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【政治哲学で今後の生き方を学ぶ】リバタリアニズム


Kato /Slash ⚡️さん作:ざっくりとした思想分類

下記の【参考資料】に記載の図書、記事や資料を確認しながら、

【参考資料】

「新自由主義 その歴史的展開と現在 単行本」デヴィッド ハーヴェイ(著)渡辺治/森田成也/木下ちがや/大屋定晴/中村好孝(訳)

「リベラリズムの系譜学」中村隆文(著)

「アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界」ロバート ノージック(著)嶋津格(訳)

「自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系」マリー ロスバード(著)森村進/鳥沢円/森村たまき(訳)

「リバタリアニズム読本」森村進(編)

「リバタリアニズム-アメリカを揺るがす自由至上主義」(中公新書)渡辺靖(著)

「不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ」(ハヤカワ文庫NF)ウォルター ブロック(著)橘玲(訳)

知識人は、希望を語れるのか?

世代間闘争の末に見えた地平は何か?

いまの日本は、近代なのか、それとも、ポストモダンなのか?について、読者を選ぶ対談集である本書を使用して、

「リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか」(講談社現代新書)大塚英志/東浩紀(著)

リバタリアニズムについて、簡単に考えてみたいと思う。

副題にある「おたく/オタク」という表記、これはある意味で試金石になっていて、この書き分けにピンとこない人は、本書の想定読者からはたぶん外れるだろう。

「おたく」は、大塚さんがこだわっている表記で、彼の論では、「おたく」と「オタク」は、厳密に使い分けられる。

それがどんな議論かには踏み込まないが、ようするに、「おたく」は、大塚さんを、「オタク」は、東さんを表象しており、この副題は、「大塚英志/東浩紀」と読み替えることが可能だ。

その程度の解読を(当人が意識するか否かに依らず)やってのける素地を持った読者。

つまり、大塚さんや東さん、および彼ら界隈の人たち(対談中に頻繁に名前のあがる宮台さんやその影響下にある若手など)が織りなすサークルに「萌える」人々が、たぶん、本書の想定ターゲットということになるだろう。

まあ、狭い。

とはいえ、本書は、発売当時、すぐに1万部の増刷が決まったそうで、それくらいの市場は抱えている現在の商業出版にとっては、十分に広い「狭さ」であるわけだ。

さて。

大塚さんは、おんなじことしかいわない。

量産される彼の本に、なかなか忍耐強くつきあってきた方も多いのではないかと思うし、「物語消滅論」が語り下ろしで出たときなど、

「物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」(角川oneテーマ21)大塚英志(著)

さる文芸評論家が、

「使い回しばっかじゃん、いい加減にしろよ」

と呆れたのに対し、

「や、それでもけっこう見るところがあるよ」

とプライベートな会話で弁護したほどなのだが、その後、

「更新期の文学」を読んだとき、

「更新期の文学」大塚英志(著)

「使い回しばっかじゃん、いい加減にしろよ」

と呆れられて、以来、大塚さんの本を読んでいない方も、いるとかいないとか。

東さんも、おんなじことしかいわない。

おまけに、東さんは、基本的に人の話を聞かない。

「アラザル」というミニコミのインタビューで批評家の佐々木敦さんが、東さんの対談における発言は、

「対談してるはずなのに相手の発言を取っ払っちゃうとモノローグになっちゃう」

と評していた。

おんなじことしかいわないふたりが対談するのであるから、当然、噛み合わない。

東さんがメイン格の対談なら、相手が適当に合いの手を入れたりするおかげでなんとなく会話のように見えたりもするのだけれど、本書の場合、年齢的にもキャリア的にも、東さんが大塚さんに敬意を払う(つまり大塚の話を聞く)という力関係にあって、そのため、対談が進むにつれて、齟齬と、対立がどんどん深まっていく。

東さんのモノローグに、大塚さんのモノローグが激しくツッコミを入れつづけるという、見方によっては、「白熱」などと形容されるかもしれないが、不毛といえば、これほど不毛な議論も、そうないだろうという、禅問答のようなやりとりが、延々と反復されるのである。

副題の「おたく/オタク」=「大塚/東」は、この齟齬と、対立までをも含みこんだものだったわけだ。

内容に移ろう。

本書には、断続的に、いくつかの媒体で持たれた4つの対談が収められている。

具体的には、それぞれ、2001年、2002年、2007年、2008年に行なわれたもので、終章、2008年分は、有名な秋葉原事件を受けての語り下ろしである。

7年間と、そこそこ長い期間にわたっているわりには、語られているテーマは、そう多くない。

宮台さんが、何をいって、それがどうで、といったサークル内輪話を除くと、中心となる議題は、ふたつほどしかない。

要約するなら、

「ポストモダン社会における表現のリアリティ」

「新しい公共性と言論人の責任」

というところだが、どちらも、情報技術環境の変化を議論の前提としている点で、本質的には同じ話題ともいえる。

前者については、

「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」(講談社現代新書)東浩紀(著)

「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」(講談社現代新書)東浩紀(著)

で、東さんが論じた、データベース化した世界観と、そのシミュラークルにすぎない作品に「動物化」した享受者(消費者=オタク)が、条件反射のように「萌える」という話の再説と、その延長線という感じ。

それに大塚さんが疑義を呈し、ポストモダンの「動物」なんて絵物語なのだから、かつて、自然主義文学が仮構した「私」を更新し、近代をあらためてやりなおす新しい「私」をつくるのがいまどきの文学の使命だ、といった、大塚さんの読者には、耳にタコの持論をぶつけている。

後者については、ネットをはじめとするテクノロジーが構築しつつある新しい環境が、「政治」をどのように変えるかといったところか。

人文系で、以前流行りの「自由論」の一種といっていいだろう。

論壇誌によって囲い込まれる「論壇」の言説、「政治」を語る言葉が機能不全におちいっているという点では、両者は見解を一にしており、「公」というものに対する視点を新たにしなければいけないという点でも、たぶん一致している。

しかし、そこで、言論人としての自分が、どのような態度を取るべきかについて、意見が割れていて、この齟齬をめぐるやりとりが、新書としては厚めの対談集の、大半とまではいわないが、3分の1くらいを占めているのである。

社会を統治するシステム(端的には「国家」)のグランド・デザインという「公」に、「個」の領域から積極的に働きかける言論を、知識人は、繰り出すべきであり、大衆も、その回路に参画できるように、「啓蒙」に努めるべきである、というのが大塚さんの主張だ。

対して東さんは、Googleのような民間企業の提供するインフラによって、政府とは、別個の公共性が支配的になりつつある現在、大文字の「政治」にコミットすることに、積極的な意味は見つけにくい、「動物化」した大衆(オタク)を「啓蒙」するなんて無理だし、無意味なのであって、むしろ、オタクたちが、そういう環境のなかで「ぬるぬるハッピーに」生きていける状況をキープするのが、知識人としての、自分の役割ではないかと主張する。

東さんは、オタクたちの「ぬるさ」を、「戦後日本の価値観のある種の完成型」と形容するのだが、これを、「戦後民主主義」と読み替えた(聞き違えた?)大塚さんが、烈火のごとく噛みつく。

ここから、禅問答が本格化していく。

「大塚 (……)君が、戦後民主主義的なものの帰結みたいなもの、おたくたちの遊び場みたいなところで実現しようとしている人間像が戦後民主主義的な何がしかだとしたら、そのイメージっていうものがぼくにはまず理解できないし」

そういったあと、戦後民主主義と「公」みたいな話が、ひとしきり続き、言論が、「公」に働きかける可能性を諦めて、傍観者風を吹かせている東さんは、じゃあなんで批評家なんて商売をいまだにやっているのだ、言論人の「責任」や如何に、といった糾弾にすり替わっていく。

しかし、東さんは、追求をはぐらかし、相対化するようなことばかり述べ、「ポストモダンとはそういうことだが」、それが、また、大塚の火に油を注ぎ……以下ループ。

結局のところ、「公共性」を、どの範囲まで認めるかが、大塚さんと東さんで著しくズレており、それが、すれ違いの根っこになっているといえるだろう。

東さんは、もう、国家は、コンビニでいいんじゃね?とまでいう。

つまり、東さんは、政治的にも、市場的にも、自由を至上とするリバタリアンなのである。

大塚さんは、「個」と「公」の結びつきを重んじる、(リベラル寄りの)コミュニタリアンとなるか。

そうまとめると、ふたりのこの対立は、比較的古典的な問題である。「リベラル・コミュニタリアン論争」の縮小再生産、ってなところに落ちてしまうのだが、東さんは、リバタリアニズムの欠点は、工学的環境が補いうると考えているようだ。

東さんは、「富の再分配」についてさえ、「もっと洗練されたシステム」をつくって、上手く回せばいいという。

しかし、その具体的なヴィジョンはベーシックインカムくらいしか示されないのだけども。

一方で、派遣問題や格差問題など、日本の流動化は、基本的にはグローバル経済の要請に基づくものだから政治的に働きかけるのは的外れに見えるとうっちゃり、加藤智大が秋葉原の事件を起こしたのは、経済的問題より、もむしろ心理的問題ですと断言して、サブカルチャーが、実存的に「人を救う」意味を考えていきたいと結論するのである。

そおかなあ?

加藤智大が、トヨタのハケンで荒んでいたっていう経済的問題はでかいだろう、どう考えても、と思うわけだが、経済的問題と心理的問題は、切り離して考えるべきで、自分が問題にしたいのは、後者だと、東さんは繰り返しいっているので、このあたりの大雑把さには、目をつむるのが、望まれる読者像なのだろうし、大塚さんも、最後、次のような結論を述べる。

「たぶんもっと奥深い、彼(加藤智大のこと──引用者註)の実存の不安があって、その不安の何パーセントかは派遣労働者による不安定さっていう社会システムがもたらしたものかもしれない。

それから、何パーセントは若者の性欲の問題だったのかもしれない。

でも残った部分に関して、なにが引き受けてきたのかと考えれば、少なくとも近代からこっち側に限ったって、近代小説や近代文学や、さまざまな思想みたいなものがずっと担ってきているわけだから。

そこを復興するしかない」

何となく歩み寄ったように見えなくもないが、これも、大塚さんが繰り返してきた主張の反復にすぎず、ふたりの意見は、結局、最後まで、すり合わされない。

さて、巻末に進むと、東さんひとりが、なぜか二度「あとがき」を書いている。

印刷二日前に大塚さんが突如、自身の「あとがき」を引っ込め、本文の一部と、註全部を独断で削除したのだそうだ。

東さんふたつめの「あとがき」は、あまりに急な申し出で確認する時間がなかったことへのエクスキューズである。

このチャブ台返しに、素朴に「萌える」読者は、「ガチだぜ!」と快哉を叫ぶかもしれないが・・・

大塚さんのやり口をさんざん見てきた方にとっては、たぶん、手の込みすぎた論壇プロレスのアングルめいていて。

東さんも、大塚さんに、いいように転がされているなあと、鼻のあたりに白々としたものを感じるばかりなのであったのだが、次の文章に繋げようもないので、これ以降は、強引に話を展開してみると・・・

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今日の政治体制は、近代政治哲学が構想したものである。

【参考図書③】
「近代政治哲学 自然・主権・行政」(ちくま新書)國分功一郎(著)

「はじめての政治哲学」(岩波現代文庫 学術)デイヴィッド・ミラー(著)山岡 龍一/森達也(訳)

「よくわかる政治思想」(やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ)野口雅弘/山本圭/髙山裕二(編)

ならば、その基本概念を再確認すれば、いま私達の体制が抱える欠点についても把握できるはず。

グローバル化のなかの共生倫理を考える指標として、以下の政治哲学に関して、

■功利主義

■プラグマティズム

■リベラリズム

■リバタリアニズム

■コミュニタリアニズム

その当時に発刊されていた新書をテキストにして、今回は、「リバタリアニズム」について省みたい。


【テキスト①】「自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門」(講談社現代新書)森村進(著)

[ 内容 ]

裁判は民営化できる、国債は廃止、課税は最小限に、婚姻制度に法は不要-国家の存在意義を問い直し、真に自由な社会を構想する。

[ 目次 ]

第1章 リバタリアニズムとは何か?
第2章 リバタリアンな権利
第3章 権利の救済と裁判
第4章 政府と社会と経済
第5章 家族と親子
第6章 財政政策、あるいはその不存在
第7章 自生的秩序と計画
第8章 批判と疑問

[ 問題提起 ]

本書の目的は、「リバタリアニズムの全体像」(3頁)を示すことである。

それではそもそも、リバタリアニズム (libertarianism) とは何であろうか。

それは、「諸個人の経済的自由と財産権も、精神的・政治的自由も、ともに最大限尊重する思想」(14頁)である。

リベラリズムは、「「個人的自由」の尊重を説く一方、経済的活動の自由を重視せず経済活動への介入や規制や財の再配分を擁護する」(15頁)点で、保守派は、「個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重する」(同上)点で、そして権威主義は「どちらも尊重しない」(同上)点で、いずれもリバタリアニズムとは異なる。

しかしリバタリアニズムのなかでもさまざまな立場がありうる。

これを著者は二つの観点から分類している。(21-22頁)

A. 「いかなる国家(政府)までを正当とみなすか。」

(1) アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)

(2) 最小国家論(国家の役割は国防・裁判・治安)

(3) 古典的自由主義(上の三つに加え、ある程度の福祉・サービス活動)

B. 「諸個人の自由の尊重を正当化する根拠は何か。」

I. 「自然権論」(自己所有権に訴える。)

II. 「帰結主義」(自由を尊重した方が結果としてよい。)

III. 「契約論」(理性的な人だったらリバタリアンな原理に合意するはずだ。)

[ 結論 ]

さて、以上の分類においてI (3) というリバタリアニズムの立場をとる著者にとって、「自由の最大限の尊重」とは、とりもなおさず自然権、さらにはそれをささえる「自己所有権」の内実にかかっている。

これはなによりも「自己の身体とその自由」(34頁)への権利(身体所有権)を、さらに「自己の労働の産物あるいはその代価として考えられた財産への権利」(同上)(財産権)を含んでいる。

そして著者によれば、これが基本権(人権)の内実を構成するのであり、「他者(政府を含む)に対して積極的な行為を要求する請求権」(生存権、社会権、人格権)は、「他人の自由を制約する」(42頁)以上、ここには含まれない。

ただし最低限の生存権は、「道徳的直観に訴えかける」(45頁)かぎり、基本権に含まれるとしている。

このような自己所有権を積極的に認めることにより、著者は、臓器売買、自己奴隷化、代理母など、一見すると嫌悪感を覚える行為も禁止してはならないと考える。

たしかに禁止できる場合もあると著者は訴えるが、それは「契約時の当事者と、将来の当事者」とが「重要な意味において別人と言える」(55頁)ときである。

というのも、「その将来の人物は、[例えば]奴隷契約を結んでしまったことを後悔して、重大な点で価値観が変わってしまっている可能性が強いからであ」り、その結果として「奴隷契約は、現在の契約者とは別人になってしまった将来の当人の基本的な自由を侵害する」(62頁)からである。

このように人間の自由を、自己所有権から説明するとき、国家(政府)の役割とはどのようなものになるだろうか。

リバタリアニズムには、「国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素」(131頁)が見られる。

これは自己所有権という考え方からうかがえるように、「自分にとってどのような生き方が望ましいかを決めるのは本人であって、公的な判断の対象ではない」(113頁)からである。

だからリバタリアンにとって国家の「「政策」とは、大部分の場合、諸個人の自由の確保以外のものではない」(20頁)。

この役割は、具体的には、国防、裁判、治安、ある程度の福祉サービスというかたちで実現される。

だが、国家の役割がこのようなものとなったとき(たとえば累進課税による富の再分配がなされなくなった結果として)、そこで人々を支配するのは弱肉強食の市場社会だけなのではないか。

しかしこれに対して著者は、二つの点で反論する。

第一に、リバタリアンは「市場の外のヴォランタリーな人間関係も重視する」(106頁)。

つまり「家族や職能集団や宗教団体や趣味のクラブなど多様な共同体が人々の生活にとってかけがえのない重要性をもち、人々が自分の属する共同体に一体化することがしばしばあると認める」(112頁)のである。

第二に、「人間の間で狭い自己利益を越えた連帯が可能になるのも、大部分は市場のおかげである。」(116-7頁)「自由市場における「競争」は、第三者に一層大きな利益を与えよう(そしてその見返りに自分も利益を得よう)とする人々の争いの場」(117頁)であり、競争の敗者は決して利益を奪われない、「プラス・サム・ゲーム」(118頁)なのである。

それでは以上述べてきたようなリバタリアンな社会はどのようにして到達可能であろうか。

ハイエクによればこれは、「人間から独立した「自然」に属する現象ではないが、人間の意図や計画によるという意味での「人為」でもなく、その両者の中間に位置する第三のカテゴリー」である「自生的秩序」(177頁)である。

だからわれわれのなし得ることは、この秩序の生成を阻害するような要素を取り除くということにすぎない。

しかし著者はこれに同意しない。

ハイエクはコモン・ローを、「慣習を成文化したものにすぎない」(181頁)、つまり自生的だとするが、実はこれははるかに人為的なものなのである。

だから人為的に作られた法(あるいは広く秩序)も、リバタリアンな社会を成立させるために重要な役割を果たしうるのである。

逆に自生的であっても、リバタリアニズムにとって有害な秩序はある。

「リバタリアンが求めるべきなのは、形成において自生的な秩序よりも、内容において自由な秩序である。」(189頁)そして最後に、リバタリアンな社会の意図的な形成に向けて、著者は次のような決意を述べている。

リバタリアニズムにとって将来は決して楽観できるものではない。

カナダのリバタリアン哲学者ジャン・ナーヴソンが「リバタリアニズムの理念」で言っているように、「リバタリアンの敵は、無気力と、国家への愛着と、掛け声の欠如である」。

リバタリアンは極端だと考えられることを恐れてはならない。

今日の大きな政府の政治文化の中では、リバタリアニズムあるいは古典的自由主義は、実際に極端な立場なのである。

リバタリアンは、プラグマティズムに屈して日々の政治の中で短期的で小さな改善(あるいはもっと普通には、改悪の阻止)を目標とするよりも、その理想を高く掲げ、社会全体の中で長期的で根本的な意識の変化をめざすべきである。(211頁)

[ コメント ]

リバタリアンは自由主義経済―市場原理を絶対視する。

つまり経済活動(資本の運動)は自然であるほうがよいとしているわけだが、こと資本の運動以外は自然発生的なものをよしとはしないのである。

それはESS的なもの、生物的なものの否定であり、個人の計画性を強調することで人間工学的なものとなる。

リバタリアニズムたぶんその考え方は、北田のいうように「ハードプロブレム」を()カッコにしまいこんだものでしかないのだろうが、社会は「東京から考える」が指摘しているように、人間工学的に進化している。

より個人が生活するのに快適な環境としてかたちづくられてきているだろう。

郊外化、マクドナルド化、ジャスコ化なんていうのもこの文脈で動いている。

つまりリバタリアニズムのOS化は、資本に軸足を置いた環境から、確実に進んでいるということだろう。

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