見出し画像

神なる闇、剣なる影にて #4

  目次

 誰一人とて生者の存在しない街の翳り。その深底。
 首を持たぬ乾死体がうずくまっている。やや離れた所には、その失われた頭部とおぼしき干涸びた塊がころがっている。明らかに、確実に、死したる者の様相。それも、永い年月を放置されていたとしか考えられぬ朽ち具合。
 だが、動いていた。引き千切れた創口の歪な断面が。
 乾ききりて瘡蓋のごとき質感を有する皮膚が破れ、中で赤い肉が蠢いている。無数の蚯蚓が寄り集まったかと思わせる、怪異なる肉質であった。体より切り離されし首級のほうでも同様の変質が起こっている。液体が泡立つ音が発生し、突如、双方の傷口より赤黒い血塊が噴出した。地面にびちゃりと広がった。傷痍を中心に花開くように撒き散らされた血糊は、やがてそれ自体が肉であるとでもいうように、異様な脈動を始めた。じょじょにじょじょに、さらさらとした血液は膠質の脂肉汁へと相を転じ、さらに凝固して完全なる固体の肉を紡いだ。赤く細い触手だ。頸と体から伸びた幾筋かの触手だ。それらが地べたを這いずり、まぐわうかのごとくに双方が結びつき、粘着質の音を立てる。いまや頭と躯は、赤い肉にて繋がっていた。ずるりずるりと引きずられるように頭の方が移動し、やがて癒着した。くちゃり。
 瞬間、
「……アアあぁぁァぁあアあぁあぁァアああ!!」
 慟哭が。そして、涙が。
 彼は泣いていた。
 痛い。苦しい。
 足を動かし、体重をかけるたびに、骨が肉を押しつぶす激痛に苛まれる。うめき声をあげようと喉を震わせると、えぐみが全身を貫き、激しく咳き込む。すると崩れかけた肺や気管が破れ、呼吸がしばらく不可能になり、気が狂うような苦痛を味わう。腕を動かせば関節部の肉が裂け、口を動かせば頬が崩れ、全身の骨も些細な刺激で砕け散る。
 あまりに呪わしきこの肉体。あまりに無力なるこの肉体。
 私がなにをした。
 幾千、幾万、幾億、数値化するのも馬鹿馬鹿しくなるほどの回数だけ、問われ続けた疑問。血を吐くような絶叫。
 あの時受けた神の呪いは、二百余年にわたって彼を苦しめ続けている。
 輪廻の神《真なる虚の裏側より来たる》。
 永劫の擬人化。生も死も、この神の前では固有の意味を失う。それゆえに、彼は生きることも死ぬこともできなくなった。彼が神と出会ったのは、いまだ世界が腐敗を始める以前。美しいものが溢れていた時代のこと。
 永遠の命を探求していた彼。この世界に対して見えざる御手を伸ばしていた輪廻の神。両者の邂逅は必然であった。
 そして彼は、いかなる事態に陥ろうとも決して死なぬ命を授かった。
 だが。
 それは祝福などではなく、陰惨な呪いであることに、彼は長らく気付かなかった。授かりし命は確かに不死なれど、不老ではなかったのだ。本来ならば老衰によって身体の働きが止まり、静かにこの世を去る年齢。それを遥かに超してもなお、彼は死ねなくなっていた。老化だけは、着々と進んでいるというのに。
 首を振って無意味な回顧をやめた。首の肉が引き攣れて千切れた。彼の今の容貌は、さまざまな描写のしようがあるものの、要約して一言でいい表すなら乾涸びた死体である。そして本物の死体よりは若干有力、という程度の非力で醜悪な肉体だ。
 辺りには、毒々しくも赤黒き摩天都市が不吉に屹立している。
 彼がこの狂わしき大都を訪れたのは、輪廻の神の神託が下ったためだ。
 世界に孔穿つ魔剣ンルギレム。殺意を含有する鋼の塊であり、それ自体が強壮なる神の一柱。《真なる虚の裏側より来たる》はこれを所望した。熱望した。
 『かの剣を我に献上したる暁には、汝の越境者たる任を解こう』。最高の智者たる輪廻の神は、そうとまで宣ったのだ。
 いかにしてアンバアンの沙漠を渡り、血砂礫の都ウヴァ・ルトクオにたどり着くことができたのか。彼の朽ち崩れた頭脳では、その答えを導き出すことはかなわなかった。
 いや、解などわかりきっている。歩いたのだ。
 永劫の沙漠の中を、水も食料も持たず。駱駝も伴わず。昼の日差しを防ぐ衣も、夜の寒さを防ぐ毛布も携えず。方位を知る術すら具備せず。
 ただひたすら歩き続けた。内なる神の声に引きずられるようにして。
 死なぬ呪いゆえに。
「残念。逃げられたようだな」
 精力的な壮年の男の声が、白々しく響いた。
「……ぅあ、ひ……ッ」
 急いで――しかし実際は緩慢に――振り返る。そこには精力的な嗤笑を浮かべる壮年の男がいた。
 二百年前と何一つ変わらぬ姿で。
 均整のとれた肉体に魔道者の装いをまとわせ、哀れみ、蔑んでいた。
 二百年前と何一つ変わらぬ姿で。
「があああぁああぁぁあああぁぁぁぁ!」
 吠えた。吼えた。猛り狂った。幾星霜の無念を吐き出すように。許せぬ。許せるはずがない。あの清浄な世界をこのような腐った様相におとしめ、すべての命を絶望の底に叩き落とした最悪の魔人。
 ジアドリク!
 彼は怒号したかった。その忌まわしき名を叫びたかった。だが、壊死しかかった舌は思うように踊らず、喉よりまろび出たのは名状しがたいうめき声だけであった。
 代わりに、痛みをこらえて仇敵に掴み掛かろうとした。
「久方ぶりに見てみれば、相も変わらず哀れな姿だな」
 不愉快な笑みを宿した男。その襟首に手をかける直前、周囲の大気が強烈な圧力をともなって朽ちたる肉体を押し包んだ。ただそれだけで、腕も脚も指一本すら動かせなくなる。
「ぐぅ……ッ」
「このまま握りつぶすこともできようが、まぁ、無意味はやめておこう。……あぁ、無理をしてしゃべる必要はない。俺ほどの死霊使いともなれば、君の薄っぺらな心中を読むなど容易いことだ」
 ぎちぎちと音を立てて、骨格が圧壊してゆく苦痛。つとめて無視し、意識の中で思考を言語化する。
「あ……ぎ……あ……」
 ――なぜここにいる。
「野暮な問いだな。君と同じだよ。ンルギレムはやはり世界の趨勢を決する鍵だ。もっとも、誰に握らせるのかは、なかなかに難しい問題ではあるな」
 ――好きにはさせない。
「おうおうおう、無力な小童子がほざきよるわ。そんな躯では何もできはせん。あげくに元素精霊はことごとく神々に貪り喰われておる。君は何の力もたぬ、ただの死体だ」
「ぐ……ぅ……」
 情けなさに涙が出そうになる。なぜ、こんなことになってしまったのか。意味のない問いがまた繰り返される。
「いつまでもそこで痛みにうめいて立ち止まっているがいい。俺は前に進む。誰一人達しえなかった領域へとな」
 全身を押しつぶす圧迫が、急に消失する。握り砕かれた肉体がくずおれ、すぐに呪わしき再生を始める。ぐじゅぐじゅ。
「俺は万象をあまねく支配する。一つの例外も認めぬよ。すべての民草。すべての生命。すべての大地。すべての大海! 俺が支配してやる。何もかも支配してやる。この世を構成する諸要素は、俺の脚に踏みにじられながら歓喜に打ち震え、そして絶望する! これこそが宇宙の正しき在り方だ」
 ――そんなことが本当にできると思っているのか。神々が赦しはしない。あの邪悪な理不尽たちが。
「神など!」
 こちらを傲然と見下していたジアドリクは、身を屈めて顔を近づけてきた。
「俺はすでに墓標の神を掌中におさめている。他愛もない存在であったな。持てる力ばかりが大きく、自分の存在にかかわる肝心な部分がまるでお粗末だ」
 獰猛な陰りを帯びながら、視界に広がる死霊術師の貌。人の身でありながら人を超越した狂絶なる魔人の貌。真円に見開かれた眼の中心には黒点のごとき瞳が滾り、口元はこらえきれぬ昴りに引き歪んでいた。無意識のうちに息を呑む。現在この街にいる人間の中で最強の存在と相対しているという絶望的な確信が、崩れた躯を侵食していった。
 できるのだ。この男には。
 傲慢と悪意が結晶したかのごとき男だが、それ以上に理知的だ。根拠のない自信など抱くはずもない。具体的な手だてなど自分には検討もつかぬ。だが、持っているのだ。それを成すための実力と意志を。世界の王となるための実際的手段を。
「……ひ……」
「とめられない。あらがえない。逃れられない。指をくわえて見ているがいい」
 噛んで含めるようにそう言い、ジアドリクは立ち上がった。
「旧交を暖めるのはそろそろにしておこう。これでも忙しい身でな。あと一人、神剣を受け継ぐに足る有力な越境者がいる」
 わざとらしく黒衣をひるがえし、こちらに背を向ける。肩越しに笑顔を見せた。見下すような笑顔を。
「ではな」
 爆発した。
 かのように見えたのは、ジアドリクの躯が無数の鴉に化けて一斉に飛び立ったからだ。衣服すらも細かく分解し、肉色の翼を生やして羽ばたいてゆく。
 ――待て!
 その思念は、無論のこと何の力も持ちはしなかった。

【続く】

こちらもオススメ!


小説が面白ければフォロー頂けるとウレシイです。