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作物がスーパーの陳列棚につく前に削除されている情報を産直でお届けします

 今年も新高梨のハネの販売が解禁されました。さっそく、夫にバイクを飛ばしてもらって、梨農家が自分の農園の梨を直に売っている販売所がずらりと並んでいる梨街道へ、買いにいってもらいました。

 これから数週間は梨三昧だな、シロップとって、焼き肉のタレも作ってみようかな、皮もほしてみたいなぁ……なんてにやにやしてたら、夫から着信。

 「今年は雨で全然いかんかった……って」

 で、実も小さいし、茶色いぶつぶつもついちゅうけど、味は大丈夫やって、生産者のおばちゃんがいいよった、みたいな内容でした。

 

 しばらくして、夫が帰ってきました。
 なにが気になるって、梨の大きさが気になります。「ふつうの梨とおんなじ」といっていたけど、まさか、新高やもの、そうはいってもそうはいってもで、それなりのおおきさはあるよね!

 ……とおもったら。

 ホンマに豊水とか二十世紀とおんなじ大きさやった……_| ̄|○ il||li

 これまで、「ちょっとちいさいき、オマケ」とかしてもらったことあるけど、それでもちゃんと新高サイズだった例年。それをおもえば、この小ささは……ニュースや新聞で見る、不作、の2文字の深刻さが、急にリアルなものとして、実感されました。

 それと、茶色いぶつぶつが気になります。
 袋からだして見てみると、たしかに、果皮全体に、かさぶたのようなものがぶつぶつはりついています。こういう傷み方も、いままで見たことないから衝撃です。打ち身とか、かすり傷はよくあったけど……。
 こんなガザガザのものでも引っ込めずに出さないといけないくらい、なにも無いのか、って感じです。
 逆に、いつものハネが、どれだけ贅沢で充実したものだったのか!

 ヘッダーにお借りした梨の写真、果実全体がおさまってませんが、これ、オシリがアタマのほうにぐにーーーっと寄った、変形がひどい梨(でも、そこが逆にカワ(・∀・)イイ!!)でした。
 だけど、そんな歪な梨の写真ですら上等に見えてしまうくらい、今年のハネは、アバタがひどいのです。
 たとえるなら、三国志の龐統。顔にはアバタがあったという説がありますが、このハネみたいな相貌だったら、やっぱり顔についてのコンプレックスや陰口で苦労しただろうな……としのばれるほどの。

 

 これではお味も不安ですよね……さっそく晩御飯にひとつむいてみました。
 まず、皮のかさぶたですが、これ乾燥後にまた太ったのが原因なのか、ひとつひとつのかさぶたに、ピキピキとひびがはいっています。そして、かさぶたの直下の実も、まるで梨の芯のように固くなっています。いうなれば、ぱっと見かさぶただけど、下はウオノメ、みたいな感じ。さすがに取り除けました。
 さらに、果肉自体も硬く、包丁がゴリゴリいってる……もう、泣きそう。なんて年だ!

 だけどたしかに、甘さだけは上等。歯ざわりもガリガリだったけど、いつもの新高の甘さでした。
 でも、だからこそ、不作、というのがうらめしい。
 はたして、贈答用やスーパーに陳列できるような良品が、いくつ確保できたのだろう……なんて想像してると、こっちが暗澹としてきます。
 とてもじゃない、シロップだとか、焼き肉のタレだとかはしゃげない、とにかく、お手ごろ価格で食べられるだけありがたい。それが、うちの今年の新高梨事情のようです。

 

・◇・◇・◇・

 

 これだけ凄まじい作柄であっても、スーパーにいけばそれなりに新高サイズのツルツルきれいな新高梨が並んでいる、というのは、不思議な気がします。
 不思議というより、なんか、ヤバイ気がします。不作、という事実の凄まじさが、店頭ではまったく、微塵の気配も感じられないのですから。
 惑わされ度が、「マユツバ」とか「狐に抓まれた」とでもいうレベルです。この文明の世に、ホンマにあやかしが出現してるような気分です。

 こんなんばっかりにかこまれて野菜や果物をゲットしてたら(私は、「都会人はスーパーに食料を狩猟・採取しにいっている、自覚なきオシャレ縄文人」だと定義しています)、そりゃ、食べ物の有り難さへの感覚おかしくなるわ、って思います。

 

 まえまえから、

 スーパーの陳列棚は、
 偏頗な情報を発信してるキケンなメディア

 というのは感じてました。

 きっかけは、キュウリだったのですが。

 初夏がくると、スーパーの産直コーナーには、サインペンくらいの太さの稚いキュウリがぎゅうぎゅうに袋詰されて並びます。これ、稚いだけあって、独特の歯ざわりがあって、大好き。だけど、今日はキュウリの気分じゃないから、またこんど……なんてヌルいことしてたら、翌週にはお兄さん、お姉さんキュウリになってる。さらに翌週には、翌週には……と繰り下げてるうちに、どんどんふつうのキュウリになってくる。
 稚いキュウリの美味しさは、そのときすかさず手を伸ばして買っておかないと食べられない美味しさなのです。

 だけど、そんなシーズンでも、むこうの陳列棚に並んでいるのは、千篇一律の真っ直ぐな優等生キュウリです。

 真夏になると、こんどは、武器かよwww、ってくらい、長いし太いし、成長しきったキュウリがでてくる。それだけでなく、曲がりすぎて一周しそうなやつとか、とにかく産直コーナーはキュウリがカオス。あ、あと、ナスも同じくカオスです。
 そんなわけだから、産直コーナーでキュウリを買ってると、子どもから育ちすぎまで、キュウリの成長を見届けながら、こちらも時期ごとに工夫して食べてやらなきゃ、って感じがしてくる。
 ハネって、スーパーとしては商品にはならないかもしれないけど、こんなふうに、「物」としてはすごいんです。どうやってもいいからちゃんと食べてくれ、とこちらに工夫することをグイグイとせまってきますから。

 だけど、そんなシーズンでも、むこうの陳列棚に並んでいるのは、やっぱり千篇一律の真っ直ぐな優等生キュウリ……。

 

 産直コーナーのキュウリと見比べるうちに気がついたのですが、スーパーに売ってるキュウリって、キュウリの人生のうちのほんの一瞬で、しかもごく一部の真っ直ぐなやつだけなんです。
 だけど、そればかり見てたら、この20センチほどの真っ直ぐいやつがキュウリの全てだと思ってしまう。

 スーパーのキュウリの陳列棚は、まるで、すべての日本人に、

 このように、規格にあった標準であることが、大事なのです

 と洗脳しているメディアであるかのように思ってしまいます。

 それだけでなく、今年の梨にいたっては、「今年の不作はどれだけ凄まじいか」という情報をキレイサッパリ拭い落として販売されているわけで。

 大丈夫か、スーパー。それでいいのか、スーパー。

 

・◇・◇・◇・

 

 うちは夫が好きで、TOKIOの「ザ!鉄腕!DASH!!」を見はじめて、結局ずっと、日曜日の夜の定番になってます。
 20代のピチピチのアイドル時代にはじめた番組が、五十路のオッサンになろうかという年まで続いている、って、すごいですよね。この数年で、TOKIO自体はボロボロになってしまったけど、それで番組の魅力がガタ落ちしたわけでもなく、それどころか、岸くんとか横山くんとか、別のジャニーズの誰かが引き継いでくれないかな、なんて思ってます。
 名物企画の0円食堂なんか、行く先々で、この番組が愛されているのがほんとによく見えますし。

 この番組、好きだしなくなってほしくない、という気がするのは、つまり、

 作物がスーパーの陳列棚に届いた頃にはなくなっている情報をお茶の間に届けてくれる

 からではないかな、と思ってます。

 

 今回のハネの梨を通じてなにを感じたかって、「こんなんなら二度と買わない」ではなく、「これを買うだけでも助けになるなら、買います」という、梨農家への連帯でした。
 スーパーの陳列棚には、購買者が農家と連帯するために大事な情報が抜けている、ということを、この件から痛感しました。

 だってね、栄養を満たすためなら、べつに食べ物の形をとってる必要ないですよ。錠剤でええんですよ。
 それでも、やっぱり食べ物の形をしてるものを食べたいのは、自然をまるごと食べてる、とか、だれかの手間ひまをいただいている、という感覚が……食を通じて自然や他人とつながっている、ということが、人間には心の栄養になるからだと思うんですよね。
 共働きで忙しいなら、料理しなくていいですよ、といわれたって、おまえなにアホなことゆってんねん、って反論したくなるのは、自分から積極的に自然と他人とにつながっていくという、生きることの基本形を料理を通じて実践できるから、だと思うんですよね。

 やけど、スーパーの規格のそろった作物は、野菜や果物というより錠剤にちかくなってるんちゃうかな……
 自然と他人とのつながりが見えない食材は、料理する、という営みも、やせ細らせてしまうんちゃうかな……

 ここで書いたからって、なにがかわるわけではないけど。
 これまで「ザ!鉄腕!DASH!!」が果たしてきたような役割を、スーパーの陳列棚がメディアとして果たしだしたら、愉快じゃないですかね?



いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。