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ギウと僕

当記事には映画『パラサイト』のネタバレが含まれます。

ポン・ジュノ監督の名作映画『パラサイト』は僕が韓国映画にハマるきっかけとなった作品だ。

高級住宅に住む金持ちのパク一家と、半地下に住むキム一家の見事な対比が描かれていると思ったら、さらに下に住む夫妻が登場する。スパイ映画のようなスリルが描かれていると思ったら、とんだ社会派だったりする。
そんな、映画のジャンルをことごとくかわしてくるスタイルに翻弄されながら、見事なまでに設計され尽くした美術とカメラワークが生み出す完璧な構図に魅了された。
そこからポン・ジュノ作品は半年もしないうちに、長短編合わせて11本観た。大巨匠マーティン・スコセッシと並んで、僕が最も尊敬する映画監督だ。

ポン・ジュノ作品の魅力は、そのひとつひとつを持ち出すと、一冊の本では収まらないものになるので、今回は『パラサイト』に登場するギウとミニョクの関係について、そしてギウと僕自身について話していこうと思う。

1.ポン・ジュノが作り出すキャラクター

ポン・ジュノ作品には数多くの魅力的なキャラクターが登場する。
特に僕が好きなキャラクターは長編デビュー作『ほえる犬は噛まない』のペ・ドゥナが演じる無垢な女性、『母なる証明』のウォンビンが演じる何を考えているか分からない青年、『オクジャ』のアン・ソヒョン演じる少女、そして『パラサイト』でチェ・ウシク演じるパク家に最初に潜入する青年ギウである。

実際にいてもおかしくないようなリアリティは、人物のひとりひとりが各々の哲学を持っているような人物構築の深さに起因する。ポン・ジュノはオーディションには懐疑的であると『母なる証明』のインタビューで話していた。形式的な演技しか見られないからだそうだ。役者とキャラクターの妙なリンクもポン・ジュノ作品の魅力である。

2.ギウとミニョク

ギウはずっと、おそらく作品外でも、同い年のミニョクの影を追い続ける。
ギウがパク家で家庭教師として働くきっかけを与えたのは、それまでパク家で家庭教師をしていたミニョクだ。
ミニョクはギウに家庭教師の話を持ち掛けるためにギウのもとへやってくる。祖父からもらった山水景石を持って。
この水石は、多くの評論家が考察しているように多くのメタファーが込められた物語において重要なアイテムであろう。
ここでは、その水石をミニョクの化身として捉えることとする。正確には、ミニョクの化身だとギウが思い込んでいるものである。

水石の話はあとで論じるとして、まずギウがミニョクの影を追う部分を説明したい。

ミニョクが水石をギウの両親に渡すため、高級スクーターでギウ家に現れる少し前、キム家の人々は目線より高い位置にある窓の外を眺めていた。窓の外では、宵の口から酔っぱらっている男性が電信柱に小便をしようとしている。キム家の長女(ギウの妹)ギジョンは叫んで注意しろと言うが、ギウは躊躇する。そこにやってきたミニョクは躊躇なく男性を注意する。歯向かってきた男性に対し更に“정신 차려! 정신!(しっかりしろ!しっかり!)”と叫ぶ。その姿をギウは少しにやけながら見る。

ミニョクは自身の生徒であるパク家の長女ダヘのことが好きで、彼女が大学に入学するときに正式に付き合うとギウに話す。
"야, 난 진지해.(俺は真剣だよ)”とまじめな顔で言うミニョクに、ギウは若干圧倒される。

ギウは、これらのシーンのミニョクの姿が強烈に頭に残っているだろう。それは観客も同じである。

ポン・ジュノ監督は『パラサイト』は非常に韓国的な作品なので、ここまで海外にウケたのは自分でも驚きだとどこかで語っていた。(どこかは覚えていない)その言葉を鵜呑みにして、ミニョクの配役について考える。
ミニョクを演じたのはパク・ソジュンである。韓国ドラマ好きなら知らない人はいないであろうラブコメの帝王、若手トップの視聴率王である。最近では『梨泰院クラス』で主演を演じ、日本でも話題となった。
そんな人気俳優が、たった5分程度の登場であるミニョクを演じている。インパクトとしては十分だろう。
さらにパク・ソジュンは、ギウ役のチェ・ウシクと仲が良いことでも知られている。けしてウシクがソジュンの背中を追っていると言いたいわけではないが、ポン・ジュノ監督はそれを知っていて配役したのだろう。

ギウと同じように、観客の目にもミニョクは特別な存在として映る。彼を追う、ギウの心情と共鳴するかのように。
ギウは4度の受験に失敗しているが、ミニョクは優秀な大学生であり、留学までする資金もある。超学歴社会の韓国において「理想的な優等生」の象徴的な存在だと言える。

映画で語られるギウは常に「ミニョクのように」もしくは「ミニョクならどうするか」を考えながら行動している。
無事、パク家の母をだましダヘの家庭教師になったギウは(多少ダヘからのアプローチがあったものの)ダヘと恋愛関係になり、ミニョクと同じセリフを吐く。「大学に入ったら正式に付き合う」”난 진지해.(俺は真剣だよ)”と。
ギウは本気でダヘを愛していると思っているだろう。本気で自分が先陣を切ってパク家に潜り込んだのだとも。
キム家の4人が無事に全員パク家に潜入したことを祝し、半地下で肉を焼いていたところ、あの時と同じように窓の外を酔っ払いがふらついている。
ギウはあの時のミニョクと同じように“정신 차려! 정신!(しっかりしろ!しっかり!)”と叫ぶ。得意げな顔をして。
便宜上ここではこの順番で書いているが、実際にはミニョクが発した順に、ギウも発する。ミニョクの人生をなぞらえているつもりになる。

ミニョクの模倣をすることで、ギウは父から褒められていた。ギウは受験に何度も失敗しているものの、柔軟な頭脳を持ち合わせている。間違いなく父より頭が良いだろう。言葉をわるくすれば、表面上、自身が憧れる人間の模倣をするだけで、「賢い人間だ」と自身より頭の悪い人間をだますことができる。ギウにはその自覚はないだろう。
そのミニョクには、「ギウはダヘに手を出さないと信頼している」というようなことを言われる。言葉通り受け取れば、酒や女遊びをしている大学の友人より、好き勝手女性に手を出さないギウの誠実さを信じていると捉えられる。しかし、ダヘはギウを好きにならないと決めつけているようにも聞こえる。女遊びをする大学生は少なからず女性に好かれる何かを持ち合わせているから、ミニョクは彼らをダヘの家庭教師にしたくないのだ。
ミニョクはおそらく全く自覚なく、ギウのことを下に見ている。だからこそ、ギウはミニョクにあこがれるのだろう。

3.ギウと山水景石

パク家の高級住宅で宴に興じるキム家と映画全体の空気を一気に変えるインターフォンの音。その音を境に、キム家の運命は下降していく。
映画史に残るほど美しいロングショットで、残酷なまでに長く長く、ギウ、ギジョン、ギテク(ギウの父)は階段や坂を下り続ける。
長いシークエンスが終わり、ギジョンは父ギテクを責める。ギウは独り言のようにつぶやく。「ミニョクならどうしたかな」
ギジョンは「ミニョク兄さんにはこんなこと起こらない!」と叫ぶ。
2人を隔てる壁が目に見えてしまう瞬間であった。ギウはミニョクにはなれないことに気づいただろうか。

地上より下にある半地下の家は胸のあたりまで浸水している。ギテクは急いで必要なものだけ持ち、外に出ようとする。ギジョンはあきれたように隠していたタバコを吸う。(下水が逆流するトイレの上で)
ギウの目の前には、浮かぶはずのない水石がぷかぷかと浮かんでくる。
ギウはそれを手にし(このショットも大変に美しい)避難所でも抱きかかえて離さない。ギテクにそのことを指摘されると「石が僕にへばりついてくるんです」と言う。
追っていたことを自覚していなかったミニョクの影に、自覚してしまったとたん、追いつけないことをつきつけられる。追いつけないからこそ、へばりついてくる。追いつけないからこそ、意固地になる。「僕が責任をとります」と。

ギウが地下に住むグンセを殺そうとしたその凶器は水石である。ギウは逆に水石で頭を執拗に殴られてしまう。ギウは、殺人行為ですらも行うことができなかったのだ。ギウは、一歩踏み出せなかったのだ。
きっとギウは最後まで「ミニョクならどうしただろう」と考えていたかもしれない。発作的に笑いが出てしまう(おそらく頭を強く打ったことによる脳障害)ようになるまで、ギウはミニョクの影を追い続けたのだ。

4.ギウと僕

ここまで書くと、本当にギウが気の毒で泣きたくなってきた。

これから語ることはすべて、ポン・ジュノのキャラクター構築能力の高さあってこそである。

誰にでも憧れる人はいると思う。カッコよく言えば、ロールモデルだが、カッコ悪く言えば、模倣する相手である。
映画も同じで、過去の名作をリスペクトしオマージュする作品は多い。
ポン・ジュノ作品も例外ではない。『パラサイト』もキム・ギヨン監督の『下女』からの影響を受けていることは有名な話だ。くわえて、ポン・ジュノ監督がオスカーの授賞式スピーチで名前をあげた(僕の愛する)マーティン・スコセッシ監督からの影響はかなり大きい。ポン・ジュノが得意とするアクションをスローで撮影する方法はスコセッシも多用する。
ポン・ジュノは、影響を如実に感じるにもかかわらず、完全に自分のものにしているから恐ろしいのである。ポン・ジュノはけして、模倣しない。

そんな確固たる「自分の映画」を持つポン・ジュノが生んだギウはとても頼りなく、運のなさそうな雰囲気を醸し出す。(ウシクの演技も相まって)
僕はギウのそんな部分に自身をリンクさせた。僕にも憧れる人間がいる。それも複数。ギウの場合は分かりやすくミニョクだけだったのかもしれない。
僕の何倍も頭が良く、僕の専門分野にも長け、一歩踏み出す勇気もある。
僕にも小さい時からころころ変わる夢はあるが、全部きっと叶わない。ギウを見て誰もが、ギウはきっとあの家を買うことができないと思うのと同じように僕は僕に対してそう思う。
社会性という面で見れば、ピザ屋の店長にもダヘの母にも堂々と媚を売れるギウのほうが僕の何倍も上だ。そんな才能もミニョクの影に隠れ、ギウ自身に届いてなかったのかもしれない。ギウは自分に自信がないことも気づいていなかっただろうから。

僕には、模倣している自覚があった。小さいころからずっと何かを模倣し続けてきた。誰かの模倣をして優等生のふりをしたし、誰かの模倣をして大学を辞めた。大学を辞めるくらいの一歩は踏み出せる。ギウがパク家に一家で寄生する一歩が踏み出せたように。

『パラサイト』を観た後、僕は必ず「僕も石で頭を打って笑い続けてしまいたい」と思う。倫理観も配慮も欠如しているだろうが、そう思ってしまう。僕は長男で、僕より気の強い妹がいる。母と父の仲は良い。中流階級の家庭ということ以外はギウ、キム家と同じである。中流階級か半地下かというのが大きな隔たりだということはよくわかっている。
パク家よりはキム家に近い。あの二家族(ないし三家族)は別世界の人間ではない。その間には多くの家族が存在する。僕らはその中の一人なのだ。
僕はギウから何も学べない。ポン・ジュノは問題提起し、その解答は出さなかったからだ。僕がどうしたら良いのかなんて、監督は教えてくれない。ギウにも何も教えてくれなかった。

僕にとっての山水景石は、あこがれの人(達)から勧められた学術書であり、映画であり、思想である。
今日も僕はそれらに囚われながら、誰かの模倣をして、いつかポン・ジュノのように誰かのものを自分のものに変えてしまえるようになるまで、それができる人間ではないと自覚するまで、頭を打って笑いが止まらなくなるようになるまで、そして死ぬまで、生き続けるのだと思う。

そんな僕にとって、ギウは最低な映し鏡であり、友人である。


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