夢中になれるものに生産性は必要なのか
W杯が終わってからというもの、サッカーへの熱が冷めない。
正確に言うと「サッカーへの熱」というよりも「日本代表への熱」かもしれない。
とにかくベルギーに負けたことが悔しかった。試合後にうつ伏せのまま立てなくなるほど、力を込めてテレビの画面を見続けた。
あれから、ほとんど毎日ウイニングイレブンをやっている。
日本代表を使って、今回のW杯の組み合わせを再現して、優勝を目指して日々プレーしている。(優勝できたらCOMのレベルを上げてまた繰り返している)
今日は台風の影響で家に引き篭もっていた。当然、ウイイレを貪るようにやり続ける。
途中、ふと思った。こんなにゲームに夢中になったのは多分小学生以来。
「ああ、これが夢中になるっていう感覚か」と妙に客観的に自分をみていた。
あれから数時間経って、またさらに思う。これが仕事だったら、あるいは生活を支えるものに直結するものだったら、どんなに素晴らしいことかと。翻って、果たして夢中になれるものに生産性はあるべきなのか、そうでない時に、夢中になれるものに価値は無いのだろうかと、なんだか憂鬱な気持ちにもなった。
多分、このままCOMレベルをレジェンドにして優勝しても、自分は多少の達成感を得た後に虚しさを覚えてしまう気がする。「だから、なに?」っていう気持ちがどこかで生まれてしまうと思う。
ただ、そう思うとて、夢中になれる事実は変わらない。
それは楽しい時間で、目標に向かって突き進む高揚感を感じられときでもある。
きっと夢中になることと生産性があることとは別次元の話なんだと思う。
虚しさと楽しさは同居する。
大人になると大金を稼いだり名誉を手に入れたり、あるいはそれに向かっている行動以外で生産性を見出すのは少し難しくなる、と思っている。
それはつまり夢中は主観で生産は客観的な事実だからなんだろう。
今ウイイレやってて楽しい時間は、それはそれで楽しみたいし、楽しんでいる時間を自分で馬鹿にしないようにしたい。
そうやって夢中になれるものを増やしていけたらいいなと、台風の夜につらつらと考える。
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