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05号制作日記 1101-1130

1101

朝、図書館で「続・FGの時代と言葉」について、メモの束を整理する。



1102

「続・FGの時代と言葉」の追記。牧村さんのインタビューが掲載された雑誌(90年代のもの)をいただいたので読む。



1103

「続・FGの時代と言葉」を書いていたら、あちこちが増えてしまう。

蛸の絵を描いていたら、足が15本になってしまったような感じで。



1104

「続・FGの時代と言葉」の清書をしていて、ますます分量が増える。

将棋の世界では「寝て、起きると強くなっている」伸び盛りの時期があるという。今の自分は清書して寝て、起きるとまた書くことが増えている。



1105

「続・FGの時代と言葉」はまた書くべき内容が増えてしまい、話を端折るべきと考え直す。

結局、いつものように「ある程度は書くけど後で追記するつもり」でないと何も書けない。

「当て字による歌詞の翻訳」も話のついでに入れてしまえと思っていたが、とても無理だとわかった。

当て字の方は、これはこれでカレーライスにおける福神漬けのような存在意義があるので、独立させて短文集に入れればいいかということにして目次を書き変える。

「志村けん論」を借りて読む。やけに字が大きくビジネス書のようで、すぐに読めてしまった。



1106

「続・FGの時代と言葉」は清書の方に移しながらレイアウトを整えて、やっと「12」まで来た。

半日くらい寝る。その後、下書きの骨組みを整えながら「19」まで。

これをまた整え直して清書して、完成までにあと数日はかかりそう。

仕方ないので前書きを先に書いてしまう。

牧村さんが「プカプカ 西岡恭蔵伝」を褒めているので、初めて聴いてみた。Spotifyにはアルバムが二枚だけで、自分が好きなのは「今日はまるで日曜日」。



1107

下書き1号から下書き2号にまとめて、清書する作業を続ける。

書いているのに終わらない。進んでいるのに後退しているような感覚なので、ムーンウォークみたいな状況になっている。

新書で「松本隆のことばの力」が出ていたので読んだ。インタビューに歌詞を足して、引き延ばしたようなもので、これなら「風街とデラシネ  作詞家・松本隆の50年」の方がずっと良い。



1108

まだまだ先は長い。短いつもりでいた箇所が長くなった。

もう文フリに間に合わせるのは不可能に近いので、少しずつ諦めつつ、もうちょい遅い〆切へと、意識を再設定しないと。



1109

また書くことが増えた。

それも込みで、原稿用紙20枚分くらい書く。

前から書きたかった土岐麻子「僕は愛を語れない」の他にも、例としてスティング「イングリッシュマン・イン・NY」、キリンジ「エイリアンズ」、aiko「4月の雨」、冗談伯爵「西暦2200年」の解釈を足すことになった。




1110

書けば書くほど量が増えて、ますますゴールが遠のいてゆく。

05号が蜃気楼のような存在になってきた。

しかし手元で書いている文章の内容は面白いので、手元を信じて進むしかない。



1111

だんだん「アビー・ロード」後半のメドレーの部分を演奏しているような心境になってきた。

部分はそれぞれ印象に残るが、全体像はよく見えないというか。

長丁場の映画や小説には、ダレ場が必要なのだという教訓がよく理解できる。



1112

そういえば「歌詞研究会」「歌詞研究会報」「歌詞研究会報集」のように、一文字ずつタイトルが増えてゆくというプランを考えたこともあった。
自分の日記を検索したら出てきた。「歌詞耽読」で始める。


「歌詞耽読」

「歌詞耽読学」

「歌詞耽読学会」

「歌詞耽読学会報」

「歌詞耽読学会報告」

「歌詞耽読学会報告集」

「歌詞耽読学会報告集成」


しかしちょっと長い。しかも別に「学会」ではないので、こういうタイトルで本を出したら噓になってしまう。

短く統一するタイトルの案もあった。


「歌詞耽読科」

「歌詞耽読記」

「歌詞耽読区」

「歌詞耽読系」

「歌詞耽読考」


これは「かきくけこ」シリーズになっている。これは5冊までの案で、すっきりしていて良いのでは。良いタイトルかどうかは、やや時間が経ってみないと判断しづらい。



1113

とうとう藤井聡太四冠が誕生した。

文章を書く手が少しも動かなくなった。



1114

「歌詞を当て字で漢字訳する」という実験的な翻訳を載せようかどうしようか、迷っていたのだが、予想外に真面目な文章が増えてしまって「バカ枠」に該当するものが05号にはないので、やっぱり入れておく。

タイトルは「当て字による漢訳の試み」にするかどうか、もう少し考える。


この翻訳の作業はやっていて面白い。このように変な風に価値をスライドさせる発想は、アーサー・ポージスの「1ドル98セント」が元ではないかと思う。本作はおそらく「ドラえもん」の「人間製造機」にも影響を与えている。


タイトルは「当て字による漢字訳詞集」として、ちょっと解説を書いてみたら、思っていた以上にうまく書けた。

これは解説がないと、どうしても理解しづらいので野暮ったいが仕方がない。


訳詞そのものは、仮に書いてみたものが何作かあったので、その順番を整えればすんなり理解されそう。「ヴァカンス」でも書きたくなったので作る。

ピチカートⅤの「ヴァカンス」の歌詞を確かめようと思って検索していたら、この曲のデモ音源が出てきた。この曲はロジャー・ニコルズの「Don’t Take Your Time」が元になっているのだとコメントがありビックリ。この曲もそうだったとは……。しかも今頃それを教わるとは……。


https://www.nicovideo.jp/watch/sm30361876



1115

「1ドル98セント」をもう一度、どこかで読めないかと思って県内の図書館を調べたら「ミステリ・マガジン(2012年10月号)」に再録されていた。しかも近所の図書館にあったので、コピーしてもらった。

読んでみると実にあっさりした話で、6ページしかない。そして、最後のセリフで二回も価値の変換が行われている。

選んだ山口雅也のコメントでは「私のオールタイム・ショートショート・ベスト3の一角を常に占めているほど好きな作品」とあって、それも納得の出来。私もおそらく20歳くらいの時に読んで、30年後にまだ覚えていて感心するくらいなので、生涯のベスト3には入る。



1116

7割ほどしか完成していない状態でも、印刷機で5~10部くらい作って文フリで販売してみてはどうかと思いつく。

そこで、書けている部分だけを足して、仮に本の形に組んでみたら70ページになった。文字数は五万字。

これでは完成したら90~100ページになってしまう。最初の目標が60~80ページくらいだったような記憶があるが、……もう無かったことにして忘れるしかない。

とりあえず70ページなら、裏表印刷で35枚なので用意しやすい。


夜、永瀬軍曹の言葉と、その前後が書けた。「数える」の追記と「正確性」の近辺、などを書けばほぼ終わり。

残りは「ポカ」と「ドゥーワッチャライク」が書ければいいので、月末には間に合いそう。



1117

「続~」は数字を振り直して1~30にする。これまで1~14だったものが1~17になって、残りの18~30の穴を埋めたり、削ったりする。


批評とは自分より認識の浅い読者へ向かって書くものだろうか。そう考えたくない。あまりこれという読者は想定したくない時もあるが、想定しなければ何も書けなくなるテーマもある。


「ブラック・エンジェルズ」を再読すると、新装版5巻までは記憶に残っているエピソードが多い。それ以降は、当時の自分が急速に興味を失っているのが何となくわかる。



1118

やはり少しずつ書き進めると、思いがけない寄り道やそれに伴う発見もあるので、短時間で多く書けばよいというものではない。

ミスを見つけやすくなるし、回りくどい文は修正できるし、明らかに「良くなった」と実感できる。

たまには「我ながらいいことを書いている!!」と思えないと、長い文章は書けない。



1119

批評的な文章を書いているのに、なぜか伏線を張ったり回収したりしている。

「この話題がまた?」「まさかの三度目?」といったような。

しかし長い文章を読んでもらうには、そのくらいのサービスはないと駄目だよなと思ってもいる。

「続~」はあちこち端折って書いても3万4000字になった。まだ書き終わらない。



1120

「ここは後で書く」としておいた穴をすべて埋めたので、一応は「続~」が書けた。

色々な話題がつながっているので、最初の方はもう思い出しにくい。

それでもあと少し、月末を締め切りとして一週間は書き直したい。



1121

仕事でほぼ何もできなかった。

図書館でテリー・イーグルトン「詩をどう読むか」を借りてくる。

「精読」という言葉がやけに気になるなと思っていたら「詩をどう読むか」の冒頭で、「誰が誰(の作品)を(精読した)」という例がズラーッと並んでいるのを見つけた。



1122

精読するほどの対象を見つけられるかどうか、なかなかそこまでの対象は見つからない。もし見つけられたら大変な幸運だといえる。

自分は「カメラ・トーク」の歌詞を精読しているように思われるかもしれないが、そこまでの実感はない。

精読の例として別役実が宮沢賢治の作品を読んだ「イーハトーボゆき軽便鉄道」を挙げたい。しかし少し読み返してみると、かなり個性的な読み方で、都合よくサラッと似たようなものは書けない。

深く潜りこむような、熱のこもった読解は主観に傾いてしまうので、精読によってそれが多くの人に共感されて初めて「客観」に勝った!と言えるのか。主観とか客観とかがどうでもよくなるほどの読解を提示できるものならしたい。

翻訳も精読の一種なので、たとえば村上春樹の訳業はそういう風に見える。


「精読」と並んで「空虚」という言葉、概念も気になる。特にシティ・ポップの歌詞は「空虚」ばっかりだなと思いつつ、そうでない例も多く思い浮かぶ。自分でもまだはっきりしない。江戸以前の、ずっと前から貴族の内面には空虚な感じがある。


念願の「ときどきポカをする王子様」は7つのうち半分ほど書けた。書いてみると絶対にポカだろうと思っていたものすら、本当はポカではないものが増えてきた。

残りもまあまあ頭の中ではまとまっているので、このまま完成させたい。3500字。



1123

今日は文学フリマの日で、05号暫定版を持って行った分は全部売れ、バックナンバーも持って行った分はきちんと売れた。

桐山もげる著「100mをありえないような速さで走る50の方法」もN4書房の本よりハイペースで売れていた。



少し早めに帰宅して19:00から20:30までオンライン講義の「解きたくなる数学」。

「広告批評」で読んで以来、佐藤雅彦研究室(略して佐藤研)に興味を感じていたので、その成果を垣間見れて嬉しい。階段を一段ずつ登るような論理的な解説で、目から鱗が落ちた。

批評はしばしば客観性に欠けてしまい、それが欠点でもあるが、優れた批評はむしろ、魅力的な主観が凡庸な客観を圧倒し、ひれ伏させるほどのものだ。

では数学と批評は正反対かというとそうでもなくて、たとえば将棋の終盤には数学的な厳密さがある。一方で将棋は攻めと守りを駆使した戦闘というよりは、この局面をどう見ますかという批評性と批評性の戦いでもある。

だから数学と将棋と批評は、主観性と客観性の混じり具合の割合が少しずつ異なる兄弟のようなものか。



1124

「あ段」については少しだけ書けたが、「い段」の歌詞についても書きたい。と考えていて、ちょうど頭にパッと浮かんだのが「トップ・シークレット(最高機密)」。

これは部分的に「い段」の音が多い。「ヒミつのあイがシたイイ~」という歌い出しからして多い。「キミニミミうチシたイイ~」に至っては異常に多い。


「ときどきポカをする~」というタイトルは挑発的だが「よく読んでみたらポカじゃなかったです」という部分がいくつも出てきたので、何となくそういうストーリー性をうまく使えたように思う。

「おかしいと思ったがそうでもなかった、けれどもやっぱり変」くらいに収まった歌詞もある。

夜、一応は全て書けた。6800字くらい。


「続・~」は「1」から「33」までに分けて、ページを数えてみたら57ページになった。

脳内で雪崩が起きたかと思うほど収拾がつかなくて困ったものだが、ついに整理し終えた。肩や背中が急に軽くなった。

一か月前の日記を見てみると「30ページくらいになりそう」などと吞気なことが書いてある。それにしてもここまで増えるとは……。

終ったらかえって興奮して、眠れなくなる。



1125

05号に登場するミュージシャンや曲のプレイリストを作る。

いよいよ残す原稿は「ドゥワッチャライク」の後篇のみ。

ページを組んでみると、冒頭から45ページあって、後篇が予想としては5ページくらい、「続」は58ページある。編集後記とあわせると、109ページくらい。

最終的には、全110ページで約8万字といったところだろうか。



1126

「ドゥワッチャライク」の残り20回分(+番外編)を読んで、あらためてジタバタした感じがいいなと思う。


歌詞についても、やはり他の作詞家とは違う。

その違いは画面の広さのようなもの……、空気、いや空気と書くと「雰囲気」のような意味になってしまうので、「大気」とでもいうべきものが歌詞の世界に満ちている感じ。山上の澄明な大気や、雪の日に特有の大気のように清々しく美しい。


そして光。

光については夏と冬の光、両方ともが描かれていて、それが美しい。FGの頃から春の光もある(秋はイチョウ並木)。

服部真里子の短歌にも同じように夏や冬に光が満ちていて、大気がある。

大気圏の光の中に、我々の人生や生活や、巡る季節があること。


日常生活も仕事もジタバタしている。ジタバタしているとはどういうことか。ハインラインの「夏への扉」の主人公のように「目の前に壁がある→だから、これこれの理由で(考える)→こうするべきだ(行動)」と、考えて行動するまでの間が少ない。FGの解散も、煎じ詰めればこの点によるものでは。

ほとんど意志と行動が同時に結びついていて、脳みそから直接、足が生えて走っているような。深い思索家であり、同時に迅速な行動家である人物の日常と仕事ぶり。

ジタバタしているとはつまり、ウジウジしている暇がないのだとも言える。


光とは太陽だけでなく理性の輝きを含むもので、それは難しい本を読んでいるとかそういうことではなくて、たとえばお弁当作りを毎日すること。に含まれるような、そういう輝き。


「ブルーの構図のブルース」とはどういう意味だろうか。あまりブルースっぽくないが、単に韻を踏みたいという癖のようなものか。

そうなると「ブルーの構図」とは何だろうか。「恋焦がれ 1人でいたい訳 誰にもきっとあるもの」というから、心理的にブルー、つまり「AさんはBさんを想っているのに、Bさんは振り向いてくれない」という人間関係の憂鬱で悲しい構図(≒片思い)ということか。それならブルース(≒哀調を帯びた歌)でよい。



しかし、曲調が明るすぎやしないだろうか?

何かこう、ウキウキしてしまうんですけど(イントロの時点で)。

「お前のそういうところが軽率でわかりづらいんだよ!」と佐野元春が激怒して、脳天に拳骨を百発叩きこむくらいの荒療治がないと治らないだろう。


念のために他の人の考えはあるのかと思って検索したら、到着地の明け方の街の静けさを絵画のように見立てて、それが「ブルーの構図」なのだという。それなら「ス」を取って「ブルーの構図のブルー」の方がよくないか。


夜、とうとう「ドゥワッチャライクを概観する」も書けた。



1127

本文を整理して、詰めていったら全106ページになった。03号がちょうど100ページだったのをすっかり忘れていた。もともと「続~」は30ページの予定が倍になったので、その分だけ計算が狂っている。


「ついに(ほぼ)完成!」と思って、直後に穂村弘の「あの人と短歌」を読んでいたら「◎◎的資質を持った作家」という表現があり、これには驚いた。ちょっと補足をしなければならないので、おまけの新聞に書くことにする。


「後で書くからいいや」と思っている部分をどこかにメモしておかないと絶対に忘れるので、これらを豆新聞に入れる。


・◎◎的〇〇

・最後まで書けなかったこと(日記)

・母音の重要性(近田春夫)

・回転運動について(昭和のドラマツルギー)


BCQ新聞もこれで最後となると、名残惜しい気がしなくもない。ところがアウトテイクスやボーナストラック的な部分だけでほぼ全部が埋まってしまう。


批評には論理性が必要だ。けれども、もっと非論理的な詩人・コピーライター的な資質も必要なのだ。「一言でいえば◎◎」「要するに〇〇」「ぶっちゃけ□□」というショートカット的な道をパッと示したり、うんと繊細な見方や、豪胆な視点を急に出すとか。そういった緩急をつけないと。


夜、読み直していて文章の修正が10か所くらい、誤字脱字の発見が2か所くらい。その後、不必要な「カッコ」をいくつか削除する、繰り返し気味の表現を削るなど。

何も用意せずに批評する人を悪く言っている箇所と褒めている箇所があり、読みようによっては矛盾している。

要はアウトプットの質なので、そこを言い訳しても仕方がないし、暇じゃないしカッコつかないし、花を入れる花瓶もないし、もう力が尽きた。



1128

頭が興奮しているせいか、さらに書くべき文章のテーマが夜中にいくつか思い浮かんで止まらなくなる。

「カメラ・トーク」の製作過程とか、バロウズとか。AtoZで書けそうな項目の検討とか。もっとシンプルな構成にして、サイズもA5か新書サイズにすればいい。


まだ05号を印刷に出してもいないのに、もう頭が勝手に次を考えている。

仮題「コーヒー牛乳とラジオと睡眠機械」

はどうかと思ったが、FG寄りになりすぎても不自由でつまらない。


改定案「コーヒー牛乳と機関銃と世界」

の方がスッキリしている。

しかし実際に表紙を作ってみるとしっくりこない。どうも二番煎じ的な安易な感じが漂っている。


それでも新しいタイトルを考えただけで、脳みそが新品に交換されたような気がする。


「歌詞とかその他とかの省察 (続・ベレー帽とカメラと引用Ⅰ)」

「歌詞とかその他とかの考察 (続・ベレー帽とカメラと引用Ⅱ)」


というのはどうか。

「~とか」「~とかなんとか」という投げやり感もFG的なので。


「歌詞とその他に関する省察 (続・ベレー帽とカメラと引用Ⅰ)」

「歌詞とその他に関する考察 (続・ベレー帽とカメラと引用Ⅱ)」

「歌詞とその他に関するメモ (続・ベレー帽とカメラと引用Ⅲ)」


少しスッキリした。省察とか考察はやや大げさなので、メモが良い気がしてきた。

英語で表紙に書いてみると、割とぴったりする。この英語タイトルの下に「続・ベレー帽とカメラと引用」とすると落ち着いた感じになった。

今度は2年で5冊ではなくて、せいぜい「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」くらいにしたい。


これではいつまで経っても総集編は出せない。作ったらコロコロコミックのような形になって、小包で発送する羽目になってしまうのでは……。


最終原稿を印刷会社に提出したので、印刷完了までに発送の準備をして、豆新聞を作ればよい。販売は12月の中旬ごろから。


「広告批評 (2003年7・8月号)」の佐藤雅彦研究室特集号を再読。

かれこれ18年も前の本だが、特集部分の発言や思考は少しも色あせていない。それに比べて、CMや広告に登場している人の人気や価値や立ち位置はかなり違っている。

「ルール」や「トーン」に関する定義など、ちょうど小沢健二の歌詞にも当てはまると思ったら、その直後に小沢健二の名前が出てきた。こういう偶然がある時は、人知を越えて冴えているというより、何となく以前に読んだことが記憶に残っていて連想するのだろうか。



1129

最初に考えた「Memorandum of the lyrics」の「of」は、「on」か「about」の方が良いのではという意見があり、そういわれてみると「of」は誤っている気がしてきた。

「Memorandum about the lyrics」にしてみる。

版型は小さく、内容はシンプルに、文字数は少なくすっきりと。


「ラストナイト・イン・ソーホー」を試写会で観て、「父親のいない世界」でのサバイバル劇だなと感じる。




そういえば殺人鬼と女子高生が入れ替わるコメディ寄りのホラー「ザ・スイッチ」も父親不在のサバイバル劇だった。



父親不在といっても色々なパターンがあり、そもそも死んでしまって不在の父親、生きていても存在感が無い父親、価値観の異なる父親、偉大すぎる父親、悪い父親や狂った父親、などなど。



1130

「犬は吠えるがキャラバンは進む」の内容紹介で、ある映画に「全編フューチャーされていた不朽の名盤」と書いてしまう人のミスは措くとして、この文言を通してしまう人、チェックできない組織があまりにも残念。「フィーチャリング何々」も「バック・トゥ・ザ・フューチャー」もこの人たちの頭の中では一緒なのだろうか。


版型は小さく、内容はシンプル、ページ数は少なく。要するにひと回り小さくすればよいだけだ。それだけのことなのに、やけに意気込んで、決心しないとできない(多分)。

今すぐにでもあれこれ書きたくなってくるので、とりあえずまたノートに目次を書いたり、メモを書いたりしないと頭が一杯になって、割れてしまう。


タイトルは「Notes on lyrics and more.」の方がスッキリしていていいかもしれない。日本語では「歌詞とその他に関する覚え書き」というつもり。


 *05号は12月10~20日ごろに販売予定です*

 *次の日記は2022年に更新します*

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