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勝ち組と負け組 日の丸と君が代 Brasilシリーズ1

今日はちょっと毛色の変わった記事を書きます。
このところサッカーやラグビーのワールドカップ。あるいはつい最近行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)などでの日本代表の躍進ぶりはめざましく、観ていて心ときめくものがあります。
スタジアムでは日の丸の小旗がうち振られ、オーロラビジョンに涙する人の姿が映し出されたりしますよね。こちらまでウルっときてしまう瞬間です。
実はこうしたシーンを観るたびに、僕は必ず思い出すことがあるのです。
今回はちょっと長い話になりますので、覚悟して読んでくださいw

まず2021年11月24日の『プレジデントオンライン』に掲載された記事を全文掲載します。長文ですが、読む価値のある文章だと思います。
これは第二次世界大戦で日本が敗戦した直後に、地球の裏側ブラジルで起きていた事件に関する記事です。
ブラジル日系社会で起きた"勝ち組""負け組"の話をご存じの方も多いと思いますが、そうで無い方にはこの機会に是非知っていただきたいと思います。

開拓地の日系移民家族

■「勝ち組」「負け組」の悲劇 傷付けあう日系移民

■「日本の敗戦はインテリのデマだ」ブラジルに住む日本人の9割がそう信じて起きた悲劇」
「勝ち組」「負け組」という言葉にはもう一つの意味がある。終戦後、ブラジルの日本移民は、日本は戦争に勝ったとする「勝ち組」と、負けたとする「負け組」に分かれて、激しい抗争を繰り広げた。『灼熱』(新潮社)を出した作家の葉真中顕さんは「この抗争は殺し合いに発展し、23人が死亡した。フェイクニュースや陰謀論、デマの横行する現代だからこそ問うべき悲劇だ」という――。

1945年の太平洋戦争終結時、「日本は戦争に勝った!」というフェイクニュースを信じてしまった人々がいた。彼らを“勝ち組”、逆に敗戦を正しく認識した人々を“負け組”と呼ぶのだ。両者は激しく対立し、ついには殺人テロまで起き20人以上の死者が出る事態にまで発展した。そんなことあったの?と、驚く向きも少なくないだろうが、あったのだ。ただし日本ではなく、ブラジルで。

日本に捨てられたブラジル移民
戦前の日本は近代化に伴う人口爆発への対策として国民の海外移住を推進しており、ブラジルにも20万人以上もの日本人が移民していた。そのほとんどは農業移民。当時のイエ制度では家督を継げなかった農家の次男坊や三男坊が、移民会社の「ブラジルなら自分の土地を持って稼げる」といった誘い文句を受けて移住を決意するというのが典型である。

言ってしまえば国家的な「口減らし」なのだが、当のブラジル日本移民たちは戦前の大日本帝国イデオロギーを強く内面化しており、自分たちはアジアの一等国からやってきたというプライドを抱いていた。移民とは言ってもブラジルに定住する気はなく、いずれ祖国に凱旋することを夢見る「出稼ぎ」としての移民だったのだ。

そんな日本移民の大半は、サンパウロ州の奥地で「殖民地」と呼ばれる農村を形成し、日本人だけで暮らしていた。そこでは日本語で日常生活が送れるので、日本移民の多くがブラジルの公用語であるポルトガル語をさほど覚えなかった。子弟にも日本語教育を施し、天長節(天皇誕生日)をはじめ日本の暦に合わせた行事を行っていた。日本移民の間だけで流通する邦字新聞も発行されるようになった。

祖国の戦況を知る唯一の手段
ところが太平洋戦争が始まるとブラジルは連合国陣営に加わり、日本とブラジルの国交は断絶してしまう。戦争が始まる直前、邦字語新聞の発行も禁止され、ポルトガル語がわからない日本移民にとってブラジルは情報の隔絶地になってしまった。

その上、ブラジル当局は「敵性国人」となった日本移民に弾圧を加えた。多くの日本移民が資産を凍結され、日本人街には立ち退き命令が出され、家財道具一式を官憲に奪われるというようなことも頻繁に起きた。

そんな日本移民たちにとって祖国の戦況を知る唯一の手段が、日本から辛うじて届く短波ラジオ、日本放送協会(のちのNHK)の海外放送「ラジオ・トウキョウ」だった。この放送は日本軍を優勢とするいわゆる「大本営発表」を伝えていたが、多くの日本移民はこれを信じた。「今は弾圧を受けていても、いずれ戦勝国民として祖国に凱旋できる」という希望を抱いていたのだ。

その一方で、開戦後、一部の日本移民が生産する薄荷と生糸の価格が高騰すると「薄荷と生糸はアメリカで軍事物資になるから『敵性産業』だ」いう根拠不明の噂が流れた。これらの生産者が「国賊」と非難され、焼き討ちを受けるといった事件も起きた。根底にあるのは大きく儲けた者への嫉妬心と考えられるが、気にくわない同胞に「国賊」のレッテルを貼り攻撃するというナショナリズムの歪みは終戦前から顕れていたのだ。

「玉音放送」を勝利宣言と誤解する人が続出
そのような状況で、1945年8月15日を迎えた。
日本時間の正午、ブラジルは日付が変わった真夜中、ラジオ・トウキョウがほぼリアルタイムで玉音放送を流した。その後もラジオ・トウキョウは敗戦の報を流す。しかし大半の日本移民は、これをそのまま受け止めることはできなかった。

文語調でわかりにくく、音もよくなかった玉音放送を「勝利宣言だ!」と真逆に解釈する者が続出したのだ。それはまさに日本移民が待ち望んでいたものでもあり、日本勝利のフェイクニュースは瞬く間に広まった。

1945年時点では、日本移民のおよそ9割が日本が勝ったと思い込む“勝ち組”となった。しかもただ日本が勝ったというだけではなく、「日本が新型兵器で米艦隊を殲滅した」「戦勝使節団が迎えに来てくれる」など、フェイクに様々な尾ひれがついていった。
ポルトガル語を理解し現地の報道に触れていたごく少数の人々だけが、日本の敗戦を認識する“負け組”となった。その多くは都市部のインテリや産業組合の幹部で、従来から日本移民のエスタブリッシュメントと目されていた者たちである。

1945年の後半になると、天皇陛下が直々に発した終戦の詔書や、東京湾上のミズーリ号で行われた降服調印式の写真をはじめ、日本の敗戦を示す証拠がブラジルにも入って来るようになる。すると“負け組”の人々はこれらを用いて“勝ち組”に敗戦を認めさせる「認識運動」という運動を展開した。

反目する「勝ち組」と「負け組」
ところがこれは逆効果だった。一般大衆である“勝ち組”からすれば、指導者層であるはずの少数の“負け組”が敗戦を流布するのは、裏切りに思えたのだ。しかも“負け組”の中にはこちらが正しいとばかりに高圧的に敗戦という「事実」を“勝ち組”に押しつけようとする者も少なくなかった。

“勝ち組”は「やつらは祖国を貶める国賊だ」と“負け組”への反発を強めてゆく。敗戦の証拠とされた詔書や写真も「捏造だ」「陰謀だ」と信じようとしなかった。降服調印式の写真などは「アメリカが降服したのだ」と、玉音放送と同様に事実と真逆の解釈がされた。

やがて“勝ち組”の人々の間で、国賊である“負け組”に天誅を降すべきだといった空気が醸成されるようになる。
そして終戦の翌年、1946年3月、バストスという土地で現地の“負け組”の中心人物が暗殺される事件が起きてしまったのだ。これを皮切りにサンパウロ州の各地で“勝ち組”による“負け組”へのテロが続発する。“負け組”も自警団を組織したりブラジル当局へ通報するなどして対抗した。

昭和天皇の写真を踏ませる強引な取り締まりも…
テロはおよそ10カ月も続き、定説としては23人が暗殺により命を落としたとされている。犠牲者の大半は“負け組”だが、“勝ち組”にも“負け組”の自警団に殺害された者や、騒乱の中で死傷した者がいた。

また“負け組”と協力関係にあったブラジル当局は、“勝ち組”に対し拷問を加え「日本は負けた」と言わせたり、踏み絵のように天皇陛下の写真を踏ませるなど強引な取り締まりを行った。暴力が連鎖するまさに「抗争」である。

テロの実行犯が次々逮捕されたのに加え、1946年の後半から日本との手紙のやりとりや邦字新聞の発行が解禁され、正しい情報が流通する経路が広くなったこともあり、1947年1月を最後に、(少なくとも暗殺のような)テロ事件は起きなくなる。ただし解禁された邦字新聞の中には“勝ち組”の立場のものもあり、“勝ち組”と“負け組”の対立は1950年代の半ば頃まで続いた。

こういった混乱の時期は、詐欺師が暗躍するのも世の常である。対立を利用した詐欺事件も多発した。騙されたのは主に“勝ち組”だ。「日本が勝ったから円の価値が上がる」とすでに紙クズになっていた旧円を売りつける「円売り詐欺」や、「大東亜共栄圏の土地を売ってやる」と架空の土地を売る詐欺、戦勝国となった日本に凱旋したいという気持ちにつけ込んだ帰国詐欺などが横行した。1950年代にはお忍びでやってきた皇族に成りすました男女が信奉者に貢がせる「偽宮事件」など奇妙な事件も起きている。

“忘れられた悲劇”が現代に問いかけるもの
こうしてさまざまな混乱に見舞われたブラジルの日本移民社会だったが、1952年に日本とブラジルの国交が正常化し人と情報の行き来が活発になるとさすがに敗戦の事実は明らかとなり、かつて大勢を占めた“勝ち組”も徐々に“負け組”へと宗旨変えをしてゆく。

そして1954年の「サンパウロ市創立400年祭」を機に日本移民たちは団結へと踏み出した。このとき団結を疎外しかねないこの抗争のことはタブー化された。公の場で語られることはなくなり、邦字新聞も記事を載せなくなる。そのうちに世代交代が進み、抗争を知らない戦後の日本移民も多くブラジルにやってきて、やがて抗争の記憶はブラジル日本移民社会の中でも薄らいでいった。現在では日本にルーツを持つ日系ブラジル人の人々でも、このことを知っている人は少数となっている。

忘れられた悲劇というべきこの抗争を、過去のことと笑えるだろうか? そんなことはあるまい。現代では、ほとんどラジオしかなかった当時と違いSNSをはじめ様々な情報技術が発達している。しかしそんな現代でも、いや、そんな現代だからこそ、人は自分に都合のいい情報だけを選んで触れるようになった。「信じたいものを信じる」という人間の性質は何も変わっていない。フェイクニュースや陰謀論、コロナに関するデマが横行し、人々の分断が加速する現代だからこそ、問う意味があると思う。

2021年11月24日『プレジデント・オンライン』 葉真中 顕

長文でしたよね。お疲れ様です。
何故このような長い文章を全文引用したかというと、わずか77年前に地球の裏側で日本人同士が傷つけ合うという、悲劇の歴史があったことを知って欲しかったからです。
現在でも[ブラジル 日系移民 勝ち組 負け組]でググると、多くの記事がヒットしますので、興味のある方は検索してみてください。
当時のブラジル日系移民の中にも天理教の信者がいました。
主に原野を開拓開墾して農地を造り、そこで作物を作ることで生計をたてる。そのかたわら教祖の教えを広げていこうとした方々です。
それは筆舌に尽くしがたい苦難の歩みでした。日系移民の苦労についてはネットで検索していただければ多くの文章がヒットしますので、よかったら調べてみてください。
ブラジルの天理教については次の記事を読んでいただくと概略がつかめると思います。

■ブラジル伝道庁50年の歩み

南米ブラジルには「ニッケイ新聞」という名の新聞があります。ニッケイは日系を意味します。
「ニッケイ新聞」は「パウリスタ新聞」(1947年1月創立)と「日伯毎日新聞」(1949年1月創立)が1998年に合併して創立された「ニッケイ新聞社」が発行する新聞です。
そのバックナンバーにこんな記事があります。

ブラジル伝道庁

ニッケイ新聞 2011年6月18日付け
「伝道庁50年の歩み」
ブラジルで天理教の歴史が始まるのは、南海大教会(和歌山県)から布教のために信者10家族が派遣された1929年にさかのぼる。
その一人だった大竹忠治郎氏(1992年/享年88歳)が中心となり、布教活動を展開したが、戦時中に天理教のリーダーとして1年余り投獄。教会閉鎖、布教禁止という暗黒の時代を迎える。
(Beによる註:「1年3ヶ月にわたりサンパウロの獄舎に収監された大竹先生は獄舎でもトイレ掃除を率先して行うなど、ひのきしんに励み、その白熱の布教活動は留まるところを知らなかった」と書かれている小論があります。
1943年5月に出獄した大竹庁長は、バウルー市に近いアバイ郡で練成道場を開き、4年間人材の育成に心血をそそぐ。

忠治郎とチヨ

信者数が増えたことで全伯の教会を統括する組織が必要となったことから、交通の要所だったバウルーに51年、伝道庁の設置が決まり、同年9月中山正善真柱(2代目)によって鎮座祭が執り行われ、大竹初代庁長が祭主となり、設立奉告祭が盛大に催された。
1956年、教祖70年祭に101人が帰参したことを機に、本部は海外布教の促進を決め、海外伝道部と青年会本部が協力し、伝道庁が受入れ母体となって布教師の移住を目指す農業移民計画が進められる。
1957年10月第1回天理移民5家族が来伯。その後、1966年までに33家族、単身者も含め総数184人。
伝道庁設立当時は、教会9カ所、布教所13カ所、ようぼく約180名だったが、現在、教会87カ所、布教所310カ所、ようぼく6500人となっている。
このたびの60周年を迎えるに当たり、南境内地に400名収容の多目的講堂、教室・会室棟を建築、2009年末に竣工した。伝道庁は天理教ブラジル布教の基盤として確固たる存在感を示している。現在の信者数はブラジル国内に約3万人。

ニッケイ新聞 2011年6月18日付け

ブラジル日系人社会で起きた「勝ち組」と「負け組」の抗争には、前掲した天理教信者の皆さんも巻き込まれてしまいました。
そんな中を、後に天理教ブラジル伝道庁の初代庁長となる大竹忠治郎先生は信者をまとめ、心を一つにして乗り越えられたのです。
約40年前、仕事でブラジルに住んでいた僕は「勝ち組」に命を狙われたという天理教の古老から直接話を聞く機会を得ました。
数人の勝ち組のメンバーから追われ、原野をライフルと拳銃で応戦しつつ逃走し、最後は馬を得て逃げ切ったということでしたが、古老が語る抗争の詳細な描写は耳を覆いたくなるほど凄惨で哀しい物語でした。
こうした話を聞いているので、僕は昨今の日本で普通に使われるようになった「勝ち組」「負け組」という言葉に強い違和と嫌悪をおぼえてしまうのです。

■日の丸と君が代 祖国の旗・心の歌

ところで皆さんは「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ…」という文章を読んだことがおありでしょうか?
これは「教育|勅語《ちょくご」」(何それ?ですよねw)の冒頭に書かれている一文です。

教育勅語
ご真影

1890年(明治23年)に発表された「教育勅語」は、正しくは「教育ニ関スル勅語」といい、教育に関する天皇陛下のお言葉という意味を表しています。これは長く日本の道徳教育の根幹となりました。
にわかには信じられないかも知れませんが、ブラジルの日系コロニアの一部では、今もなお新年には玄関先に日の丸を掲揚し、皇居の方角を向いて遥拝し、教育勅語の奉読や君が代の斉唱を行っているのです。各家庭には昭和天皇・皇后両陛下のご真影も掲げられています。
ことほど左様に、日系コロニアには、いまだに古い日本が残っています。祖国から棄てられた「|棄民《きみん」」と言われたにもかかわらず・・・。
真っ二つに分かれ、同族相食どうぞくあいはむ哀しい抗争を繰り広げた日系移民社会にあっても”勝ち組””負け組”という立場の違いに関係なく「日の丸」は紛れもなき祖国の旗であり「君が代」は心の歌でした。
日本の国旗・国歌が「侵略の象徴」「帝国主義の旗」と言う人たちが日本にいることを彼らは知っています。
それでも「忌まわしい過去の戦争を乗り越えた旗だからこそ、誇りを持てるのではないですか」と穏やかに語りつつも、昂然こうぜんと胸を張る彼らの姿を忘れることはできません。

ワールドカップやWBCなどで日の丸が掲げられ、小旗が打ち振られるたびに、僕は彼ら日系移民たちを思い出してしまうのです。
これまでにも「日の丸・君が代は国旗・国歌として相応しいのか?」という話題が度々議論の俎上そじょうに上がってきました。
先にお断りしておきますが、僕はこれまで政治的問題を語ることを自らに戒めてきました。そして今後もその姿勢を変えるつもりはありません。なのでこの記事に政治的意図はまったく無いことをご理解ください。
この問題に対して、某党は

日本が中国をはじめアジア諸国を侵略したとき、侵略戦争の旗印として使われてきた旗だということです。前の大戦で、侵略陣営の主力となったのは日本・ドイツ・イタリアの三国でしたが、この戦争中に侵略の旗印として使った旗をいまもそのまま国旗としているという国はありません。ドイツもイタリアも戦後、国旗を変えました。

N党都道府県委員長会議より

という見解を表明しました。
そうした意見が出ることは当然だと思っています。国家が勝手に始めた戦争で大切な人を亡くした方もいらっしゃるでしょう。戦地で泥水をすすり、草をみ、腕や脚を失った方だっている。
僕は子供頃に本部神殿前の石畳脇で、白い病衣を着た傷痍しょうい軍人の方々が募金を求めている姿を実際に目撃しています。

傷痍軍人

悲惨な戦争がもたらした災厄さいやくのみならず、様々な理由から日本という国家を恨んでいる人は大勢存在します。日本人であることを恥じる人だっている。
そうした人たちの「日の丸・君が代は国旗・国歌として認めない」といった声を認めることも、多様性社会の本義に相応ふさわしいものであり、それは日本という国家の成熟に繋がるとも思っています。
ただ、僕は日の丸が日本の国旗として相応しいか相応しくないかという議論をここでするつもりはありません。簡単に正答を得られないであろうことは瞭然りょうぜんとしています。
なので、その問題はちょっと脇にどけておき、もう一つ皆さんに読んでいただきたい記事があります。

これは2004年(平成16年)10月23日17時56分、新潟県中越地方を震源として発生したM6.8、震源の深さ13キロの直下型の地震が発生した際に書かれたニッケイ新聞の記事です。

寄付16万レアル超える 新潟中越地震救援委員会第一弾送金へ
2005年1月7日(金)
ブラジル日本文化協会、新潟県人会などが中心となって組織された新潟中越地震救援委員会(松尾治委員長)の支援特別口座には5日朝時点で、16万224レアルもの寄付が全伯ぜんぱく(ブラジル全土)から寄せられており、第一弾を日本へ送金することになった。
4日までに集まっていた5万3千5百ドル(約556万円)を第一弾として送金するために中央銀行に申請をしており、一週間程度で許可が下りそうだ。松尾委員長は「年が明けても、数え切れないくらいの善意が、続々と全伯から寄せられています。もしかして20万レアル以上いくかもしれません」と語った。寄付は今月いっぱい受け付け、その後、日本へ送られる。

2005年1月7日付 ニッケイ新聞(ブラジル)

当時のレートで考えると、約556万円という額は現在の日本では5,000万円に相当します。その後、義援金以外にも救援物資が届いたそうです。
日の丸とブラジルの国旗が貼り付けられた空輸用コンテナは、祖国を離れて生き抜いてきた日系移民にとって、どれほど誇らしいことだったでしょう。
僕はそんなことを思いました。
国歌である"君が代”についても

「君が代は千代に八千代に」、つまり”天皇統治は永久であれ”という歌ですから、これは、いまの憲法の国民主権の原則とはまったく両立することはできないわけです。

「国旗・国歌問題についてのN党の立場」より

と言われていますが、その意見も否定はしません。そういう考え方もあって当然です。
でも一つだけ僕の意見を言わせていただくと、君が代の”君”を「日系移民を含む全ての日本人とその血を継ぐ者」と思い定めれば、あながちこの歌も捨てたものではないと思うのです。
薄っぺらな感傷に過ぎないのかも知れませんが、前述した日系移民たちが(もちろん天理教信者も含みますよ)遙かなる異国の地から、日の丸・君が代を母なる祖国の国旗・国歌と信じて仰ぎ見る限り、日の丸・君が代は誇り高き我らの旗であり、心の歌だと、僕は強く思ってしまうのです。
確かに日の丸・君が代は悲劇や侵略を象徴する旗なのかも知れません。しかしその後、焦土から立ち上がった僕たちの父祖が、血涙けつるいしぼる壮絶な努力の末、遂に勝ち取った平和と復興を象徴する旗であり歌であるとも言える気がするのですよ。

今回は普段とまったくカラーの違う記事になりました。重ねて言いますが、政治的立場の違いや、日の丸・君が代を認めない方々と争う為に書いたものではないことをご理解ください。

■天理教ブラジル伝道庁 初代庁長 大竹忠治郎ちゅうじろう

実は、古いアルバムを整理していたところ、ブラジル天理教の父と呼ばれる、天理教ブラジル伝道庁初代庁長の大竹忠治郎先生と僕が一緒に写っている写真が出てきました。その時、懐かしさと共に僕の野良犬ライター魂を激しくり動かしたナニモノかが、今回の記事を書かせてくれました。
なので、最後に少しだけ感傷的なことを書かせてください。

2023年6月26日時点で道友社に在庫がありましたよ

天理教ブラジル伝道庁初代庁長 大竹忠治郎先生の思い出です。
「大竹忠治郎先生」などと呼ぶと、きっと「水臭いなあ」とおっしゃるでしょうね。では、あの頃のように庁長さんと呼ばせていただきます。
庁長さんは80歳を超えて尚、少年の心を失わない方でした。
伝道庁での朝夕のおつとめ前に、自ら呼び太鼓を鳴らすことを日課とされていましたね。
晩年には歩行がかなり困難になられていましたが、それでも両脇を抱きかかえられるようにして呼び太鼓を叩いておられた姿を僕は一生忘れません。
若かりし頃、ブラジルの原野に散在し農作業に汗を流す天理教信者さんたちに向け「届け!」と念じて呼び太鼓を打たれたていたのではないかと僕は想像をたくましくしていました。
初代伝道庁長となられた後も、そして晩年になっても、おつとめを知らせる呼び太鼓の音は、歯を食いしばって歩む信者さんたちに向けた親心の具体だったのではないかと。
ある日、伝道庁からクルマで3時間ほどの所にある天理教の布教所に、運転手としてお供させていただきましたね。

赤土の道路

布教所長さんが風邪をひき、伝道庁の月次祭に参拝できなかったので、様子を見に行かれたのでしたね。
庁長さんは布教所に着くなり、何の見舞いの言葉もかけず「お前、なにをしているんや!しっかりお道を通ってるんか?」と、お叱りになられた。
僕はその厳しいお声にびっくりして固まってしまい、そして思いましたよ。「布教所長さんだって70歳を越えているのだから、もっと優しい言葉をかけてあげればいいのに」と。
でも、まだ20代の僕は浅はかでした。
80歳を超えた庁長さんに叱られた所長さんは、その途端ホロホロと涙を流され、
「申し訳ありません。実は最近勇めてませんでした。心入れ替えて通らせてもらいます」
とおっしゃり、深々と頭を下げられました。
庁長さんは
「分かってたで。そやから来たんや。しっかり通らせてもらうんやで」
と、さっきとは正反対の優しい声で言い、莞爾かんじとして笑いましたね。
そして老いた所長さんの頭に右手を置くと、軽くなでるようにされた仕草は、まるで親が幼い我が子に対してするそれでした。
僕はその時、庁長さんの掌から暖かな何かが流れ込んでいるような気がしてハッとしました。遠く祖国を離れて苦楽を共にし、血の滲む努力を重ねていらした方々にしか分からない無言の会話が、目の前で交わされていることに気づいたのです。
その光景は百万の言葉を以てしても及ばない大切な何かを僕に教えてくれました。
もしかすると、庁長さんは僕にそれを仕込むためにお供を言いつけられたのかも知れません。いや、絶対そうだと思いたい。

大竹忠治郎庁長
たすけ一条なるほどの人よ

ブラジル天理教の父、大竹忠治郎先生。
わずかな年月であっても、庁長さんから薫陶を受けたことを我が胸のいさおしとして、僕は日本で生き、そして信仰を続けています。

お背中をお流ししたあの頃を懐かしみつつ。
Te vejo mais tarde!

文責/Be Plus  @Weapons_Officer
校正/Dr.Charlotte.Ozaki

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