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ジャカランダの樹の下で Brasilシリーズ3

ブラジルに移民した広瀬弓(ゆみ)さんが60数年ぶりに日本への一時帰国を果たしたのは、平成12年の夏のことであった。
昭和が終わろうとしていた頃、僕はブラジルで日本語教師をしていた。弓さんはそのときの生徒であった広瀬ニコラス修一の母上である。ブラジルの日系企業に採用され働いていたニコラスが日本の本社で1ヶ月間の研修を受けることになり、彼が来日する機会に合せて日本に一時帰国したのである。
弓さんは日本で生まれたが、11才の時に父母と共に移民としてブラジルに渡った。つまり日系準二世ということになる。
80歳を目前にした弓さんにとって、ブラジルに移民して以来、今回が初めての帰国であった。
僕はブラジルで弓さんにとてもお世話になっている。
「先生、日本食が恋しいでしょう」
と言って、度々自宅にお招きいだだきご馳走していただいたり、マラリアに罹って高熱にうなされていた時には、おさづけの取り次ぎのみならず、氷を用意してくださったり、おかゆを作ってくださるなど、親身になって看病していただいた。
僕にとって弓さんは忘れえぬ恩人でもあり、もう一人の母でもあったのだ。
一日も早くお会いしたかった。だが、当時僕は多忙を極めており、スケジュールは連日朝から晩までパンパンだった。やっとのことで時間に空きができたのは、日本での2週間の滞在を終えた弓さんがブラジルに帰るその日だった。
駆け付けた国際線ロビーで、僕はやっと弓さんと再会を果たすことになった。

カフェ

待ち合わせの場所であるロビーのカフェに入ると、弓さんはすでに来ていた。席から立ちあがった弓さんは僕が近づくと腰を正確に45度折る美しいお辞儀をし
「先生、ご無沙汰しております。すっかり立派におなりになられて見違えましたわ。会長さんになられたとお聞きしましたわよ。おめでとうございます。お会いできてとても嬉しゅうございます。でも会いに来てくださるのが少々遅くありませんこと?」
と悪戯っぽく笑い、僕を優しく抱きしめてくれた。
向かい合わせの席に座った弓さんのゆるやかなウエーブのかかった美しい銀髪と柔らかな微笑みは慈母のようにも見えて、座してなお背筋がピンと伸びた姿は凛とした貴婦人を思わせるような雰囲気をも漂わせていた。陽に焼けた肌や深く刻まれた皺も、彼女の内面から醸し出される気品を損うことはなかった。

空港ロビー特有のさざ波のような騒がしさの中で、互いの近況報告をし終えると弓さんはふいに僕を見据え、改まった口調で静かに語り始めた。

「ねえ先生、日本はどうしてしまったのでしょう?
ええ。日本は美しく豊かで、とても進んだ国になりました。私は今も自分が日本人であることを誇りに思っておりますのよ。私が幾度も幾度も夢見たふるさとなのですから。
けれども、私が心の中で思い描いていた日本とは少し様子が違っておりましたの。こんなに物が溢れているお金持ちの国になったというのに、みなさんが何だか満たされていないような気がしますの。
どこに行っても、みんな携帯電話でメールばかりしていて、隣にいる人や、まわりで起きていることに少しも興味がないように思えますのよ。
少年がバットで親を殴って殺してしまったという事件には本当に驚きました。どうして親殺しや子殺しなどが起きてしまうのでしょうね。テレビのニュースを観てとても悲しくなりましたのよ。お昼のワイドショーではいつも誰かが責められていましたわ。ちょっとした過ちを見逃さず、国民すべてが寄ってたかって攻撃しているような気がして怖くなりましたわ。日本人はこんなにも不寛容な国民だったのでしょうか。
ええ、何不自由なく暮らしているというのは、何にも増して素晴らしいことなのでしょうけど。どうしたのでしょうねぇ。私にはちっとも幸せそうに見えなくて。
私はブラジルで、貧しく不自由な開拓生活を経験しましたけれど、三度のご飯をいただけて、家族が仲良く暮らせていれば、それだけで満ち足りておりました。家族が家族を殺めるなど、あっていいはずがありません。

もちろん色んな事がございましたのよ。
生きているうちに再び日本に帰れることはないでしょうから、先生がブラジルにいらっしゃった頃にはお話しできなかった昔話を聴いてくださる?

先生は私の夫を憶えていらっしゃるかしら?
そう、あの穏やかで優しい夫です。
実はね、終戦後まもなく起きた勝ち組と負け組の抗争の時に、私と当時婚約者だった夫はパンタナルを抜けてアマゾナスまで馬で逃げたの。ええ、そうよ。あの美しいパンタナルをね。
夫は左脚を撃たれていて歩けなかったの。その夫を太い麻縄で背中にくくりつけて、私が手綱を握ったのよ。」

pantanal

僕はのけ反るほど驚いた。いつも優しく朗らかだった弓さんとご主人がそんな体験をされていたとはついぞ知らなかった。
ブラジルの日系一世は勝ち組と負け組の抗争の話をめったに語ることはない。日系移民史の汚点とも言える悲劇の1ページは、当事者にとってあまりにも辛く、そして凄惨な記憶だったからだ。
弓さんの言葉を聴いたとたん、ロビーの喧騒がにわかに掻き消えたような気がした。

「フフフ…驚きました?先生。
ええそうよ。終戦前に婚約したばかりだった私の夫は負け組だったの。負け組って言い方は可笑しいですわね。実際に日本はあの戦争で負けたのだから、私の夫は正しく情勢を認識していたってことですもの。負け組じゃなくて、認識派って言ってほしいわよねぇ。
でも私の父は勝ち組だった。
神国日本が敗れるはずがない!ってね。父は明治以来の軍人の家系に育った人ですからね。終戦前に婚約は許してくれたけれど、戦争が終わると、今度は勝ち組と負け組が対立を始めたものだから、負け組の若手リーダーに娘を嫁がせるわけにはいかなくなったのよ。
私たちの家族は戦勝国日本へ帰国するつもりだった。農場と屋敷を日本円に換えて、そのお金を持って凱旋帰国することになっていたの。もちろん父は私たちの婚約などお構いなしに、強引に私を日本へ連れ帰るつもりでした。
父にしてみれば『故郷に錦を飾る』ってやつね。お笑い草でしょ?
実際には日本円なんて紙くず同然になっていたのですもの。
そうよ。結局帰れなかったわ、誰一人として。
私のいたコロニアではほとんどの日系移民家族が勝ち組に属していたの。
ある日、日本へ帰る私たち家族の送別会をコロニアで開いてくれたのよ。飲んで歌って大宴会をしているところへ夫が馬に乗って飛び込んできたわ。
ねえ、先生はダイナマイトをご存じかしら?
信じられないことに夫はお腹の周りにぐるりとダイナマイトをくくりつけていたのよ。
庭が宴会場だったのだけど、夫は酔っ払っている人たちをかきわけて私のもとに来ると腕をつかんで連れ去ろうとしたの。
父はおんぼろトラックから古いウインチェスターを持ち出して夫に向けたわ。
ええそうよ。ライフル。夫の胸の真ん中を狙ってね。
でも、撃てっこないわよ。ダイナマイトに当たったらみんな吹っ飛んじゃうもの。
夫は父の目を見ながら、ゆっくり後ずさりして門を出たの。
ええ、もちろん私も一緒よ。

銃声がしたのは私たちが馬に乗って走り出した直後だった。父が撃ったの。
フフフ・・・父は馬を狙って撃ったのだけど、ライフルなんか撃ったことないものだから、手綱を握っていた夫の脚に当たっちゃったのよ。
撃った父は青くなってオロオロしていたわ。まさか当たると思ってなかったみたい。でも私たちはそのまま馬で逃げたわ。
隣のコロニアにお医者様がいたから、そこで夫の応急手当てをしてもらったの。そのあとは私が手綱を握り、夫が落ちないように麻縄で背中にくくりつけたのよ。

私がいたコロニアの血の気の多い人たちが、追っ手になったの。
もう夢中で逃げたわ。夫は途中で何度も気を失ったの。弾は貫通していたけど、出血が酷くてね。時々馬を止めてはいただいたお薬を飲ませ、止血をしなおして、そしてまたすぐに逃げた。本当に死に物狂いで逃げたわ。
この人と生きて行きたいと思っていたから。
でも可笑しいわよねぇ。ブラジルまできて日本人から追われて逃げるなんて・・・悲しかったわ。とても悲しかった。馬を走らせながらずっと泣いていたのを憶えているわ。

追手

追っ手はしつこかったけど、クイアバーを抜けたあたりで諦めたみたいだったわ。
彼らも馬鹿馬鹿しくなったんだと思うの。ほとんど不眠不休だったでしょうしね。
もしかしたら、逃がしてくれたのかも知れないけど、判らないわ、今となっては。

それからアマゾナスへ入って、叔父夫婦を頼ったの。叔父夫婦はカフェの農園を持っていたわ。
そこで匿ってもらい、そのまま居着いちゃったの。叔父夫婦には。子どもがいなかったからね。
10年後にその叔父さんが亡くなって、夫が農園を引き継いだの。
それからお花の栽培も始めてね。ええ、私の夢だったから。
ほら、これがジャカランダのドライフラワー。先生に渡したくて持ってきたのよ。懐かしいでしょ?

ジャカランダ

夫は去年亡くなってしまいましたのよ。火葬にしてお骨を農園のジャカランダの樹の下に埋めたの。
ええ、その樹がつけた花なのよこれは。
いいのよ先生、気にしなくて。誰にも連絡しなかったのだから。
88歳だったわ。そう、大往生。
孫たちに囲まれてね。ええ、幸せな人生だったと思うわ。
私は夫をとても愛していたのよ。可笑しいかしら?こんなおばあちゃんが言ったら。でも、本当に愛していたの。
今でも夫は私の中で生きているわ。ダイナマイトをお腹に巻いて、顔を引きつらせてたあの人が。
ウインチェスターの銃口の前に立ちはだかって、私の腕をアザがつくくらい握ってたあの人が。
とても優しかった。
満開のジャカランダの下で笑ってたあの人。
子どもを伝染病で亡くした時も、黙っていつまでも抱きしめてくれていたわ。
私が泣き叫んでいても、涙一つ零さず優しい顔で微笑んでいるの。知っていたわ。泣きたいのを我慢していたことくらい。
私の悲しみを癒すために、私の前では絶対に泣かないってことを自分に課していたのよ、あの人は。バカですよね。ホントに。

ほら、このフィルムケースにあの人のお骨のかけらを入れて持ってきたの。
そう、あの人を故郷の土に還してあげたのよ。一度も日本に帰れなかったんだもの。
ブラジルで授かった子どもを2人続けてマラリアで亡くした時と、主人が借金までして手に入れたピメンタ(胡椒)の苗が全滅してしまった時は、本当に死んでしまおうと思ったわ。
でも、夫が私に隠れてジャカランダの樹の下で泣いている姿を見たときに、こんなことで私がへこたれてるわけにはいかない、って思ったの。私が夫を守らなきゃって。
そうですわよ先生。女っていざとなると強いんですのよ。
はた目には苦労の連続だったのかも知れませんけど、私は幸せな人生を歩ませていただけたと思っていますの。

先生、幸せって何でしょう?
物やお金じゃないような気がします。
心から愛せる人と出逢ったり、命がけで守りたい人がいたり、自分の命よりも大切な子供を授かったり。
陳腐かも知れませんけど、毎日生きている中で小さな喜びを見つけることで幸せになれるような気がしています。
何といっても、こんなに平和な社会で生きていられるのですから、それだけでも幸せですわよ。今の日本人は。
きっといつか、日本の若い人たちも気づいてくれる日がくると思いますわ。
ええ、気づきますとも。」

弓さんは、柔らかな微笑みを浮かべながら、奇跡のように美しいこの国の言葉でそう語ってくれた。
弓さんが語り終えても、僕はしばらく雷に打たれたように身じろぎできずにいた。
弓さんの言葉は独白のようにみえて、まるで神の託宣のように僕の心を打った。
やがてロビーの喧騒が僕の耳に戻ってきた。

空港

ブラジルへ向かうフライトの時刻が迫ってきていた。搭乗をうながすアナウンスが流れると弓さんは席から立ち上がった。
そして僕のかたわらに腰かけると、そのか細い腕を肩にまわして頬にキスをし、
「先生。本当の幸せを見つけるのよ」
そう囁いてくれた。
キャリーバッグを引き保安検査場に向かう弓さんの背筋はやはりピンと伸び、気高く颯爽としていた。その顔(かんばせ)に刻まれた深い皺までもが、僕には異国での筆舌に尽くし難い苦難を乗り越えてきた者だけが持つ、気高き勲(いさおし)に見えた。
「本当にありがとうございました」
僕はきっちり45度に腰を折るお辞儀で、再び相まみえることの叶わぬであろうブラジルの母、広瀬弓さんの去り行く背に別れを告げた。

広瀬弓 静岡県出身 2010年1月23日没 90歳
彼女はブラジル北部、アマゾナス州の州都マナウスのジャカランダの樹の下で夫と共に眠っている。
(了)

※ジャカランダ(Jacaranda、スペイン語読みでハカランダとも)
・キリモドキ属 Jacaranda - ノウゼンカズラ科の低高木。中南米原産だが各地で栽培される。花が有名。
・ブラジリアン・ローズウッド Dalbergia nigra - マメ科の高木。ブラジルにのみ産する。木材に使われる。
・ハワイ桜 または 紫の桜 とも呼ばれている。

Wikipediaより

writer/Be weapons officer
proofreader/N.NAGAI

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