絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #20

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 自分のものではない記憶。感情。痛み。
 アーカロトは、刃のように鮮烈なその置き土産を、静かに胸で味わった。
 思わず、目を閉ざす。悼むように。耐えるように。
 なんと過酷な、哀切な、そして鮮烈な生涯だったことか。
 暗い目の男の全量子情報は、アンタゴニアスの演算処理能力を確実に圧迫していたが、アーカロトはこれを削除するつもりは毛頭なかった。
 託されたのだと。彼の生と死が無意味などではなかったのだと、証明する義務がこの自分にはあるのだと。
 何も持たなかった自分だけど。
 絶罪規定以外に行動原理を持たなかった自分だけど。
 いま初めて生きる意味を彼に貰ったのだと。
 ごく素朴に、そう信じることができたから。
 両膝に置いた手を、握りしめる。身を震わせる。
 ふと、目元にしっとりとした指先の感触があった。
 反射的に身を引き、目を開けると、シアラ・ニックアントム・ヴァルデスの泣き腫らした目がそこにあった。
「ひっく……どうし、て……ひっく……ないて、おりますの……?」
 アーカロトは、かすかな驚きに打たれる。
 生まれて十年にも満たぬであろう子供が、自分の胸の痛みを一旦おいて他者を気遣っている。本来ならば、そんなことはありえまい。守られ、世話を焼かれて当然の年代である。
「いや……その……」
 困惑する。自分の目尻から、いつのまにか雫がこぼれ出ていたことも含めて。
 どこか、歪さを感じる。自分より他人を優先させるなど、大人がやるなら美徳としても良いが、このような幼児がやったとなれば、それはあってはならないことだ。
 どう考えても熱心な教育の賜物なのだが、しかしこの罪業依存社会で「自分より他人を優先する」人格などが生き残れるはずがない。彼女を教育した人物に、その程度のことが予想できないとも思えず、何かねじくれた悪意すら感じてしまった。
 だが。
 こちらを見つめてくる瞳の光の深さと鮮やかさに、なぜかアーカロトは居住まいを正した。思考より前の段階で、彼女に失礼があってはならないと、直観的に悟っていた。
「……哀しいことを、思い出していた。それだけだよ」
 やっとのことで答え、アーカロトは自分の目を拭った。
「何もいらないはずだったのに、僕は弱くなってしまった」
 そして、シアラを見る。泣き腫らしたまなこは、しかし奇妙な威厳と包容力を湛えてこっちを見ていた。アーカロトはその七千年の生涯で、一度も覚えたことのない感覚を味わった。どこか、守られて在るような、安堵と温もりを。
「君は、どうして泣いていたの?」
 彼女の双眸から、再び涙が溢れだした。

【続く】

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