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何処へ(中)

出典:nodasanta(作)「旅する少年は何処へ」

そのひとつの理由としては、現代という時代と社会の在り方の問題があるように思われます。

19世紀から20世紀、そして21世紀へと続いて行くのですが、私たちの世界は、全体的に、急速に利益社会の色合いを濃くしてきました。

つまり、すべてのことを自分にとって損か得かの利益だけを基準にして判断したり行動したりすることが極端になってきているのです。

しかもその利益も、いま目の前の明らかに見える利益だけを追い求めるようになったのです。

例えば、学校に行くのも、勉強するにしても、勉強したり、学問を追求したりすることの本来の意味からではなくて、例えば、この学校に行けばこういう資格がとれるとか、この勉強をすれば、これに役立つとか、教師も学生もそういうことを基準にして考え、判断しています。

親たちもそうです。

そうなると、英語や数学を何のために勉強するのかよく分からなくなってきます。

ある中学生がこう言いったそうです。

「先生、ぼくは一生日本の中で生きます。外国にいく可能性はありません。それなのに、なぜ、英語を勉強させられるのですか。先生、足し算と引き算、掛け算と割り算ぐらいできれば生きていけるでしょう。なぜ、xとかYとか、二次関数とかサイン、コサイン、とか勉強するのですか。しても役にたちません。」

皆さんだったら、何と答えますか?

自分の得にならないし、何のために勉強するのかわからないんだから、やる気も何も起きるわけがありません。

それでもさせられるのだから、ふてくされるかあきらめるしかないのです。

また、私たちは、自分にとって損だと思えることは、一切しようとしなくなりました。

人間関係も、非常に合理的に割り切って、得になる人とだけつきあおうとします。

物事の善し悪しも損得で考えています。

例えば、この私の話しにしても、皆さんに何か得になることを話せば、今日の話しは良かったとなるし、あまり役にたたない話しだと、つまらなかったと思うかもしれません。

利益というのは、プラス・マイナスの数字ではっきり表わされますから、私たちは、一生懸命自分の頭で考えて、何か一つでも本当の意味で自分のものにしていくことよりも、結果としての数字をたいへん気にします。

ですから、勉強でもそうですが、考えることよりも丸暗記が得意になります。

こうした例は、本当に数挙にいとまがありませんけれど、人生のパートナーを決める結婚でさえ、損か得かで考えてしまいます。

心をなくしていませんか?

人が、人である所以。

それは、心があるからではないでしょうか。

心があるかどうかが、機械と人の違いです。

見方によっては、人は高性能な機械であるように見ることも出来なくはありません。

しかし、機械と決定的に異なるのは、そこにある心です。

人工知能により、機械でも性格付けをすることは可能かもしれません。

しかし、愛を求めたり、綺麗な黄昏に心を奪われたりすることは、きっと、生きている心だけが出来ることです。

そして、そうあって欲しい気もします。

心を大切にしたいですね。

GARNET CROW「風とRAINBOW」
https://www.youtube.com/watch?v=PyBXdevlVas

何が本当に自分にとって益なのか、という深くて難しい問題は別にして、いま目に見える益だけを求めることに非常に熱心になり、何かができるようになるとか、お金持ちになるとか、何かに成功するとか、みんなから尊敬を集めるとか、そういうことだけで人生の価値を決めようするから、できないことがたくさんあるとか、貧しいとか、失敗するとか、いわゆる、一般的にマイナスの部分が増えてくると、もう、生きる意味がないと思うようになってしまったのではないでしょうか。

私は、個人的には、例えば、オリンピックで金メダルを取ることにも価値があると思いますが、昨日は一日、笑顔で過ごせたとか、今日は駄目だったけれど、風をきもちよく感じたとか、明日は、笑顔で過ごしたいなって思う気持ちとか、そういうことに大きな価値があることを見つけたいな、と思っていますし、無駄や無意味だと思えること、できないことがたくさんあることに、実は、絶大な計り知れない意味があることを知っておきたいな、って思っています。

でも、思うようにならない人生を送っている人に、「それは素晴しいことで、それはあなたが一つ一つゆっくり時間をかけていくということだから、すごいことだ」といっても、「何をバカなことを言ってるんだ!」と怒られてしまうことになりかねません。

「ぼちぼちでもいいんじゃない、損してもいいんじゃないかなぁ」と思うけど、みんなが利益を求めて走っているから、本当に難しいものがあります。

損か得かを考えて、損になることはしない。

今の時代の全体的な雰囲気は、そういう気分に満ちています。

ところが、人間が生きていくということは、まことに皮肉なもので、私たちの人生は、プラスの得な良いことよりもマイナスの部分で織り成されていきます。

人間関係がうまくいかない、必要なお金もない、病気になる、年をとって体が動かなくなる、そして死んでいく、そんなことの繰り返しで、そうでなくても、本当に深く深く生きようとすればするほど、例えば、愛したり信じたりしようとすればするほど、多くの試練を受けます。

私たちの人生は文字どうり四苦八苦の人生なんでしょうねぇ。

私たちは、四苦八苦の中を、歯を食いしばって生きています。

損ばかりして、何のために苦労しているのかわからなくなり、段々、疲れてきて、いやになり、あきらめ、絶望していくしかなくなるのです。

それが、今の時代の特徴なのかなって、思います。

もう一つ、これは、近年、アメリカの社会学者たちが言っていることですけれど、今の時代は、すべてのことが一時的なものとなり、永遠とか変わらないものが失われて、あらゆることがその時だけのこととして、考えられるようになった、と言うのだそうです。

20世紀は、人類が今だかって経験したことがないほど変化の激しい時代で、あらゆることが急速に変わっていました。

社会全体、国も、会社や家庭までも変化し、人間関係までもその場だけのものになりました。

家族や子供のためにと苦労し、やがて成長した子供から「くそババァ、くそじじぃ」と言われ、「亭主、元気で留守がいい」とか「粗大ゴミ」と言われる。

確かで頼りにしていたものが、次の瞬間には変わっている。

社会の構造そのものがその時だけの一時的なものとなってしまったことで、その中で、人も、その時、その場だけをしのいでいく。

そのような風潮が、どうしても支配的になっていかざるを得ない状況にあるんでしょうねぇ。

そして、このような一時的な社会の中では、「まぁ、適当にしておけばいい」という具合に、人は物事に深く関わろうとしなくなるのではないかと思います。

表面だけが取り繕われていきます。

生きていくうちに、人は誰だって辛いことに遭遇します。

壁にぶつかったり、恋愛で悩んだり、人間関係でつまずいたり・・・・・・

この悩みさえなければ、私はどれだけ幸せかわからないのに、どうしてこんな悩みに捕まっちゃったんだろう。

そんな考えが頭をよぎり、生きることすらもう辛いと思うことも、人によってはあるのではないでしょうか。

でも、このような悩みであえも、ちょっとしたきっかけさえあれば、さらりと答えがみつかることもあります。

理想を求めすぎるから、ちょっとだけ不幸な今が辛いのだと。

理想やハードルは、自分が楽に越えられるくらい、低くしておくべきことも大事なんでしょうね。

また、そもそも思い通りになんていかないものだ、とばっさりと切り捨て、生きるモットーを探せ、って感じでもいいんじゃないでしょうか?

順風満帆全てが思い通りで、悩みなんてひとつもない。

そんなことを望むほうが、そもそも無理なんだと、みんな抱えてそれでも生きてるんだと、そう言われれば、なんだか楽になれるような気がしませんか?

それに、そうやって色々悩んでる人間のほうが、優しくなれるし味も出ます。

だから、そんな思い通りにならない今を、愛してあげたいですよ、ね!

だって、そうやって迷うことも、また、信じることも、それ自体が答えなんだと感じるようになります。

ありのままの自分を、流れ続ける時間を、そして、全ての物に限りあるこの世界を、私たちはどれだけ愛することが出来るでしょうか?

できれば・・・・・・

たくさんのものを愛せるようになりたいですね。

Kaoru Amane「タイヨウのうた」
https://www.youtube.com/watch?v=lFVjJU-VdCs

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何処へ(上)
https://note.com/bax36410/n/nb43b98a7a3ba

何処へ(下)
https://note.com/bax36410/n/n0df7d607d184

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