとき構造を形作る。花弁のひとつひとつに八百万の神が座し、したたる芳醇な蜜を手中に収めんと手を伸ばす。お互いがお互いのねじくれた手を払いのけ、甘やかな蜜腺を独占せんと荒ぶりのたうつ。花柱に小さな虫が居ようとまるで意に介さず、一部の神々は虫の存在に気付くことすらなく、野放図に無遠慮に花の中央を蹂躙する。
 だが。
 神々は蜜腺に直接足を踏み入れることができぬ。
 花弁の接合部にて立ち、腕を伸ばすことしかできぬ。
 なぜなら、神々とはあまりにも大いなる存在であるがゆえ、狭く細くくびれた付け根は渡れぬのだ。花冠の央にて身を寄せあう小虫どもが今日まで生き残りえた所以は、ただそれだけのことでしかない。

 そこは赤い森であった。
 無限の渇きと永劫の寂滅に虐げられたるアンバアンの紅き沙漠。乾ききった血痕を想わせる狂った色彩の地平の直中で、なにかの諧謔のごとき勃然さをまといながら、赤黒い樹林が無数に植生している場所があった。
 血の色の土を生命の要たる水とともに練ると、いささか黒ずみて不吉な色彩を帯びた――恐らくは悪意に満ちた巨大な存在の皮肉なのであろう――粘土となる。それを焼き固めて造られた煉瓦の無窮なる集積が、かの森の実相であった。
 ウヴァ・ルトクオ。
 狂わしきアンバアンの、呪わしき天楼群。
 高層建築の基底部と上層部とでは、同じ都市とは考えられぬほどの豹変ぶりを見せ、視る者を奇妙な酩酊にいざなう。が、わずかなりともその影響を受けていないかのように泰然と歩みを進めている者があった。
 薄闇に封じ込められたる都市の根基に、木綿の長衣と外套によって体型を隠した男が一人。冷暗の底にそびえる上背が、ナキシュの幽冥にて罪人を待つ幽鬼の様相をみせる青年である。目元からわずかにのぞく素肌は、腐敗がはじまる寸前の死体のごとき象牙色。酷烈な暗光にあぶられ続ける極地マウキレカスの民であった。
 名を、シャエニという。古マウキレカスの言語で“贄”の意を冠するその忌み名を、本人は気に入っていた。本質を表す名だ。呼称はわかりやすく正確なほうが良い。当たり前のことだと考える。
 シャエニは歩みを進める。ウヴァ・ルトクオの無数の楼閣が冷酷な陽光を遮るゆえ、ここは暗く涼しい。あたりに人影はない。山羊や豚の嗚咽と、上層民たちが投棄する残飯糞尿の香りだけが漂っている。
 通路の向こうから、粗末な腰布のみを身につけたベシュメルの白き奴隷が歩いてきた。愚鈍げな荷馬の手綱を引いている。ウヴァ・ルトクオは二つの文明圏の境に位置する通商都市だ。物品のみならず、奴隷も世界各地のものが流通している。
 シャエニは変わらず歩みを進める。奴隷も歩みを進める。
 荷馬が何かを察したのか、急に足を止めて嘶き愚図り始めた。白人奴隷は舌打ちして手綱を引っぱり、それでも家畜が動かぬのを認めるや、罵詈とともに鞭を取り出した。彼の右脇の下からは、赤子の大きさの腕が生えていた。手が三本もある計算だが、今や奇形など珍しくもない。神々の悪意によって、自然環境のみならず人間どもも少しずつ異形へと造り変えられつつある。
 愚かな畜生に悪戦苦闘する奴隷の横を、シャエニは悠然と通り過ぎた。
 かに見えた刹那、青年の腕が掻き消えた。閃光が闇を疾り抜け、奴隷の頭を通過していった。ベシュメル語の口汚い悪態が、唐突に止む。白人奴隷の頭から細く優美な剣が生えていた。その柄はシャエニが逆手に握っている。
 抜剣、順手から逆手への持ち替え、刺突。三つの動作が切れ目なく連続し、抜く手も見せぬ瞬撃を繰り出したのだ。アンバアンの無慈悲な斜陽のごとき切っ先が奴隷の頭蓋に対して垂直に突き立っている。あまりにもな正確さ。鮮やかさ。
 荷馬が兇手の青年の陰った瞳を見、恐慌の嘶きを上げて走り去っていった。
 奴隷の死にゆく肉体が、断続的に痙攣を始めた。それは断末魔の震えなどではない。より忌まわしい意味を含んでいる。剣によって空間に縫い止められているかのごとく、頭部だけが微動だにしていない。
 青年の腕から剣を伝って、不可視の何かが脳に流し込まれている。それは思念であり、瘴気であり、微細な雷撃の形をまとう戒律であった。奴隷を意のままに操るための命令を脳に直接刻み込んでいるのだ。記憶や情緒を塗りつぶす、人格の完全なる否定。抗うように、ベシュメル人は微細な痙攣を続ける。右脇の小さなかいなだけが、狂ったように暴れ回っていた。不随意の筋肉が戒律に反応しているのかもしれない。
 数瞬後、屍の戦慄きが静まった。シャエニは剣を引き抜いて鞘に納める。血はほとんど出なかった。死体はくずおれもせず、俯き気味に佇んでいる。
「剣を、探している」
 シャエニが口を開いた。無味乾燥な、いかなる執着もなき空虚な声であった。
「一振りの剣であり、一柱の神である。あるいは風の象徴としての、擬人化された殺意である」
 今や完全なるシャエニの僕となった屍は、微動だにせぬ。
「探せ。我が主にして糜爛の神《ヴィラ・ディチビラアト妄塔マウキレカスの永夢》にとりて、それは必要なるものだ」
 奴隷の死体は、ゆっくりと顔を上げた。無味乾燥な、いかなる執着もなき空虚な眼であった。

「ンルギレムよ。世界に孔穿つ魔剣よ」
 死にゆく世界が流す血の色をした斜陽によって汚猥に凝った影の界隈。その一角に、いまだ成人も迎えぬ年頃の少年が佇んでいる。浅黒い肌と通気のための間隙を広くとられた麻の着物は、ウヴァ・ルトクオの民の証だ。その暗褐色の瞳は陶酔に染まり、暗く濁っていた。
「我が血肉を使え。我が肢体を使え。我が臓腑を使え。我が脳を使え」
 表情は弛緩し、白痴の形相となっている。薄い口唇だけが、あたかも顔面に取り憑いた寄生虫のごとくに明確な意志をもって言の葉を茂らせていた。ぎこちなく歩みを進め始める。力と命が感ぜられぬ、人形のごとき挙動にて。
「我が魂を使え」
 少年の虚ろなる視線の先には、錆びた塊があった。表面に歪な凹凸が無数に刻まれ、深海に潜む太古の銀鱗のような、ひどく美的感覚を狂わせる異形であった。一見してそれが何なのかまるで判然としない物体である。材質は古くくたびれた鋼のようにも見えたが、錆びに覆い尽くされ、それが永い間放置されていたことは想像に難くない。人の命では知覚すらかなわぬ永劫の中で、いつしか錆と同化して己の皮膚としてしまったかのような、無機物であるにも関わらず有機的嫌悪を視る者の裡に励起せしめる鉄塊であった。
「――我を使え」
 百人が見れば、あるいは一人程度は、その姿を剣と見る痴れ者もいたやもしれぬ。

 どれほど世界が神々の悪意に掌握されようと、卑小なる人間どもが営みを止めることはない。狂える神気に当てられた自然が牙をむけば、人はより狡猾に悪辣に、自らを脅かすすべてと渡り合ってゆく。いかなる狂気も、いかなる殺戮も、それを根絶できはしない。
 血砂礫の都市は、そうした人類の偏執的な生存への執着を象徴するかのように、卑猥なまでの華やかさを誇っていた。
 上下二層にわかたれたるウヴァ・ルトクオは、まったく様相を異にする二つの都市が積み重なっているかのようである。煉瓦高層建築の上層都市では、無数の広大な室内にて猥雑な市場が育まれていた。多種の蟲油による灯火が多彩な光を放射し、千万の露天商たちの顔やその商品を幻覚的な色に染めていた。幾多の民族が行き交う人通りは、肉の万華鏡ともいうべき多彩な人影を行き来させている。ある商人は左足が奇妙に短く、ある娼婦はしきりに背中を気にし、ある博師は常に右掌を握り込んでいる。衣服にて隠しているだけで、人ごみの半数近くはなんらかの奇形であった。甘たるい煙草と大麻の匂いに隠されて、オッディルンやカイグの肉食果実が特徴的な刺激臭を発している。
 干肉、干魚、乾酪、穀物、原酒、肉桂、油、塩、秘薬、媚薬、麻薬、各地の奴隷、顔料、ウヴァ・タシオの織物、ドログ・ギィグラの武具、憤怒の神の免罪符、そして水。幾多の物品が無尽蔵に存在を主張し、道ゆく者どもを誘惑する。
 さなか、ひときわ豪奢な絹の長外套を被った人物が、しゃなしゃなと歩いていた。
 背丈は低く、何か大きな荷を背負っているのか、外套の背の部分が妙に角張った形で膨らんでいた。見ようによっては背中に生えた翼を無理に衣服の中に押し込めているようにも思われる。
 目深に被った外套頭巾の奥からは、上品に整った少女の顔が見えた。頬は柔らかく丸みを帯び、肌の色は好奇心に紅潮した白。眼を引くのは大きな瞳だ。いかなる血筋に連なる者なのか、その色は鉱石のごとき紫紺。両眼の下には、なだらかな鼻梁と品よく緩められた口元がある。細い首から下では、躯に密着したひとつながりの奢装が豊かな起伏を縁取っているさまを、絹外套の合わせ目から見て取ることができる。
 歪みゆく世界にあって、奇跡の産物とすらいえる健康的な美しさを湛えた少女である。
 名を、ルリムという。
 “至尊の花”の意を冠する、容姿をよく表したその名は、彼女が愛され祝福されながら生を受けたことを意味していた。
 ルリムは無数に存在する興味の対象に引き寄せらながら、あちらこちらへ行きつ戻りつ楽しげに、市場という名の小世界を味わっていた。すでに三つの紙袋が細く華奢な腕に吊り下げられ、煤けた床との接吻に焦がれている。
「荷物持ちさんが必要ね」
 苦笑まじりにつぶやくその声も、母猫の尾にじゃれつく仔猫のように高く澄んでいた。
 ふと、その優美な眼が向きを変える。視線の先からは、甲高く耳障りな怒鳴り声が響いてきた。ルリムはなにか思う所があったのか、人ごみをかき分けて声の方向へ駆けた。
 雑踏の帳を左右に開いて目にした光景に、少女の完璧な形をした眉がひそめられた。そこでは黄褐色の肌をした大柄なタアキリ人奴隷がうずくまり、ウヴァ・ルトクオの女性が彼を鞭打っていた。彼らのそばには複雑なタシオ様式の陶器が粉々に散らばっており、それが女性の怒りの引き金らしかったが、奴隷が哀しみと同時に諦めの表情を浮かべていることを鑑みるに、彼女の病的な憤怒は日常的に撃発するものらしい。興奮のあまり、もはや意味の聞き取れない金切り声が、通行人の耳に牙を剥いている。鞭が幾度もひるがえり、高い破裂音とともに奴隷の背から血がほとばしった。
 人々が避けて通る空白地帯に、ルリムは進んでいった。
「あのぅ」
 荒々しく上下する女の肩に、手を置いた。
 肉食獣にも似た唐突さで、吊り上がった目がルリムを射抜いた。反射的に肩が縮こまったが、言葉を続ける。
「やめてあげてください。この人もう血まみれです」
 ルリムが言い終わらないうちに、女は痩けた頬を歪ませて、がぁ、とか、ごぉ、とかいう吠え声を立てた。よく注意して聞けば“邪魔”“うるさい”“あたしの勝手”“何様”“偽善者”などの意味を取り出すこともできたが、あまりに甲高く切れ目のない早口であったため、ルリムにはわからなかった。
「壷はわたしが弁償します。どうか許してあげてください」
 どこか論点のずれたことを言いながら、さらに歩み寄った。すると女は鞭を唸らせてルリムの目の前の地面に打ち付けた。“うっとおしい”“おせっかい”“どっかいけ”“あたしの奴隷”“打たれたいのか”などの詩的な麗句をがなりたてた。女よりもルリムのほうが遥かに美しかったことも、事態を微妙に悪化させていた。
 ルリムは細い眉尻を下げた。要するにこの女性は、理由などなんでもよく、ただ誰かを鞭打ちたいだけであることを、ようやく理解した。悲しげにうずくまったままのタアキリ人奴隷を見やった。よく陽に灼け、筋骨たくましく、まっすぐに立ったなら相当の偉丈夫に見えることであろう。ルリムは紫紺の眼を艶やかに細めた。たおやかな両手を合わせて微笑んだ。
「ではこうしましょう。わたし、その方を買い取ります」
 絹外套の内側から布袋を取り出し、女の浅黒い手に握らせた。ぎっしりと重いロオキディ楕円貨幣の感触に、女が一瞬眼を丸くした。
「ではそういうことで」
 自失している女の横を悠々と通過し、いまだ痛みにうめいている奴隷の血まみれた背に、肉が裂けるほどの傷が幾本も走っているさまを見た。太い腕に手を触れ、いたわしそうに声をかけた。
「可哀想に……立てますか?」
 奴隷は苦鳴をもらしながら顔を上げ、はじめてルリムの麗貌を目の当たりにした。息を呑む。
「あなたはわたしが買いました。これからよろしくお願いしますねっ」
 その柔和な笑顔に男は魅せられ、眼の奥に揺れる生々しい光を見落とすこととなった。

 死霊術師ジアドリクは、その五百余年の生涯で、もっとも滑稽な事件を目の当たりにしようとしている確信をもった。死霊占いの技能をもって暮らしを立てる彼は、こうして巨大な大通りに露店を構えていると、よく奇妙な騒ぎを目撃する。今、この瞬間も。
 神経質な顔をした女が、大柄な奴隷を鞭打っていた。そこへ類稀なほど美しい少女が進みでてきて奴隷を庇い、女に金を押し付けて彼を買い取ってしまった。横目で盗み見ていた通行人たちは唖然と眼を剥く。女に渡された貨幣はロオキディの優美なる楕円。加工技術の喪われた蒼銀鋼の表層に、死したる翼蜥蜴と大刀を携えた男の意匠が施されている。一枚で一年は暮らせるそれが、袋の中に大量に入っていた。奴隷一人の代価としてはあまりにも高額だ。
 怒鳴っていた女は慌てて袋の口紐をしめ、そそくさと立ち去っていった。金額は彼女の怒りを吹き飛ばすほどのものだ。ウヴァ・ルトクオの盛り場にて金品をいつまでも見せびらかしておくのは、強奪してくれという意思表示にほかならない。
「なぜ、おれを庇って下さったんで……?」
 一方で、大柄な奴隷は陶酔と困惑の入り交じった口調で少女に尋ねていた。
 すると、彼の目の前に紙袋が突き出された。少女の荷物のようだ。
「荷物が重くて。持ってくれる人が欲しかったんです」
「そんなことでしたら、そりゃあお持ちしますが……」
「あ、ごめんなさい。傷の手当が先でしたね。わたし、なんだか忘れっぽくって」
 連れ立って、奇妙な二人は歩み去っていった。
 ジアドリクはその様子を凝と見ていた。瞼が鋭く細まる。その霊的な視覚により、ジアドリクは少女の本質を看破していた。あまりにも強力なる本質を。
「あの娘、越境者か」
 口の端がつり上がった。
 越境者。
 花柱を飛び立ち、世界という名の境を越え、花弁の領域に至り、そこにおわす神より力を授かった小虫ども。彼らが受け取った力は、神のそれの極々一部なれど、現世においては絶対的な強者となりうる。
 だがそれは加護などではない。呪いだ。この時代において、信徒に対して無償の恩寵を与えるほど善良で能天気な神など存在しない。あまりに重い力の代償は、黒く陰惨に彼らを苦しめる。
「神の剣を求めて集まってきたか。外道の代行者どもよ。鏖殺の神《ンルギレムの殺す風》はお前たちの手に負える存在ではないというに」
 つぶやきは、しかし誰の耳にも捉えられることなく、猥雑な雑踏に溶け込んでゆく。その瞳は薄汚れた極寒地の氷のごとき灰色であった。去りゆく少女に向けたそれは、身を案じるようなたぐいの視線ではない。ただ冷ややかに見下すのみ。
「おい」
 すぐ近くで声がした。目を正面に戻すと、いつのまにやらそこに長身の男がいる。暗色の外套が体型を覆い隠し、天に向けて突き上げられる黒い剣のごとき痩躯を浮かび上がらせている。くすんだ白い顔からは血の気が感ぜられぬ。陰った瞳は、瞳というよりは中身のない空虚なる硝子玉と見たほうが違和感がない。
「おや、客人かな」
 ジアドリクは、あざけるように笑む。
「お前は死霊占い師だな。おれの未来を示せ」
 台の上に、いくたりかの硬貨が放り出された。
「何が知りたい?」
「探し物をしている」
「それは剣かね」
 青年の目が暗い嗤笑に毒された光を反射した。
「どうやら似非の死霊使いではないようだな。そこまでわかるなら話は早い。場所を教えよ」
「無理だな」
 ジアドリクは即答した。
「なぜ」
「君が探している剣はただの鋼の塊ではあるまい。魔剣ンルギレム、神剣ンルギレム……あるいは鏖殺の神と呼んだほうが通りがよいかな? あぁ、よいよい。そう警戒するな。別段、君の事情を嗅ぎ回っていたわけではないよ。わかるのさ、死霊占い師とはそういうものだ。余計なお世話だろうが、あれに関わるのはお勧めせんよ。あれは神の眷属でも神の武具でも神の写し身でもない。神そのものだ。神がたどる運命とは、すなわち神の意志に他ならない。死霊占いは、何者かの意志を読めるようなたぐいの卜術ではないのだよ。君は……ほう……よく人を殺めているな。おかげで死霊どもが盛んに君のことを暴きたててくれる。糜爛の神に仕える越境者か。名前……シャエニ、ね。実に素晴らしく良い名だ。今日はやたらと越境者をよく見かけるな。やはりンルギレムがこの地に存在するのは真実のようだ。神々にとって、あの剣は喉から手が出るほど欲してやまないものなのだろうからな。受け継いだ力は……ふん、屍術か。屍は操れても魂を操れぬのであれば、あまり上等な力とも思えんが……おう! これは面白い。細かい状況によって無数に場合分けを行い、生者と変わらぬ振る舞いをさせられるか! 死者を操る戒律をここまで詳細に体系化した屍術師は君以外にはおるまいて。まさに死者の尊厳を微塵も考えぬ鬼畜の所行だな。実に面白い。……ところで、喉に突きつけている物騒なものをそろそろしまってはどうかね?」
 喉に触れるか触れないかの位置に静止する、優美なる直線を見やりながら、ジアドリクは冷笑した。ウヴァ・ルトクオの雑踏は、刃物の煌めきを見せられた程度では恐慌に陥ることはない。せいぜい二人の周りから人々が距離を取るようになるくらいだ。
「お前も越境者か。死霊術など積んでいるわりに若く見えると思えば、そういうことか。偉大なる糜爛の神は、他神に組するものの殺害を推奨しておられる。それ以上余計な口をたたくつもりならば死ね」
「死霊どもが君の中を覗き見て告げ口してくるのは俺の意志ではないよ。それから言っておくが、微塵も偉大だと思っていないものを偉大と称するのは感心せんな。なぜ君のような不信心者が越境者になど選ばれたのやら」
 嘆かわしげに首を振る。
 と、その眼が急に見開かれた。口元に歪んだ笑みが広がる。
「……はは、これは! 君は見た目以上に滑稽な存在だな! 肉体にも精神にも欠けた所が何一つなく、健康な体と明晰な思考を備えているというのに! それらの恩恵を受けるはずの根源的な主体が存在しないのか!」
 腹の底から染み上がってくる嘲笑の衝動が、ジアドリクの身を折らせた。
 一方、屍術師の青年は冷ややかに剣を構える。
「いまここにいる君は君自身ではなく、主体に君という形を与えていた鋳型にすぎないといったところか。また難儀な代償を支払わされたものだな若者よ。それでよく心の統合性を保っていられる。よほど理性が上手く立ち回ってい」
「遺言にしては冴えない言葉だったな」
 横一文字に冴え冴えと冷光が走り、ジアドリクの頸椎を抵抗なく通過し、間違いなく斬り裂いた。死霊術師の首級が宙を舞う。地面に落下しないうちに――
 爆発した。
 生首が、無数の鴉へと相を転じたのだ。一切の羽毛を生やさず、不健康な斑色の皮膚を持つ禽が、本当に鴉であるのならば、だが。
 さすがに驚いた通行人たちが声を上げた。
 ぬめり光る皮翼を広げ、肉色の鴉たちは散り散りに飛び去る。青年の足下に崩れ落ちた首なしの体も見る間に分解し、神経を逆撫でる絶叫を放ちながら逃げてゆく。
「呪い師め。奇妙な術を使う」
 屍術師の青年は構えていた細剣を下げ、吐き捨てた。
 そこへ突如、鴉の一羽が舞い降りてきて目の前に滞空した。軟質かつ粘着質な音とともに胸の部分が縦に裂け、舌と歯をそなえた口唇となる。
「やれやれ、無法をはたらく。短い気質は様々なところで損をするぞ?」
 赤い舌が踊り、死霊術師の声で喋った。
 シャエニは即座に蠍神オオンァトの毒針のごとき刺突で魔鳥の躯を貫き通した。四肢を強張らせ、鼓膜を不快に撫で上げる叫びを発しながら死せる鴉は黒い瘴気となって蒸発した。だが直後に青年の背後で声がする。羽音とともに。
「無意味なことはやめておけ。君では俺は殺せない」
「人妖が。人間の言葉をしゃべるな」
 振り向きざまに斬り払う。弧を描く剣閃は、しかし何も捉えはしなかった。
「失敬な。多少長く生き、多少まじないを齧っているだけだ。生粋の人間だよ」
 屍術師の頭よりやや上空にて、異形の禽鳥がいる。胸の口腔であざ笑いながら言葉を続けた。
「そう――君と違って、な」
 シャエニの虚ろなる眼が冥き色をまとうた。取り合わず、ジアドリクは言葉をつづける。
「『人間』とは、己が在ることを認識している知性にのみ与えられるべき神聖な尊称だ。君はちがうな。肉体の中にも、精神の中にも、君そのものはいない。肉体とは、物質的な刺激の入出力をおこなう端末だ。精神とは、主体からの欲求と肉体からの情報を合理的な形に解釈してそれぞれに伝える翻訳者だ。どちらもそれだけでは人間たりえない。肝心なのは、肉体と精神によって支えられている根源的な主体だよ。君にはそれがない。空洞だ。がらんどうだ。人の形をした虚だ。そんなものがはたして人間と呼べるのかな?」
「さっきからくどくどと聞きもしないことを囀ってくれるな。おれが人間ではない? ああそうかい知ったことか。ンルギレムの在処を吐かぬのならさっさと去ね」
「クク……そうさせてもらうよ。神剣ンルギレムを求めるのならば、ふたたび相見えることもあろうて」
 生温き風を撒き散らし、禍鴉は陰気に羽ばたき去った。
 青年は見送った。凍りかけた汚沼のごとき眼にて。
 人通りはすでに常と変わらぬ雑然さを取り戻している。

【続く】

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