自分は何も変わらない。I don't change anything.

 夏目漱石の『坑夫』という小説が好きです。漱石の小説の中では、それほど有名でも名作でもありませんが、私の印象に残る面白い作品です(ときどき読み返します)。この小説は漱石作品には珍しい「人から聞いた話」を基にした小説です。今でいうルポルタージュのようなものかもしれません。
 『坑夫』の主な登場人物は「自分」「長蔵(ちょうぞう)」「安(やす)さん」の3人です。ストーリーは主人公の「自分」が過去を語るというスタイルで進みます。まず「自分」は女性問題を起こして、家を飛び出し、都会を離れます。どんどん離れていくうちに、ポン引きの「長蔵」につかまり、銅山で坑夫として働くことになります。「自分」は銅山で「安さん」という先輩の抗夫に出会います。この「安さん」は(坑夫らしくない?)教育もある上品な人ですが、女がらみで罪を犯して銅山に逃げてきました。すでに坑夫として6年も働いています。「自分」は「安さん」に、似たような境遇を感じて、ある意味、リスペクトします。漱石は「自分」と「安さん」を対比させながら、「安さん」の人生に対する諦観や哲学や悟りを浮き彫りにします。さてその後、「自分」はどうなるのか? もともと坊っちゃん育ちの「自分」なので、重労働で体を壊すことになります。坑夫から(軽労働の)帳付という仕事に就きますが、それでも半年も持ちません。結局、「自分」は、もともといた都会に帰っていきます。簡単にいうと、「自分」は小説の主人公なのに面白いくらい、変わらないのです。せっかく「安さん」という人物に出会っても、「自分」は(少なくとも小説で語られる時間の中で読む限り)何も変わらないのです。極論すれば、それがこの『坑夫』という小説のポイントかもしれません。
 私の個人的な推測としては、小説の外に流れる時間の中でなら「自分」が変わるかといえば、変わらないんじゃないかな、というところでしょうか。私は、変わることが良いとか、変わらないことが悪いとか、そういうことをいっているわけではありません。念のため。

追伸

 『坑夫』というタイトルは、「自分」がなれなかった(ならないでよかった)境遇であり、「安さん」が6年間も逃れられない地場かもしれません。私の願望としては「安さん」が諦観を超えて、暗い坑道を這い上がり、明るい社会に復帰して欲しいです。6年も重労働をしていれば、充分(懲役として)贖罪になると思うのですが。
 『坑夫』には過酷な銅山労働の描写もありますが、社会派というかプロレタリア文学的な意味は薄い、と私は思います。漱石は(問題意識というよりも好奇心から)知らない世界を淡々と書いていたのだろうと思います。

 私は過去の記事で元上司の「坂中さん」について書いています。私は『抗夫』を高校のころに読んでいて、坂中さんには中年になってから過酷な職場で出会います。「まるで『坑夫』の「安さん」みたいな人だな」というのが第一印象でした(もちろん坂中さんは罪など犯していませんが)。半年ぐらいで私は過酷な職場を辞めるのですが、坂中さんと出会っても何も変わらない私は、「まるで『坑夫』の「自分」みたいな人だな」と、今になって思います。他人事のように。


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