#169_【近代化遺産】城山砲台
対馬は古くから国境の島でした。
時代が下るにしたがって、技術が進歩し防御施設や兵器は変わっていきましたが、重要な場所であることには変わりありませんでした。
対馬の近代化遺産の史跡の中には、そのこと表している場所があります。
今回は、城山砲台をご紹介したいと思います。
何を目的としていたのか
数年前、国の特別史跡である金田城が「最強の城」認定され話題になりましたが、その金田城がそびえる城山の山頂付近にあります。
1901(明治34)年に建造された砲台で、日露戦争を見据え、城山は浅茅湾の防御において最も必要であるということから建造されました。
城山は浅茅湾を東西に横断する動線から少し引っ込んだところにありますが、山頂に登ると、対馬海峡西水道を通航する船の動きがよく見えます。
どのような堡塁だったのか
28センチ榴弾砲の砲座が2門×2箇所、 棲息掩蔽部、右翼観測所などがあります。
日露戦争が終わったらどうなった?
1917(大正6)年、芋崎砲台とともに除籍されました。
そのタイミングで、浅茅湾防御のお役目が終わったということなのでしょう。
現在はどんな場所
近年の城山はお城好きの方が多く訪れる観光スポットとなっていますが、城山砲台は、普通の方でしたら山頂に登る前に必ず通りますので、あわせてご覧になれます。
金田城の登山口から山頂まで通じている道は、もともと陸軍の軍道になります。物資の輸送などで馬を利用していた関係で、山の中をつづら折りに道を引いているので、登山初心者の方でも安心して登ることができます。
一方で、道を引くために、山の中を一周している石塁を避けられず、3箇所破壊されました。
そのことの是非について、軍跡マニアの方でも意見が割れるくらい様々なご意見を伺いますが、文化財の保全について考えるようになってから、城なら護られるべきで、砲台だと認められないというのはおかしくないか?と感じることはあります。
そのような扱いの差を感じるところは、例えば日本遺産「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」を見ても、構成資産に金田城や清水山城は含まれていて、対馬要塞の史跡が含まれていない点などにも表れている気がします(日本遺産の構成資産では、文化財指定の有無は問いません)。
用途は大して変わらない気がしますが、近代のほうが良くも悪くも生々しいからでしょうか。このあたりは、太平洋戦争前に建造された砲台の説明で触れたいと思います。
オススメポイント
先ほどグチっぽいことを書きましたが、城山砲台の一番の注目ポイントは「古代と近代の国防史跡が同じ場所にある」これに尽きると思います。
古代、近代、現在と3つの時代をタイムスリップできる史跡なんて、全国探しても、そうそうないと思います。
そして、先ほど石塁と軍道が交差する場所を示しましたが、ほかにもふたつの時代が混在した跡がみられる場所があります。
金田城の出入りに際しては、防人などが島の外からやって来ますので、城戸(城の入口)は海に面して造られました。
その後時を経て幕末、欧米列強がアジアへと進出してきたため、日本の最前線を防御せんば、という話になってきます。
武家諸法度で築城の禁止が命じられていた中、五島では福江(石田)城が築城されましたが、対馬では浅茅湾は重要な場所と判断されたのでしょう(実際、ロシアが芋崎を半年間占拠しています)、城戸の石垣が積み増しされました。その跡は、現在でもきれいに残っています。
まさに、時空を超えた史跡であるところを感じていただきたいですo(^-^)。
締め
城山砲台は、割と多くの方が訪れる場所ですが、山中には他にも陸軍の施設がありました。
このあたりは、マニア向けの話になりそうですので、次回に持ち越して紹介したいと思います。
交通アクセスなど
城山砲台は、雞知から県道24号線を西に走っていき、白嶽に入る道を通りすぎた先に、看板や石柱が立っていますので、そこを右折し約2km道なりに走って行くと、登山口に着きます。
車は、登山口の広場、または手前に駐めます。
駐車スペースの先に続いているゆるい下り坂は、トイレカーが出入りすることがありますので絶対に塞がないようお願いします。
車で、厳原から30分、雞知(対馬空港)から20分、比田勝港から105分です。
登山口周辺は携帯電話の電波が届かないのでご注意ください。
※標高が高くなると、つながるようになります。
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