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閉鎖戦術級魔導征圧者決定戦

 自分は今、伝説と対峙している――
 闘技場は、水を打ったような静寂に包み込まれていた。少女は滲み出る汗を掌に握り込んだ。喉がひどく乾いた。唾を飲み込んだ。観客達の視線が痛かった。
 目の前には、一人の男。
 鋭い眼光が、鷲鼻の上に乗っていた。あまりにも猛々しい魔力の流動が、彼の体内で竜のようにうねっている――それが、わかった。
 “魔王”と呼ばれたその男。常勝無敗の砲魔術師。
 かつてない危機感が、全身を鎖のように戒めた。胸の中に黒く冷たい淀みがあるようで苦しかった。こんなことではいけないという思いが、余計に不安を煽った。汗が冷たかった。
 ――端的に言って、怖い。
 だが。
 しかし。
 息をゆっくりと吸った。腹の底に気息を蓄積させた。恐怖が代謝され、自信に変じる様を思い浮かべた。
 大丈夫。必ず勝つ、とは言わないが、簡単にやられはしない。準決勝戦まで勝ち上がってきたのだ。今度だって。
 少女は鋭く呼気を吐き出し、腰を落とした。
 試合が始まった。

 膝から力が抜け、石の床に崩れ落ちた時、少女は歯噛みした。
 試合の終了を知らせる銅鑼の音が轟いた。
 少しだけ、泣けてきた。
 眼を拭い、身を起こし、男を睨み付けた。今回は遅れを取った。しかし次こそは。
 涙の残滓の向こうで、男の姿が微かにゆらいだ。
 少女は不可解げに眉をひそめた。
 様子が尋常ではなかった。男は眼を剥き、力なく口を開け、己の両掌を凝然と見つめていた。そのまま、膝を突いた。
 この勝負は、男の勝利のはず。
 なのに、なぜ。
 わけがわからなかったが、戦いが終わった以上、そこから立ち去るしかなかった。
 その時――
 対戦相手の男が立ち上がり、かすれた声で棄権の意を表明した。叫び混じりの悲痛な声だった。観衆達が大きくざわめき、次の瞬間口々に理由を問うた。
 男はそれに構わず、踵を返して選手控え室への出入り口に向かった。
 ふざけるな、と少女は怒鳴りたかった。だがそうはしなかった。できなかった。
 男が、一瞬だけ、少女を見たのだ。何かの感情を必死で押し隠した視線だった。
 少女は悟った。
 押し隠された感情とは、紛れもない憎悪であることを。

 ●

 斜面から見る市街が、夕彩に没していた。
 紅茶の中のような色彩。玩具のように小さな建物群。木組みに漆喰を塗り込めた家屋が多く、そのどれもが天井部に剣を象った白い塔を備え付けているので、巨大な塩晶の森の中を歩いているようだとよく形容される。
 日没を報せる鐘が周囲に響和し、年少の子供たちがはしゃぎながら街を駆け抜けてゆく。その声は、いつも聞くのより心無しか弾んでいる。
 子供に限らず、道往く人々の間にはどこか華やかな空気が漂っていた。最近、人口密度が高くなっている。
 今から四日ののち、三年に一度の『閉鎖戦術級魔導征圧者決定戦』――通称『魔法大会』が開催される。数百年の伝統を持つ、由緒ある競技にして祭典。大陸中から導師級の腕を持つ魔術戦闘技能者達が参加し、物好きな観光客達が押し寄せ、各国軍事関係者が視察に訪れ、商人達が出店を広げ、吟遊詩人や旅芸一座が彩りを添える。その経済効果は計り知れなかった。
 お祭りの空気。
 そんな中、少年が二人、戦闘職能養成学校のゆったりとした制服をなびかせながら歩いていた。体格にかなりの差があり、始めて見る者は誰も彼等を同じ十歳とは思わないだろう。
「ゴメンね、また付き合わせちゃって」
 フィーエン・ダヴォーゲンは大きな紙袋を両手で抱え、側を歩く級友を見上げた。甲高く、わずかに舌足らずな声。歩みを進める度に腰の模擬剣がかちゃかちゃと鳴った。
「気にすんな。俺も用があった」
 エイレオ・アーウィンクロゥは大きな紙袋を片手に下げながら、軽く肩を竦める。背負った身の丈ほどもある呪装杖が、年齢のわりに大柄な体をさらに威圧的に見せていた。
「導師レンシルへの差し入れ?」
「そ。姉貴も自分の飯くらい自分でなんとかすりゃいいのによー。一ヶ月くらい放っといたら多分餓死するぜ、ありゃ」
 フィーエンが笑う。
「あと四日の辛抱だね」
 レンシル・アーウィンクロゥ。現在最年少の導師級魔術士として、魔術産業に携わる者たちの間では著名な女性だ。数年前から修行のために引き蘢り、一部の身内しか会うことはできない。それはつまり、四日後の魔法大会へ向けての極端な意気込みの現れだった。
 楽しみでしょうがない。フィーエンも、エイレオも、闘技場で行われる激しい魔法の応酬に魅せられた少年の一人だった。自然と、表情も弾みがちになる。
「あぁ……だが、どうかな。万一また負けでもしたら、今度は修行の旅に出る! とか言い出しそうで俺は怖いね」
 エイレオは肩をすくめ、学友の色素の薄い面を見下ろす。彼の紙袋の中の食材は、いつになく量が多い。表情を改める。
「それより、今日はその、ウィバロ爺さん帰ってきてるのか」
「あ、うん……週に一回は家に居るよう約束したから」
 少しだけ眼を伏せるフィーエン。
「そうか。イシェラ婆さんが死んじまってから大変だな。一人で爺さんの面倒見てんだろ?」
「うん、まぁ、それはそっちも、ね」
 エイレオは思わず苦笑する。
「妙な身内を持つと苦労するねぇ……あー、今日姉貴ンとこに寄るから、ここまでな」
「あ、うん、じゃあね」
「おう」
 フィーエンは、石畳の四ツ辻から歩み去っていく友人に軽く手を振った後、自らの帰路を進み始めた。

【続く】

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