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文章と自分のリハビリ ③(2022年 8月後半の中盤)

 只今、こころの充電中につき。
 一日一題、お題にそってものを書いて投稿するサイトに出したものより。

 そこは、私にとっては、note から逃避した隠れ家、です。だから、どこのサイトかは探しに来ないでください。
 だけどもしどこかで見かけたら。声をかけずにそっとしといてください。いにしえの仮面舞踏会では、仮面の下の顔は知らぬものとして、互いが手を取り、ダンスしていたように。

・◇・◇・◇・

 

① 鳥か?、鶏か?

ふと、君に問うてみた。「もし、鳥のように空が飛べたら、どうしたい?」
君は答えた。「そうだね。鳥になったら、富士山の山頂とか、一気にいけちゃうかなぁ」
 
「いいね。それ。登山者の行列を一気に追い越してさ」
「うん。そして、山頂をかすめながらぐるっと一周したら、一気にここへ帰ってくる」
「あはは、富士山頂からの直行直帰、ってか?」
「だって、コイツらの世話のこととか考えたら、あんまり長くは家を空けられないじゃん」
 
そうこたえながら、君は鶏のエサを補充した。
「今回もうまい具合に肥えてきたねぇ」
「ああ……コイツらも、もうすぐ出荷だよ」
君は、エサをもとめてちかよってきた鶏の首を、なでていた。いかにもいとおしい、というふうに。
 
狭いケージの中に閉じ込めるのではなく、と、君は理想の養鶏を追い求めている。だけど、鶏たちは、やっぱり最後には人間にたべられちゃうんだ。
「鶏が幸せな養鶏って……ありうるのかなぁ」
君にそんなことを問うなんて、やっぱり意地が悪過ぎるよね。とてもではない。声には出せなかった。

 《鳥のように》なんてお題を設定されたら、ぜったい「飛びたい」と「自由」が頻出するよね、と予想したので、その逆ばりをば。
 鳥のように自由に飛べたら……という会話を、飛べない家禽であるニワトリにエサをあたえながら話している、っていうシチュエーションがシュールで、ラーメンズのコントみたいな読み物になりました。
 登場人物の個性とか全然考ずにさらさらかいたけど、あえていうなら、「君」役は小林賢太郎さんで、「語り手」役は片桐仁さんかなぁ。

 あと、出だしの

 ふと、君に問うてみた。「もし、鳥のように……」
 君は答えた。「そうだね。……」

 のあたりは、「雨月物語」の「菊花の約」で、「赤穴いふ……、左門いふ……、」と、会話を畳み掛けていく部分のようなキレのよさが出せてて、気にいっているところです。

 問題意識としては、「われわれ現代人は鶏のように、今の社会体制に馴致されて生きている」っていえるよね、でもそれってホントに幸せなん?、っていうのがもともとからありました。
 それと、最近さかんにいわれはじめた「アニマルウェルフェア」ですね。ニワトリとして充実してない鶏生を送ったニワトリをあてがわれてる私らって、一体何?、っていうのは、ときどき思います。

 ほんとは「鳥がさえずるように文章を書くのが、ひとつの理想形」という思いがあったので、そっちを書きたかったのですが、映像として、まだつかみきれてなかったので、あきらめました。

 ① 書きたいエネルギーは、自分の内部から自然に発露したものである。
 ② 書かれた文章が、ナチュラルな抑揚を備えている。

 とりあえず、「鳥がさえずるように書く」というのは、この2点を備えている、ということなのかな? と思ってます。
 この①と②の間に、「ピアノを弾くように文章を書く」という過程があるような気がしてるんですけど……これは「鳥のさえずり」とくらべたら、人工的、プログラミング的な作用であるイメージですね。「鳥のさえずり」とでもいうべき不可解なものを、人語に置き換えていく、そして、最終的にはナチュラルなものに仕上げる作用、ということにでもなりましょうか。
 うまく説明できない、ってことは、思考がまだ熟してない、ってことなんですけどね……

 

② 裏が表で、表が裏で、ややこしや……

どんくさい子どもだったから、「裏返しになった長そでの服を表にかえす」っていうのがよくわからなかった。お母さんが、手取り足取り、教えながら直してくれるんだけど、手品にしかみえなくて、いつも、???、ってなってた。
さすがに、いまだにこまってる、なんてことはないよ。布団のカバーも裏返しのまま器用にかけたりできるから、むしろ、得意になってるのかも。

だけど、それでも。どこかにどんくささがのこってるんだろうね。裏返しの布地を表に返すときって、世界の上下がぐるっといれかわるような、口から内臓がはみでて表返しになるような、奇妙な気分にとらわれるんだ。

ここはどこ? わたしはだれ? ここはホントにさっきまでと同じ世界?

って。洗いたてのカバーを布団にかけ直すたびに、裏返しの世界から行って帰ってくるような、ヘンな気持ちになる。

さっき、ぐるっとなったのは。カバーでなくて私だったのでは?

って。わからなくなるときがある。

もしかしたら、だけど。メビウスの輪の上をぐるぐるぐるぐる歩き続けてるひとって、こんな気持ちがしてるのかもしれないね。

 いくつか創作がつづいたので、自分語りにもどしてみました。若干ふくらませてはいますが、今回も、マジで日常のひとコマです。
 布団にカバーをかけるときは、

 ① 布団の上にカバーを裏返しのままのせる。
 ② カバーの四隅その他についてるヒモをくくる。
 ③ 角を握って固定しながら、ぐわぱぁッ!、とカバーをひっくり返しつつかぶせる。

 みたいな手順です。
 この「ぐわぱぁッ!」のときに、裏が表で、表が裏で……アタマがくらくらしてきます。たいがい、ややこしや〜ぁ♪、って歌ってます。

 ワンチャン、このへんの事象を数学的にスッキリ説明できたら、この混乱がやわらぐのではないか、と予想しています。
 だけど、じっさいのとこ、どう説明すりゃあいいんでしょうか? 表面が正の数の世界で、裏面が負の数の世界で……ってことにでもなるんでしょうかね? その場合、ぐわぱぁッ!はどういう数学的な操作をしたことになるんでしょう?……それはつまり、布団カバーの表面に乗ってるすべての数値に「-1」を掛ける、ってこと?!
 あと、最初は開いた世界として布団の上にのってた裏面が、ぐわぱぁッ!で全部ひっくり返されたあげくに、チャックで閉じられて、内部で自己完結する閉じた世界になっちゃう……って。なんやねんその、亜空間が誕生した瞬間、みたいなの。たのむから、だれかせつめいしておくれっ!
 そうそう。ぐわぱぁッ!の途中も、表面と裏面が入り乱れて混在したえげつない世界線になってるのですが、数学的に説明できるんだろうか?

 ついでながら、メビウスの輪も子どものときから苦手で、初めてメビウスの輪というものを知ったときから、「輪の表面をとことこ歩いているちいさなおじさん」はどんな気分なんだろう?って……だって、歩いてるうちに、知らん間に裏面に回ってるわけですから。
 ずっと表を歩いていたはずなのに、いつの間にか裏にいた自分を発見したとき、どんなパニックにおそわれるか、想像しただけでこわくなりませんか?
 まあまあ……もとからそーゆー世界にいたのだから、全然平気だろ?、とかいわないで……

 

③ 「違う」と思いこんでるのは人間だけ、っていう件

なにかのときに、朝日の画像検索をした。これがいいな、と選んだ画像のキャプションを見たら、夕日だった。それなら?、と疑問がわき、夕日の画像検索をした。やっぱり、朝日がまじっていた。朝日も夕日も画像としてはまったく同じで、どちらもキャプションを見るまで区別がつかなかった。
私たちは毎日のように朝日と夕日の区別をしながら生きている。でも、その区別は、朝日なら朝日の、夕日なら夕日の、それぞれ固有の特徴を捉えて区別している、というわけでなかったようだ。ただ、時間帯と見える方向、それに依存して、朝日か夕日か区別しているにすぎなかったらしい。

それもそうだ。朝日も夕日も、地上から低い角度に太陽が位置している、という点ではまったく等しい現象なのだ。天球を南北に二分する子午線を対象の軸として向かい合わせになった、まったく双子の自然現象なのである。だから、だるま夕日があるなら、その向い合せのだるま朝日もある。それは、至極当然の自然の摂理だ。

にもかかわらず。人間は朝日と夕日を別個のものとして認識する。だんだんと明るく、暖かく変化していく朝日に希望を感じ、おもむろにうす暗く、冷涼に変化していく夕日に衰亡を見る。
折り紙をぴったりと真半分に折り重ねたように瓜二つの自然現象に、人間は、真逆の意味合いを付与する。写真に撮れば、たちどころに区別がつかなくなるというのに。それでも、真逆の意味を見出すのだ。

 お題は《向い合せ》。本来なら、ひとと向き合うのが苦手、とか、さいきん夫ときちんと向き合えてないなぁ……とかいう自己分析ネタをひっぱり出すべきなんだろうけど。ずっと書きたくてアタマの中で詰まってたことを最優先で。
 寺田寅彦っぽい科学読み物になればいいな、と思いながら書きました。が、これは、実は、ニールセンの「ヘリオス」序曲の解釈。自然科学系ではなく音楽の解釈、芸術系の読み物です。

 さて。
 これについては、書いてるうちに質量ともに独立させたほうがいい感じなってきたので、途中から別個の記事として仕上げました。
 こーゆー展開もあればいいな、とはおもってたので、これはこれで目論見どおり。

 

④ たぶんとても大切な原体験

日記、といわれるものは苦手だった。宿題で日記がでたら、「今日はとても楽しかったです」とかいて、「出来事や気持ちを具体的に書きましょう」と、いつも注意されるようなタイプの子どもだった。
とうぜん、大人になってからも、わざわざ日記なんて書く気もおきなかった。
だから、私の日記帳、といえるものは、人生の中で、小学校のとき、日記指導に熱心だった先生が担任だったときの、2年分、しかない。

いまでも日記は何故か書けない。メンタルヘルスケアのためにもつけたほうがいいのだけど、がんとして、手も心も動かない。きっとなにかから目を逸らしたい気持ちが、じゃまをしているのだとおもう。
とはいえ、このサイトとは相性がいいようで、こんな私でも、毎日なにかを書き記している。日記ではないけど、こんなふうに心模様を記したりして、日記のような役割をはたしてくれている。あえていうなら、ここが、私の日記帳、っていうことになるんだろうな。

いま思い出しても、小学校のときの、週に一回必ず提出の日記の宿題はつらかった。そのときの自分には、大人になった自分が、まさかこんなふうに毎日なにかを書き記せるようになってるなんて、想像もできなかった。きっと先生にも、予想外のことのはずだ。
すでに年配の先生だったから、もうとっくに亡くなっていることだろうと思う。先生はもういない。だけど、その指導の成果は、いまこうして、フリック入力に忙しい私の指先に生きている。

 わざわざココに転載するほどの出来ではないけど、なぜだかココにつれてこないといけないようなきがして、まるごとつれてきました。
 たぶん、自分にとっては非常に大切な原体験で、ココに来てわざわざ読んでくださっているみなさんに、自分とはこんな人間なのだ、ということを理解してもらうために必要な内容だから、と感じたからなんじゃないか、とおもっています。

 日記は書けないし書きたくないわりには、このひと、note とかでは脳の中で走ってる電気信号の模様を文字化して垂れ流ししてるんですよねぇ……それと日記と、どこがどうちがうねん!?、って自分でも思います。
 たぶん、このへんの不整合の解明も、メンタルヘルスケア的には必要なんでしょうね。「なぜか日記を書くのがイヤです」って、こんどこそメンタルの主治医に相談してみようかな?……というのも、今年にはいってから、日記をつけなきゃ、とおもってそれっぽいアプリをいれてみましたが……ぜ〜んぶ長続きしてないんですよね……しょぼん。

 

・◇・◇・◇・

 

 いい感じに5000文字過ぎたので。
 今回はここまで。

 こんな感じで、われながら気に入った文章と、自己分析的なものを、つれづれに書いています。

 

 

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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。