絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #18
――よく聞きなさい。きっと私は、最後までお前と一緒にいることはできない。いずれはここを出て、蟲毒のごとき外界で生きなければならない日が来る。だけどそのとき、お前は決して他者を慈しむ心をなくしてはいけない。
大きなしわくちゃの手が少女の頭をくしゃりと撫でた。
少女はこの手が大好きだった。
――お前は他の子供とは違う。心から微笑みなさい。たとえ罵声しか返ってこなくとも。寂しく悲しむ子供を見たら、駆け寄って抱きしめなさい。たとえ噛みつかれ、殴られようと。路傍で死のうとしている者がいたら、そばに寄り添ってその手を握りなさい。たとえ死病をうつされようと。
そうして、煙草の匂いのする胸元に抱き寄せられた。
――私がお前にしたように、お前は誰かに愛を与えなさい。愛を説きなさい。たとえそれが、お前の幸福に繋がらなくとも。たとえそのせいで、命を落とそうと。たとえなにひとつ、報われることなかろうと。
そのときおじいさまは、身を震わせていた。
なんだか自分より小さな子供のように思えて、少女はなかないで、と小さく言った。
――すまない。すまないシアラ。ごめんよ。ほんとうにごめん。だけどもう、私にはこれしか……こんな方法しか……
それ以降は、嗚咽に紛れて聴き取れなくなってしまった。
だけど、その中で第一大罪という言葉だけは、なぜか明瞭に聞き取ることができた。それが何なのか――物なのか場所なのか概念なのか、何もわからないままだったけれど、おじいさまがそれに対してやり切れぬほどの怒りと悲しみを抱いていることだけは、伝わってきた。
だから、少女は。
シアラ・ニックアントム・ヴァルデスは。
自分の命を、それとの戦いで費やすことになるだろうという、奇妙な予感だけがあった。
ゆえに――
罪業駆動式直結車両の中で、自分の首にごつごつした逞しい手が絡みつき、万力のように締め上げてきたとき、シアラの脳裏にあったのは、恐怖でも混乱でもなかった。
――もう、会えないんだな。
あったのは、透明な哀しみだけだった。
おじいさまとは、もう会うこともないのだ。言葉も、笑顔も、抱きしめるという行いさえ、もう交わすことはできないのだと。
何も言われずともこの瞬間に悟っていたから。
シアラは世界を知らない。人々の悪意を知らない。自らの生い立ちも知らない。無菌室で育てられたに等しい。だがそれは、愚かであることを意味しない。最高峰のデザイナーベビーの末裔たるシアラは、人類の頂点に立つ真善美のすべてを遺伝子レベルで宿命づけられていたから。
目が覚めた時、ひとりでに頬を伝う涙を、だからシアラは静かに慈しんだ。
もう、悼みの涙を流すことぐらいしか、おじいさまにしてあげられることはないのだと、わかっていたから。
「さようなら。さようなら、おじいさま」
ただ、それだけを繰り返した。自らの魂に刻み込むように。それだけが、あの傷つき疲れ果てた老人の遺志を受け継ぐ唯一の方法だと信じて。
ふいに、ドアが開いて、誰かが入ってきた。
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