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N4書房日記 0711-0717

0711

昨晩は夜10時から「ヘッド博士」を同時に聴きながらコメントする催しがツイッター上で行われた。

もし実際に集まってみんなで聴くとしたら、途中でコメントを話し合ったりはしにくい。Zoomで知らない人の顔を数十人ほど見ながら聴いたり書いたり読んだりも、おそらくしにくい。つまり、ほどほどに分断されつつ一体化しており、参加も離脱も手間がかからない理想的な形になっている。

自分で感想を書いていて、このアルバムの「先」の見えなさ加減を久々に思い出した(「グルーヴ・チューブ」を飛ばして聴いたことも)。これから何がどうなるんだろう?というスリルとサスペンス。先を知っていてもそう感じるのだから、初めて聴いた時はなおさらだ。

しかし全体としては綺麗な盛り上がりや盛り下がり方をしており、そういう意味では古典的なバランスを持っている。「ナルニア国ものがたり」や初期のスピルバーグの映画のように、自然な導入部から徐々に上がり下がりがあって、やがてクライマックスへと至る。そして余韻……。つまりエロい。女の子たちはそれを敏感に感じ取ってキャーキャー騒ぐのだ。

 

「01.02号セット」と「03.04号セット」を同時購入してもらえると、売り手としてはもちろん嬉しい。しかし「これを一気にまとめて読むのか?」と心配にもなってくる。食べ盛りの子供を見守るお母さんのような目になって住所氏名を書き、発送作業をしている。

 


0712

昨日、急に牧村さんのツイートで六本木WAVEに関する言及があった。

 


私は地下から最上階までの記憶はないものの、映画「BU・SU」に出てきた場面はやけによく覚えている。あの映画は高校生の頃の自分の心情にぴったり過ぎて、今でも胸の奥の、そのまた奥を疼かせる。近々公開の「サマーフィルムにのって」の予告編を見ると、どこかわざとらしい、コピーライターが書いたようなフレーズを俳優が叫ぶのでうんざりする。「青春」などと臆面もなく大声で叫ぶ連中は巨大な箒で掃いて捨てたい。そういう「うんざり」という感情が「BU・SU」における富田靖子の表情にはよく表れている。

 

先日のリスニングパーティのまとめを作ったら、夕方には「編集部イチオシ」に入っていた。

 



0713

「グループサウンズ文化論」稲増龍夫

「語感力事典」山口謠司

「日本大衆文化論アンソロジー」柳田国男ほか

を借りてくる。

 


0714

01号に間違いのご指摘をいただき、訂正表を新しくする。どうもすみません。

P.25 誤 「TIBETAN DANCE」

   正 「The End of Asia」

 

「引用」や「パクリ」に関する話としては、このエピソードをきちんとここに入れておいてよかった。

この件はこのブログに詳しい。


「ブルータス」と「ポパイ」で、どちらも音楽特集。写真を見て初めて知ったのだが、イラストレーターの白根ゆたんぽ氏は女性だとばかり思っていた。山本直樹の「レッド」を2巻まで読む。

 

 

0715

コーネリアスの悪業が蒸し返されて炎上。ここまで盛大に叩かれるとは意外だった。しかしオファーする方もする方で、受ける方も受ける方だし、ネットやニュースサイトでは叩けるものなら何にでも群がる。昨夜の「あちこちオードリー」で光浦靖子が「めちゃイケ」の頃の扱いの酷さについて「加藤さんが私の髪の毛を引っ張って、私の目が白目になっている。それを記念テレカにするスタッフもおかしいし、加藤さんもおかしいし、私もおかしいし、注意しない事務所もおかしい。もう、おかしいんだよ、全部が!」と笑いに持って行っていたが、「全部がおかしい」構造を持つこの二件は比較する価値がある。

 

01-04号までの四冊(二冊セット×2)を一気に買う人が切れ目なく、毎日毎日続くと嬉しい。もし、これが百日ずっと続いたらもっと嬉しいだろう。そして感謝の気持ちと「これからもっと頑張ろう!」という精神的なエネルギーが蓄積される。

ところが、これが一日で百件の注文だとしたらどうか。レターパックの宛名書きが一日で200通になると、それはもう労働にすぎない。封入作業は単純肉体労働で、意識がクラクラしてきて、感謝や喜びどころではなくなる。本当は百倍嬉しい筈なのに、百倍の作業の山になり、きちんと終わらせる目的のために正確に管理すべき数字になってしまう。そして自分自身すら「売り上げ」「利益」に管理される側に回ってしまうような。薄利多売とはよく言ったもので、何かを売るなら薄く広く、しかもできるだけ長く時間をかけて丁寧に売るべきだ。

 

 

0716

昨日書いたこと↑と、反対のことを小沢健二がツイッターで発言していた。希望者が100人ではとてもこれは作れない、だから感謝するのだと。

 


対象になる人数の桁が変わっても、一人の作業量が変わってもブレない感謝であれば、それは本当に本物という気がするし、一人の作業量が多くなり過ぎたら、本来は人を雇うべきだろう。自分は人を雇う所までは行けないが、もう少し頭を使って、計画的に準備することならできるよなと思った。

 

「Forever Doctor Head's World Tower」が届いた!有難うございます。

 


大炎上して、どうなることかと思っていたコーネリアスの謝罪文が16日の夜に出たので、ここからは「叩く方もいかがなものか」という流れになりそう。それにしてもこれほどの規模での騒がれ方は、ちょうど自分が「カメラ・トーク」発売時に世間に求めていたレベルがこれと同等くらいなのだ。「英語に訳して世界に広めようぜ!」なんて声が出るくらいの反応が欲しかった。それがそうならなかったから、せめて大塚さんのZineにちょろっと文章を書いたのだった。

 

 

0717

「あの頃はアレが通ったそうだが当時のミュージシャンや雑誌業界はけしからん、音楽ジャーナリズムは昔から最低で無責任で云々」と非難している人達は、今からまた20-30年後のことは考えないのだろうか。「当時はツイッターでどれほど有名人を叩いても罵っても無罪だったが、今は到底許されることではない」と蒸し返されて断罪される覚悟はあるのだろうか。「今や過去の発言は本人及びマイナンバーと紐づけされており財産は没収」なんてことになったら、おそらく困るだろう。それが冗談ではなく、もうあと一歩か二歩でなりかねない世の中になっている。噴き上がりやすく、利用されやすい、声の大きい人たちが増えれば増えるほど、そういう世の中が近づいてくる。

 

「戦争中に反戦運動したら殺される」「生き残ったものの、戦後になって戦争賛美の罪を問われて死刑」となると、どのような態度を取ったとしても殺されてしまう。大げさな話でなく、いじめに加担するしないのどちらを選んでも責められるのだ。殺す側、責める側とはいったい何なのか。

 

今週は「ヘッド博士」記念日から波乱万丈の一週間だった。去年の「カメラ・トーク」30周年はこれほどの盛り上がりはなかったので、やはり運命的に「持ってる」感を認めざるを得ない。「カメラ・トーク」では永久に「ヘッド博士」に太刀打ちできないのか……。

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