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何処へ(上)

出典:nodasanta(作)「旅する少年は何処へ」

私たちが普通、何か良いことや嬉しいことがあって、「生きている甲斐がある」、「生きていてよかった」と思えることも、それは一時的なことで、私の感覚では、茶碗のように、ふとしたことで、壊れてしまうようなことが多いような気がします。

私たち人間の普段の生活と言うものは、普通に過ごすことができる時には気にもかけませんが、実際は、微妙なバランスの上に成り立っています。

細い紐の上を綱渡りしているようなもので、だれかが理解してくれているとか、愛され、大切にされていることがわかるとか、だれかを愛しているとか、未来に対して意志や希望を持っているとか、そういうものを支えにして、人生という綱の上をわったています。

そして、本当にふとしたことで、そのバランスがくずれてしまう時、私たちは、苦しみや悲しみを感じ、不幸のどん底に落ちてしまうように思えるのです。

そして、私自身の経験では、バランスうまくとって、さらに、「生きている喜び」、「生きがい」を感じる時よりも、綱から落ちかけたり、あるいは落ちてしまって、悲しみや悩みを抱えている時のほうが多いように思われます。

作家の林芙美子は、自分の人生を振り返って、「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」という有名な言葉を残しましたが、私も、人生は「苦しきことのみ多かりき」のように思えます。

人は自分が幸せな時にはそれに気付かず、病気や苦難に耐えている時に、やっと幸せに気付きます。

アメリカの詩人ホイットマンは「寒さに震えた者ほど太陽の暖かさを感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る」と詠っています。

思想家の内村鑑三は、幸不幸について「永生の希望なくして、最も幸福なる生涯もあわれむべき生涯なり。永生の希望ありて、最も不幸なる生涯もうらやむべき生涯なり。生涯の幸不幸はこの希望の有無によりて定まる」と説きました。

大切にすることは、簡単そうで、本当は難しいことですね。

スキマスイッチ「アカツキの詩」
https://www.youtube.com/watch?v=tHJGdnG6CpQ

また、ロシアの文豪トルストイは、

「人間は使命を果たすべく、生まれてきた。その使命に一瞬一瞬、全力を注いでいくべきである。それのみが、真の幸福である」、

「人生の唯一の疑いのない幸福は、他人のために生きることだ」、

「最上の幸福は、一年の終わりにおいて、年頭における自己よりも、良くなったと感じることだ」、

「学問のある人とは本を読んで多くのことを知っている人である。教養のある人とは知識やマナーを心得ている人である。そして有徳の人とは自分の人生の意義を理解している人である」、

「死への準備をするということは、良い人生を送るということである。良い人生ほど、死への恐怖は少なく、安らかな死を迎える。崇高なる行いをやり抜いた人には、もはや死は無いのである」、

「我々は、慣れた生活から放り出されると、もう駄目と思う。しかし、実際は、ようやく新しいものが始まるのである。生命のある間は、幸福がある」、

「慈善は、それが犠牲である場合のみ慈善である」、

「天才とは、強烈な忍耐者である」、

「神は人間に額に汗して働けと命じている」、

「成し難いが大切なのは、命を愛し苦難な時も愛し続けることだ。なぜなら命が全てだからである。命は神なり、命を愛すはすなわち神を愛すことである」、そして、また、「愛は惜しみなく与う」と教え、人間愛と道徳的自己完成を説きました。

シュバイツァーも、

「最大の幸福とは、生命を維持し、それを励まし、その価値を十二分に生かすことであり、最大の不幸とは、生命を破壊し、生命を傷つけ、また発展する可能性のある生命を押さえつけることである」と語り、また、

「我々各々が、その置かれた立場で仲間に真の慈愛を示す努力をする。そのことが人類の未来に必要なことです」。

さらに「本当に幸福になれる者は、人に奉仕する道を探し求め、それを見いだした者です」とも語りました。

マザー・テレサもまた「人生は愛すること。そして、愛されることの喜びそのものです。愛は「与えること」で、一番良く表現されうるのです。そして、この『与えること』が痛むまで『与えること』を学ぶのです。何故ならば、これこそが本当の愛の証だからです」、また、「愛は家庭から始まります。まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。両者が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。平和と潤いの家庭が築けたら、隣人を愛しなさい。自分が自分の家庭が、愛に満たされなければ隣人を愛せません」と語りました。

そして、本当の意味での「生きがい」というのは、悲しみや悩みがなくて、大体何もかもがうまくいっていることの中よりも、むしろ、問題を抱え、悩みや悲しみに翻弄され、時々「疲れたなぁ」と思わざるをえないようなことの中にこそあるのではないかと思っています。

しかし、それにしても、一見、平和で、安全で、豊かに見えるこの日本の社会の中で、「生きがい」というか、「生きている喜び」、「生きていて良かったなぁ」って思えることを探すこと、これが本当に難しいということは、不思議な気がしますね。

戦後、私たちの国は、敗戦のあの悲惨な貧困と悲しみを何とか克服し、豊かな生活を夢見て懸命にがんばってきました。

生活が豊になれば、「生きていてよかったなぁ」と思えることもたくさんあるような気がしていたのです。

そして、経済発展のためには、公害を初めとする多くの犠牲も生んできました。

みんなががまんをし、そして、少しゆとりが生まれてきた時に、しかしふと、気づいたら何もない。

何のために苦労したのか分からなくなっている。

なにかしら、諦めと空しさに包まれている。

今、この国に生きている私たちは、そんな気分に支配されています。

国や社会だけでなく、私たちの個人の人生もそうです。

若い時に、本当に苦労する。

今の若者たちも、いろいろ言われますが、本当は、受験や就職難や競争の中でとても苦労しています。

そして、苦労して苦労して、ようやくゆとりが生まれるころには、棺桶に片足を突っ込んで邪魔者あつかいにされる。

「私の人生は何だったんだ。」そんな悔しい思いをしなければならなくなってしまっています。

年をとって老いていくことには老いていくことの意味があると思いますが、それが見つからない。

もっと根本的には、生きることの意味そのものが見い出せない。

そこにあるのは、生きることに対する深い絶望です。

かって、デンマークの哲学者キルケゴールは、「絶望は死に至る病だ」と語りましたが、ちょっとしたことでイジメられ、だれからも理解されず、ひとりぽっちになって、絶望し、そして、本当に死に至っているのです。

なぜ、こんなことになってしまったのでしょう。

なぜ、私たちは、少し豊かになって、そしてかえって生きることの意味、生きがいを失ってしまったのでしょう。

私自身も、毎日の生活の中で、本当にいろいろなことが重なるから、考えさせられていますね。

なぜ、私たちは、生きていてよかったと思えるようなこと、生きる意味や生きがいを見い出だせなくなってしまったのでしょうか。

多かれ少なかれ、実は心の奥そこで、「つまらない」と感じているのことはないですか?

人は時に弱く、時に強く、そして全ての気持ちは儚いって、感じることはないですか?

Cocco「強く儚い者たち」
https://www.youtube.com/watch?v=CjNxOaANplU

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