見出し画像

不在の原風景ー存在しないこと、無くすこと、見えないものー

Rock’n’roller sings only ‘bout love ‘n’ life

King Gnu slumberland

透明で見えないのか、もともと持っていなかったものなのか、無くしたことがはっきりわかるのか。その三者は「不在」をテーマにしながら「存在」というものを強く連想させる。恐らくはっきりとボーカルの藤原基央の原体験を成熟させたのはそういった、はっきりしない存在者の存在であって、それが克明に歌詞の各所に現れている。

あの透明な彗星は透明だからなくならない
そこに君がいなかった事 分かち合えない遠い日の事
目を閉じれば真っ暗 自分で作る色
見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ
背が伸びるにつれて伝えたいことも増えてった 宛名のない手紙も崩れるほど重なった
見つけた事無くした事 心が作った街で起こった事

BUMP OF CHIKEN ray/R.i.P./虹を待つ人/天体観測/コロニー

「透明だからなくならない」というのは見えないから分からない、論証のしようがない、そういったネガティブな心持ではなく、永遠不変の何かの徴表の存続を思わせる。「そこに君がいなかった事」は事実で「分かち合えない遠い日」は確かに実在する原風景の追体験不可能性である。「見えないもの」は見えないのだから、手に入れたくなって「見ようとして望遠鏡を覗き込」む。相手がどこにいるか分からない不在に対して思いを募らせて「伝えたいことが増えて」いくし、相手が存在しているか分からずどこに出せばよいのかわからず「宛名のない手紙も崩れるほど重な」る。

こうして見たように不在と不可視の間に、存在性というものがどこかに潜在していて、それを無くしたのか、気づかないままなのか、或いははっきりと存在の否定を受け入れているのか、に関しては諸相においてみることができる。

それが原風景とどのようなつながりがあり、それが何を意味するのかについて少し話そう。この原風景というものは物心つく以前、あるいはその前後に経験した、人生において核となる風景や体験である。私の勝手な推測の域を超えないが、藤原基央の原風景にはこうした不在や半存在のようなものに関する鋭い経験があったのではないかと思う。それが言葉を理解し、使いこなせるようになり、音楽というメディウムに引っ張られ、そうしたことが原因で言葉にした作品の多くにこうした不在性を見出させるものが多くなった、と考えられる。

彼の作品はただ声が美しいわけでも、音楽的な才能が抜群であるだけでもなく、誰にでもありそうな、しかし言葉にできない原風景の呪いをそこから引き出して誰にでも届くものにした、という点で評価を受けてもいいと、私は考える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?