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【政治哲学で今後の生き方を学ぶ】クリスチャンリアリズム

クリスチャン・リアリズム(現実主義)とは、社会に対する責任を果たすためには、暴力を用いざるを得ないときがあるという考え方である。

悪を放置しておくことは、無責任な態度であり、人権をできるだけ尊重しながら、ピンポイント攻撃などの最低限の破壊を行い、無法者の悪を止めなければならないという。

【参考図書①】
「イエスの政治―聖書的リアリズムと現代社会倫理」ジョン・H. ヨーダー(著)佐伯晴郎(訳)矢口洋生(訳)

「神秘主義 改訳」(文庫クセジュ)アンリ・セルーヤ(著)深谷哲(訳)

【参考資料①】

この考えに基づく正戦論は、キリスト教の主流派の立場であり、現代世界において、戦争を制御する役を果たしうる唯一の理念であるかのように振る舞っている。

しかし、扇動に利用されることが多いという矛盾があることも事実である。

戦闘国の目には、自分が正しいように見えてしまうことが、落とし穴の一つであると考えられる。

【参考資料②】

マクデブルクの戦い

【参考図書②】
「キリスト教と戦争」(中公新書)石川明人(著)

「宗教と過激思想 現代の信仰と社会に何が起きているか」(中公新書)藤原聖子(著)

「正しい戦争と不正な戦争」マイケル ウォルツァー(著)萩原能久(監訳)

「正しい戦争はあるのか? 戦争倫理学入門」眞嶋俊造(著)

「軍事研究を哲学する」出口康夫/大庭弘継(編)

「地政学 ―地理と戦略―」コリン・S・グレイ/ジェフリー・スローン(著)杉原修(編)奥山真司(訳)

本書の中で、町田宗鳳さんは、

「人類は「宗教」に勝てるか 一神教文明の終焉」)(NHKブックス)町田宗鳳(著)

「結論をいうなら、私は他ならぬ「宗教」こそが、人類最大の敵だと考えている。

宗教は人間を救うものなのに、なんという暴論を吐くのか、という反論がっきっとあると思うが、そのような反論をしようという人の宗教への思い込みこそが、おおいに問題なのである。」

と言わしめたのは一体なんなのか。

この国は、一神教徒が支配していないにも関わらず、「列強」の一角を占めているという、実に、希有な国である。

「神」を持ち出さなくとも政治を進められる、G7(フランス、米国、 英国 、ドイツ、日本、イタリア、カナダ)の唯一のメンバーでもある。

それだけに、むしろ一神教の怖さというのを、この国の人々は、他人事としてしか知らないのかもしれない。

では、一神教の根源的な問題とは、一体なんなのだろうか。

どうあがいても、悪が「対生成」されてしまうことではないのだろうか。

自分たち=「We」を「善」とすると、自動的に、あいつら=「They」が「悪」となってしまうのである。

そして、自分たちが、善を証明しつづけるために、常に、悪を必要とする。

人は、善か悪かなんて決めつけるのは、無茶であるにも関わらず、なければ作ってしまうことすら厭わない。

はっきり言って、きりがない。

しかし、かつては、一神教というのは、中東の一新興宗教に過ぎなかった。

なぜ、これが世界中に浸透、いや蔓延したのか、未だに、私は、納得行く答えを得ていない。

「ローマ人の物語」で、残念だったのは、その答えが書いていなかったことだ。

「ローマ人の物語 全17冊セット (全15巻+「ローマ亡き後の地中海世界」上・下巻2冊)」塩野七生(著)

ただし、ヒントなら書いてある。

ローマが、ユダヤを「公平に」あつかったことだ。

支配も弾圧もしたけど、それは、他の植民地においても変わらない。

ローマ人にとって、ユダヤ人というのは、数ある叛徒のうちの一つに過ぎず、反乱を弾圧したけれども、民族浄化のたぐいは行わなかった。

カルタゴと、違って。

もし、ローマがカルタゴに対して行ったことを、ユダヤの地で行っていたら一体どうなっていたのだろうか。

歴史の「if」として、それを考察するのは、あまりに冒涜的なことなのだろうか。

もし、モーゼを「取り逃がして」いなければ、世界はどうなったのだろうか、と。

しかし、過去は過去である。

それから、2,000年が経過した現代。

一神教は、少なくとも世界の半分を支配している。

そのままで、我々に、次の2,000年はあるのだろうか。

極めて難しいというのが、著者の結論であるが、まずは、一神教が何なのか。

それが、なぜまずいのか、現代世界に「宗教」は必要なのかを、以下の図書をテキストにしながら、きちんと知っておくべきであると思う。

【参考図書③】
「神と科学は共存できるか?」スティーヴン・ジェイ・グールド(著)新妻昭夫(訳)

「神は妄想である―宗教との決別」リチャード・ドーキンス(著)垂水雄二(訳)

「解明される宗教 進化論的アプローチ」ダニエル・C・デネット(著)阿部文彦(訳)

「心の社会」マーヴィン・ミンスキー(著)安西祐一郎(訳)

【参考記事】

「なんとなくやばそう」では、自分が一神教から距離を取るのには充分でも、グルーバル社会で生きるのには不十分である。

しかし、それ以上に大事なのは、唯一神を持たずとも、うまく生きていくことが出来るのだという実例を示し続けることなのだと推察される。

もしかしたら、この国の一番の存在意義は、そこにあるのではないだろうか。

「次世代の宗教は、実感のともなわない救いや、心理的な負担になるような罪を説くのではなく、刻々と終焉に近づきつつある人類に「今」という時をいかに生き、そしていかに死をむかえるか、なんのてらいもなく、ストレートに語る宗教であってほしい。」

私としては、それを「宗教」と呼ぶのははばかられるけど、我々が必要としているのは、そういう「教え」だということには同意する。

このクリスチャン・リアリズムは、他山の石であり、以下の問に対して、

■悪を目の前にしたときのクリスチャンの責任とは何か?

■イエス・キリストがいわれるように「敵を愛する」ということが可能なのか?

一方で、イエス・キリストの教えを理想として仰ぎながら。

それは、現実に実行不可能として。

もう一方に、常識を置き。

現実的な妥協点を探る哲学の、その妥当性についての見解を、私達は持って世界と対するべきだと考えられる。

なぜならば、これが、キリスト教国では、一般的な考え方であるから、それを理解した上で、人類的な合意に持っていくためには、何が必要なのだろうか。

社会を、いかに正しい方へ導くかという国家の中心に立つ国教的キリスト教の発想に対する有効的な対話のアプローチを、個々に考え続ける必要があると思う。

今日でも、これが主流の考え方であるのだから、彼らが求めることは、キリスト者も、非キリスト者も、合意できる正義であるのだから。

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【政治哲学とは?】
政治哲学とは、自由、平等、正義、権利、権力、権威、暴力、戦争、平和といった、政治に関係する諸概念について深く学び、今ある世界の問題点を理解し、今より望ましい世界のあるべき姿について考える学問です。

「べき」論に取り組むという点では、政治哲学には倫理学と重複する部分があります。

他方で、社会や政治の制度に焦点を当てるという点では、政治学と重複する部分もあります。

さらに、概念について考える際、思想史の成果を参照する点で、歴史学とも接点があります。

これら近隣諸学問領域とどの程度接近し、距離を取るかによって、政治哲学内部に様々な方法論やアプローチが生まれます。

【関連記事②】
【政治哲学で今後の生き方を学ぶ】功利主義
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