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神なる闇、剣なる影にて #5

  目次

 何もかも予定通りにことは進んでいる。
 人の営みに穢されたる埃風を浴びながら、クトディガリヌは不快げにウヴァ・ルトクオの異形なる街なみを感じ取っていた。
 くだらぬ都市だ。あまりに無秩序で、あまりに醜い。
 《黄昏にて天を見上げる識者の会》の総本山たるウヴァ・アギスの、盤面のごとき整然美を常に見つづけてきた彼には、とうてい許せぬ雑然さだった。
 ……まぁよい。どうせ間もなく滅びる都だ。
「外周部隊が結界の展開を開始したようだ。見切りが早いな」
「さようで」
 かたわらに侍る灰装束の男とそれだけを交わすと、再び眼下の都市へ意識を戻した。二人が佇むのは、無数にそびえ立つ天楼の中にあって、ひときわ沖天なる超高層塔の頂きである。塔の名を、《戴天の牙》という。
 ダンガアル様式の誇張された特徴をもつ神話的怪物たちが、頂上で奇怪なる曲線模様と同一化しながら、四方へとその手や翼や触手を伸ばしている。それらの精巧だが狂気じみた彫像の一端に、クトディガリヌは巻き付いていた。
 巻き付いていたのだ。
 彼の容貌を見て、一目で人間だと見抜ける者は少ない。大まかな輪郭からしてすでに人類を逸脱していた。いかなる怪異に身を襲われたのか、彼の体には下半身が存在していなかった。肋骨の歪曲した下辺から下にあるべき下腹や両足が、そこにはなかった。がらんどうであった。盛り上がった肩から伸びる奇形じみて長大な両腕が胸の前で窮屈そうに組まれている。その異形は、遠目にはアンバアンの沙漠を馳せる汚猥な逆関節二足歩行生物にも見えるであろう。断絶した胴体の断面はくすんだ灰白色の肉に覆い尽くされ、皮膚との境界線上で盛り上がっている。そして――
 その覆肉の中央部、皮膚を纏って下方に競り出ている肋骨に抱かれるように、桃色の綿のようなものがわだかまっている。否、蠢いている。原形質の粘液が糸を引き、太陽が射かける灼熱の悪意を反射した。
 腸、であった。本来、腹の中に押し込まれているはずの消化器官が外部に露出している。それ自体が一個の生物であるかのごとく、存在しない腹腔の中で絶えず身じろき、微かに湿った音を立てていた。
 脚が存在しないにもかかわらず、何ゆえに安定した姿勢を保っていられるのかと言えば、これなる腸が怪物彫像の突き出たる角に巻き付いているためである。逆さまの状態でぶら下がっている形だ。細い臓物はくちゅり、くちゅりと蠢きながら、石像を中心に幾重にも絡み付き、肉質の球体を紡ぎだしていた。
 繊細な気質の者が見れば、即座に恐慌を起こすことは疑うべくもない異相である。が、真下にてこちらを見上げてくる灰装束の男は、慣れているのか顔色も変えはしない。
 彼もまたクトディガリヌと同じく、傲慢の神《夕闇にて見下す者アザロトレ》を奉ずる大陸最大規模の大教団、《黄昏にて天を見上げる識者の会》の尖兵である。異神に仕える者たちに対する、徹底的な容赦のなさと剽悍さを恐れられ、《戮すものども》《鉄火の蝗》《血臭の運び手》などと仰々しくも物騒な呼び名を与えられていた。
 殲滅作戦である。
 越境者にして教団最強、大陸全土を見渡しても屈指の狙撃手たるクトディガリヌが、ウヴァ・ルトクオ全域を見渡せる高所に陣取っているのはそのためだ。
 異教徒の滅殺は、絶対観測者の教義における五徳に数えられる重要な使命である。
「今回の聖戦。小生はいまだに得心がいかぬのですが」
 ふいに、灰装束の従者が下から聞いてきたので、無言で続きを促した。
「『複数の越境者がこの都市に集結するので、先に網を張ってこれを殲滅する』――この神命自体にはいささかの異存もございません。気がかりなのは、何ゆえ今この時期に他神の下僕どもが集まってくるのか、ということであります」
 クトディガリヌは眼を閉じ、一瞬後に口を開いた。
「ンルギレムを、知っているか」
「……は、第二焔生礼讃教典儀を拝謁した節に、その名を見知っております。なんでも、世界に孔穿つ魔剣にして一柱の神とか」
「そうだ。世界に孔穿つ――つまり、隠り世に座する神を現し世に顕現せしめる力を持つ存在ということだ」
 神を顕現せしめる――それは《黄昏にて天を見上げる識者の会》にとっても最終的究極的な目標である。総大司教、越境者、そして末端の信徒に至るまで、教団の総員がこれに向けて躍進せんと励んでいるのだ。
 絶対観測者は、かく宣えり――

 あまねく地上は、わたしの王国となる宿運です。それは、何者にもくつがえすことのできない、確定事項なのです。しかれども、敬虔にして忠実なるあなたたちの精進いかんによっては、そのときをはやめることも、可能です。戮しなさい。ひたすらに、戮しなさい。異教徒、異神、眷属たち。一匹のこらず、戮しつくすとよいでしょう。かれらこそが、創世の八日目、《決別の秋》にて、あしき妖力をふるい、天の楽園と地上をきりはなし、あなたたちを、うち捨てられたる民へとおとしめた要因なのです。彼らが存在するかぎりにおいて、わたしの栄光は、あなたたちにとどくことはないでしょう。

 異教の完全なる絶滅のみが、神を目覚めせしめる唯一の手段とされる。
 ンルギレムの存在は、それ自体が教義と矛盾する要素をはらんでいるのだ。
「そんなものが本当に在るとは思えませぬが」
「確かに。星室の老人たちは、かの剣の実在に懐疑的だ。だが、在ろうとなかろうとあまり重要ではない。利用価値があるのは有象無象の異教徒どもがンルギレムの確在を信じているという事実の方だ」
 従者が息を呑むさまが、まざまざと感じられた。かまわず言葉を続ける。
「現在、ここウヴァ・ルトクオには鏖殺の神《ンルギレムの殺す風》が…………少なくとも異教徒どもがそれと考えている剣が、存在している。経緯は不明だがな。それが本物の神剣か否かはどうでもよい。《無因眼》によってこの世の誰よりも早くそのことを察した総大司教猊下の命により、特務を帯びた信徒たちが各地の異教徒の根城に潜入し、その情報を流しておいたのだよ」
「そして、血砂礫の都におびき寄せられてきた異教越境者どもを包囲殲滅する、と」
「概略はな」
「それで、越境者はどれほど集まっておりますか」
「三十五体だ」
「少ないですね。今しばらく待つべきでは」
「いや、《屍肉を食む黒羊》に《ヴィラ・ディチビラアト妄塔マウキレカスの永夢》、《飢えし大蛆》など、各々の神的宇宙において主神格に列せられる強絶な神性の僕がそろい踏みだ。餌を撒いたのは非常な成功と言えよう。これ以上集まれば、我の対応力を超える」
 クトディガリヌは何事にも慎重を喫する。その身に宿る越境者としての力は、おおよそ眼に写る範囲のあらゆる事象を完全に把握しうる知覚能力だ。それゆえに状況判断は非常に正確かつ確実。彼が無理というのならばそれは絶対に無理だ。
「逆にいうなら、いまこの状況であれば成功させられると?」
「当然だ。完滅する」
 気負いなど一切なく、必要最低限の言のみで意志を伝える。そういう言動が部下たちを安心させ、平常に保たせることを彼は自覚していた。半ば以上地ではあるが。
 異相の射手は再び認識を転じて街の状況に眼を向ける。知覚の網が広がり、意識は拡張する。己の主体が拡散し、世界に混じるかのごとき心地。
 クトディガリヌの空間把握能力は、常人のそれとは一線を画す精度だ。普通の人間であれば両眼が捉える二つの平面的映像を重ねあわせ、生じた“ぶれ”から間接的に空間を理解するしかない。だが、全を見抜く神の力の一部を授かったクトディガリヌは、三次元の空間をそのままに、そのものとして認知できる。
 ひとつの視点から世界を見るのではなく、世界そのものを意識の中に引き込むことによって観るのだ。それこそが、クトディガリヌの越境者としての力であった。代償として下半身と眼球を失ってしまったが。
 複数の越境者の存在を感ずる。
 三十五人の殺戮者を。
 作戦の開始と同時に、一息で五人は射殺したいところだ。その造作は始終終始、監視しておくに越したことはない。
「む」
 しばらくののち、訝しげに眉をひそめた。
 三十五体のうちの一体、下層部に位置する一体の存在感が、突然拡散したのだ。
 消滅ではない。拡散だ。
 強力な気配を放っていた一個の実在が細かく無数に分裂し、散り散りに散らばったのである。そのひとつひとつが独自の意志をもっているかのごとくに不規則な移動をはじめた。単純にそれを解釈するなら、ある越境者の肉体が細切れとなり、それぞれの破片が飛び回っているということになる。
 たとえ神の力を授かっているとはいえ、それほどの怪異を起こせる越境者など、世界全土を見渡しても非常に限られてくる。久しく見なかった、規格外の大物ということか。口元が歓喜に引き歪むのを、苦労しておさえた。
 “拡散”した越境者の細切れたちは、その後ひとまとまりの雲のごとくに同じ方向へ進路を転じ、高速で移動している。その行き先とは――
「配意せよ」
「はっ?」
 ――ここだった。

【続く】

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