べいすいの日記②コンテンツの奴隷にならないために続

先日は、コンテンツ飽和時代とも呼ばれる現代において、コンテンツとの向き合い方を間違えると、とてつもない時間を奪われてしまうという問題について書いてみた。今日は、

世界にあふれたコンテンツに対し、具体的にどのように向き合えばよいのか

の話をしていこうと思う。

先日は、

コンテンツを「消費」するのではなく、「昇華」していくことが重要なのではないか

と書いた。

まずは、この話について深掘りしていきたい。
繰り返しになるが、私なりの「昇華」の定義は、「コンテンツに触れた際の自分の心の機微から、自分がどのような人間であるのかを改めて考える」ことだ。

分かりやすくするために、私自身の経験を例にしてみよう。私は、最近マンガをよく読んでいる。最近読んだ中でも最もハマったのが、『キングダム』だ。ご存知の方も多いと思うが、『キングダム』は本当に面白い。展開が予測できないし、キャラ一人一人が自分の掲げる信念のために戦っている様を見ていると、本当に心が動かされる。
『キングダム』を読んでいて気づいたのは、私が『キングダム』のように、キャラクターの思惑が交錯し、お互いの持っているものをぶつけ合う作品が好きということだ。悪の組織にも彼らなりの正義を持っていてほしい、と言い換えられるかもしれない。理由もなくただ悪いことをしている相手を、主人公がコテンパンにする勧善懲悪系の作品は、あまり好きではない。(何も考えたくないときにたまに見たくなることもあるが)
そこで私は、自分がなぜこのように感じているのだろうか、と考えた。そして、おそらく私は、あらゆることに理由をつけたい性分の人間で、人が取る行動には、すべて理由があると考えたいのだろう、という結論に至った。人生を振り返ってみると、私は幼い頃から(おそらく小学校高学年くらいから)ロジカルであることを重視しているように思う。勉強するにあたっては、ものごとの背景や理由を常に気にしていた。おかげで学校の成績は良かったが、友達の数は少なかった。人と会話するにしても、理屈ばかり語ってしまうのだ。高校時代には、ふざけ合える友人がいたが、それも昔の話。大学生になって以降は、ずっと友人作りに苦労してきた記憶がある。
私の学生時代の苦悩はさておき、私が『キングダム』を好きな理由は、私の性格や過去の経験に深く影響しているのではないか、というのがこの話の主題である。
このように、自分が好きな作品に対して、その作品のどこが好きで、なぜそこが好きなのかを掘り下げていく作業のことを私は「昇華」と呼んでいる。

作品を「昇華」していくのは、本当に楽しい。もちろん作品自体が魅力的であるから、楽しめるのは当然とも言えるが、何らかの作品を通して自分のことを顧みる作業が私は好きだ。「消費」していた頃は、作品を読み終えたときにある種の虚無感を常に感じていた。「昇華」したとしても、虚無感が全くなくなるわけではないが、作品が自分の体の一部になったような感覚を味わえるのだ。作品を読み終わったから終わり、ではなく、作品を読んだうえで自分の性質に気づいたから、もう一度読んでみよう、と思えるようになる。どこか自身がレベルアップしたようにも感じる。それに、昇華するためには作品をしっかりと読む必要があるため、作品の内容が頭から抜けにくくなるようにも思う。
ゆえに私は、作品を「昇華」することをすすめたい。

ただし、

常にコンテンツを「昇華」した方が良い、というわけでもない

と私は考えている。
昇華は自身の身になることだが、なにぶん疲れる。作品に触れた後に、自分の頭の中を整理し、それをアウトプットしなければいけないのだ。疲れるのも当然だろう。人間は常にスタミナMAXで生きているわけではない。ちょっと休みたいときに日常系のアニメをぼーっとみることも時には必要だ。念のため言っておくが、日常系アニメだからといって、昇華できないということはない。キャラクターの行動や心情に触れて、自分が何を感じたのかを振り返ることもできる。ただ、常にそういった見方をしていると疲れてしまうため、時には頭を使わず「消費」することも重要である、と私は言いたい。
一休みしたいとき、私は『だがしかし』や、『このすば』などを見て癒やされている。頭を空っぽにして作品に触れるのも面白い。

続いて、

昨日触れ忘れていたタイトルの「コンテンツの奴隷」という言葉について話したい。

おそらく私以外にも似たようなことを言っている人は数多くいるだろうが、私の言う「コンテンツの奴隷」とは、コンテンツを主とした人間とコンテンツとの主従関係のことを指す。コンテンツを「消費」している人間のことを「コンテンツの奴隷」だと言い換えていると言っても良い。クリエイターからすると、「コンテンツが主人だろ!」と思われるかもしれない。実際その通りでもあるのだが、「自分の人生の時間の使い方」という観点で議論する場合、主人は常に自分自身でなければならない。
一方で、コンテンツに対して批評する際には、あくまでコンテンツがメインだということを理解しておく必要がある。お客様は神様だと自分で言ってしまうような傲慢な人間にコンテンツを語る資格はないだろう。ただ、自分が何にどのように時間を使えば、自分の人生は充実していくのか、ということを考える際は、コンテンツを主人とみなしてはいけない、ということだ。
コンテンツの奴隷にならないためにも、作品を昇華することが求められている。

長くなりすぎたため今回は割愛するが、アニメやマンガに限らず、あらゆるコンテンツにおいて、コンテンツの奴隷となりうるのが現代だ。スマホゲームの期間限定イベントを義務のようにやっている人や、Youtubeの関連動画を漁っていたら一日が終わっている人も例外ではない。
自分の時間なのだからか、どのように時間を使おうが当然個人の勝手だ。ただ、その時間の使い方で、自分は本当に満足しているのか、かえって不幸になっていないか、というのは考えておく必要があると思う。ソシャゲを本気で楽しむのも一つの生き方であるし、誰もそれを責めることはできない。自身の生活を振り返ったときに、自分の時間の使い方は本当にこれでいいのか?と疑問に感じるのであれば、コンテンツとの向き合い方を考える必要があると思う。
そんな人に、私は「昇華」という向き合い方をおすすめしたいのである。

ここまで、コンテンツに対する私なりの向き合い方を書いてきた。
このnoteでは、今後私が読んだり視聴したりした作品についての「昇華」を行う場として活用していきたい。それ以外にも思ったことがあれば書いていくつもりだが、昇華の場が欲しいと思っていたため、そのように活用させてもらうつもりだ。

私の「昇華」を見て、いやいや自分はそうは思わない、と意見を持ってもらっても良いし、自分が何を好きなのか考えるきっかけにしてもらっても良い。コンテンツがあふれている時代だからこそ、一つ一つの作品にじっくりと向き合っていきたい。

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