練馬ナンバーの黒塗りのタクシーの運転手の正体とは? What is the true identity of a black taxi driver with a Nerima license plate?

 村上春樹さんの初期の短編集に『カンガルー日和』(刊・単行本=平凡社 文庫本=講談社/絵・佐々木マキ)があります。どの短編も春樹ワールドが楽しめますが、今回は「タクシーに乗った吸血鬼」を取り上げます。
 渋滞した道路上でタクシーの車内に閉じ込められる僕と運転手の会話で構成される短編です。私は単行本(1983年)で読み、後に文庫本(1986年)で読んでいます。単行本で読んだ時は大学生で、文庫本で読んだ時は会社員になっていました。大学生で読んだ時は「面白い」と思ったのに、会社員となって読んだ時は「薄ら怖い」と思ってしまいました。
 でも、どうして読後感が微妙に変わったのでしょうか。
 タクシーという存在が、学生のときよりも社会人の方が身近になったので(当時はバブルなので、仕事が終わると終電に乗り遅れるまで毎晩飲んで、タクシーで帰るなんてことは当たり前でした)、結果的に小説の設定が、よりリアルになったからかもしれません。しかし、それだけでは「怖さ」を感じるという説明にはなっていません。タクシーに乗ることは、私にとっては全然怖くないからです。
 たぶんタクシーの「運転手=吸血鬼」という設定が「怖さ」に繋がったのでしょう。学生時代には気づかなかった「怖さ」に、やっと気づいたともいえます。学生時代は「吸血鬼=春樹ワールドのユニークな登場人物」としか捉えられなかったのに、社会の中で時代を感じるようになると「吸血鬼=ユニークな存在」ではあるけれど、同時に、それは例えば「殺人者」にも「狂信者」にも「悪魔」にも交換可能だということを理解してしまったのです。
 僕はタクシーを降りたあと、女の子に電話をかけて「練馬ナンバーの黒塗りのタクシーには当分乗らない方がいいよ」「吸血鬼の運転手がいるから」と忠告します。女の子は「練馬ナンバーの黒塗りね?」と復唱します。
 社会人で読んだ時、私は「この女の子は『練馬ナンバーの黒塗りのタクシー』に(うっかり)乗ってしまうだろうな」と思いました。世の中って、そういう怖さがそこら中にあるから。気をつけていても、うっかりということはあるから。そういうことも含めて、私たちは「薄ら怖い」世の中に生きています。その「薄ら怖い」落とし穴は、1983年当時よりも確実に数多くなり、そのうえ広く、深くなっているように感じるのは、私だけでしょうか。

追伸

 不寛容や無理解が人々の分断を大きく広くするという「薄ら怖い」時代に、たとえば私たちが語り合う「note」には何ができるのだろう?

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