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戦闘シーン描くために小説書いてるようなところがあるボンクラどものためのバトル描写論考 ~それはあなたの感想ですよね編~

 承前

 えー、前回は、まぁそこそこ普遍的な内容なんじゃねえかなというノリであったわけだが、今回はより突っ込んだ、というか、ありていに言うとあまり普遍性はないかもしれない尖った内容に踏み込んでいこうと思う。

 最初に白状しておくと、俺は「バトルシーンにスピード感とか特に必要とは思わない」派の人間である。スピード感のある戦闘シーンを楽しむことはできるが、ないからといってそれだけでダメ認定をする気にはならないのである。

 「記述にスピード感があるかどうか」と「戦闘シーンであるかどうか」を完全に切り離して考える必要があると思う。

 「簡潔な記述が向くシーン」と「詳細な描写が必要なシーン」があるだけで、この二つの区別をするために「アクションシーンであるかどうか」を判断基準にするのはいったんやめるべきだ。ぜんぜん関係ないから。

 そのあたりを留意しつつ、いろいろと論じていこう。

・バトルだからと言ってストーリーの進行を止めてはならない

 この陥穽に陥っている作品はプロ/アマ問わず非常に多く――いや、ちょっと待て、それはひょっとして俺の感性がおかしいだけではないのか。みんなバトルシーンに入るとストーリーの進行が止まるのは、そのほうが普遍的に魅力が増すためではないのか。その魅力を俺が感受できてないだけではないのか。そうゆう可能性は常に否定できないが、いや、しかし、そうはいっても、やはりストーリーの進行を止めてしまうようなバトルは、バトルというイベントの持ちうるエモ・ポテンシャルを完全に発揮できていないように感じられるのだ。

 そもそもストーリーとは何か。

 それは「因果関係に基づく変化」である。

 ストーリー前と後では何かが変化していなければならず、その変化を克明に描くことが、物語るという行為の本質である。

 多くは主人公の内面変化が描かれる。だが、中には主人公が一切変化せず、その周囲の変化こそがメインである場合もある。

 いずれにせよストーリーとは変化を描くものであり、その変化に寄与していない要素は端的に言ってノイズであり、贅肉である。原則的には削るべきだ。

 変化を描くにあたって、その戦闘シーンは本当に必要なものなのかということは常に厳しめに考えていく必要がある。

 どのような基準で要不要を判断すべきだろうか。

 例えば、ストーリーの始まりから終わりまでにA、B、C、D、Eの五つのイベントがあったとしよう。この五つを描くにあたって、

Aがあった。Bがあった。Cがあった。Dがあった。Eがあった。

 という風に描くのはまずい。そうではなく、

Aがあった。ゆえに、Bがあった。ゆえに、Cがあった。ゆえに、Dがあった。ゆえに、Eがあった。

 という風に、明確に因果関係で結ばれていなくてはならない。「ゆえに」が重要なのだ。物語内のすべての要素はこの因果関係の鎖に必要欠くべからざるパーツでなくてはならない。もしも省略可能な鉄環があるなら、それは冗長な部分であり、省略すべきだ。戦闘シーンであるからと言ってこの省略を免れる理由にはならない。

 ただ、これは原則論であり、世の中には「別になくてもストーリーの進行にまったく支障がないけど明らかに作品の魅力アップに貢献している戦闘シーン」というものは存在している。しているが、例外的だ。それらの戦闘シーンも、ストーリー上必須のものであった方がさらに魅力アップに貢献できたはずである。

 バトルの前と後では明らかに何かが変化しておらねばならず、バトルとはその変化を描くための手段に過ぎない。そういう意識は常に持っておくほうが良い。

 ではどのようにして必要性を付与すべきなのか?

 手っ取り早いところでは「止揚」の構造を盛り込むことである。

 止揚とは何か。ウィキとかで調べると、あのーなんか難しい哲学用語で、なんか、こう、アウフ? フェーベン? がどうのこうのゆってると思われるが、要するに「Aという主張とBという主張がぶつかった結果、AでもBでもないCという結論になった」という感じのなんかである。

 Aが一方的に勝っても、Bが一方的に勝ってもダメなのだ。あえて言うが、それでは戦いを描く意味がない。もちろん、たいていの場合勝敗はつくのだが、勝者の側が何の変化もしないのではなく、Bという主張をする敵がいたことを踏まえ、自らの考え方を新たな段階に進めることで、その戦いはストーリー上の転換点としての意味を帯びることができるようになる

 なお、これは勝った側に限らず、負けた側も命があるなら変化したほうがいい。

 逆説的に、そのような描くに値する主張を持たない敵との戦いは、話に変化をもたらさないので省略ないし簡略化して良いとも言える。この唯一の例外は、ストーリーの一番最初の戦闘である。ここだけはモヒカンめいた主張を持たない雑魚相手に一方的に勝ってしまっても良い。ここで主に求められるのは変化ではなく「前提の提示」であり、「冒頭のフック」であり「物語のジャンルを読者に明示すること」であり「主人公が作品世界においてどのような位置にいるのか描くこと」であるからだ。

・HPの削り合いになってはならない

 さて、戦闘シーン、のみならず物語は根本的にミニマルであったほうがスマートで美しいということをこれまで述べてきたが、もうひとつ傍証を加えよう。

 リアリティレベルの高い作品での、例えば銃撃戦などであればこういう恐れはあまりないのであるが、ファンタジーなどである程度長いバトルを描く場合、わりと当事者の生命力が高く、バトルの本質がHPの削り合いになってしまうことがある。

 これは罠である。なぜならHPの削り合いは、次の展開への予測を容易にし、緊張感を危険なほど削ぐ可能性が大であるからだ。

 バトルは、安定した状態の推移であってはならない。ほんのちょっとしたきっかけで容易く崩れる危うい均衡の上になりたつ、奇跡的なものでなくてはならないのだ。

 具体的にどうすればいいのか。

 「相手を一撃で殺せる者同士の戦い」にするのだ。そして「いかにして即死攻撃を当てるか/避けるか」という点を重点的に描くのである。次の瞬間にはどっちか死んでいる予感で作品を満たすのである。

 まぁ要するにシグルイなんですが。

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 ただ、当然ながらこの理屈に沿わないバトルも世の中には存在する。『ニンジャスレイヤー』のカラテラリーなどはその最たる例であろう。実際のところ忍殺のバトルがなぜ面白いのか、なぜイヤグワで脳内に映像が浮かんでくるのか、俺はまったく説明できない。いろんな意味で特異点な作品なのである。

 とはいえ、ひとつの圧倒的成功例を体現しながらも、俺にとって忍殺は最高の理想的バトル描写ではない。最大の敬意は示すが、同じ道を歩む気はない。そもそも他の人間に真似ができるとも思えないしな。

 戦況が安定するのは基本的には求心力をそぐ要因であると思う。戦う者たちが常に読者の予想を上回る奇手を交わし合った結果成立する、極めて不安定な拮抗。まずそこを目指すべきであろう。

・攻撃そのものの記述よりも力を入れるべきものが存在する

 そのへんの酔っ払ったおっさん同士の殴り合いよりも、圧倒的に強力な存在同士の戦いの方が面白いことは論を待たない。

 いや俺は酔っ払ったおっさん同士の殴り合いのほうが好きだけどな、とか反射的に考えたそこのお前は逆張りをやりすぎて本質を見失っている。

 バトルの本道は強者同士の鬩ぎ合いである。であるならば、これを描くためには攻撃の記述そのものよりも遥かに力を入れて描写しなくてはならない事物が存在する。

 それは、「攻撃の結果発生する二次的な物理現象」である。これの重要性に比べたら攻撃そのものの記述なんて比較的どうでもいいまである。バトルの迫力を担保するのは二次的な物理現象の方である。

 ここで超人的な身体能力を持つ戦士Aくんに登場して頂こう。

 Aくんが敵に向けて正拳突きを放ったとする。

正拳突きを放った。

 これでは欠片も迫力が出ていない。そのへんの酔っ払ったおっさんだってやれそうな攻撃である。ではもっと表現を盛ってみよう。

渾身の力を込めて正拳突きを放った。

 いや……渾身の力を込めるのなんて別に普通の人間でもできるし、これでは攻撃がどの程度強力で致命的なのかぜんぜん伝わってこない。

踏み込む。重心の移動と同時に上体を捻り、全身の関節駆動を連動させて渾身の正拳突きを放った。

 動作の解像度が上がったのは良いが、結局威力はよくわからない。

 こういうことをいくら突き詰めても、目を見張るような迫力は出てこない。では何をすればいいのか?

 攻撃の結果発生する二次的な物理現象を描くのである。

正拳突きを放った。風圧だけで足元の落ち葉が一斉に舞い上がった。
正拳突きを放った。踏み込みの足がアスファルトを踏み砕いた。
正拳突きを放った。伸び切った腕の延長線上にいた人々の髪や衣服が激しくはためいた。

 なんかそうゆうアレだよ。攻撃そのものの描写とか特に理由がない限り簡素でもいいのだ。むしろ二次的な物理現象の描写さえ巧みにできるなら、攻撃そのものの記述なんて省略してもいいくらいだ。

 小説の本義とは五感に訴えかける描写である。その点を念頭に置いて書いてみると、なんか違う境地に至る、かもしれない。

【続く】

 終わらんかった……

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