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【宿題帳(自習用)】視点を変える(その3)
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内田樹は、「剽窃と霊感の間」という文章をホームページで書いているが、オリジナルとのズレが大切なのである。
視点をずらすことが重要なのだ。
内田樹は、以下(「」内参照)の様に語っていた。
「間違った解釈だとわかっていて本なんか出すなとお怒りの方がいるかもしれない。
だが、それは短見というものである。
だって、「解釈が間違っている」ということ以外に、研究者には、オリジナリティを発揮する機会がないからである。
正解はどの問いについても一つしかない。
誰が読んでも、そこに到達するような解釈についてオリジナリティの存在する余地はない。
解釈者の固有性は、唯一「誰にも真似ができないような仕方で正解を逸する」ということのうちにしか棲息できないのである。
バカを言うな、自然科学ではそんなことはないとさらに怒る方がおられるかもしれない。
そんなことはない。
どのような精密科学といえども宇宙の森羅万象ことごとくを理論的に解明できているわけではないからである。
世界は、謎に満ちている。
宇宙の涯には何があるのか?
ビッグバンの前に時間はどのように流れていたのか?
誰も答えることができない。
だから、あらゆる科学的仮説は「世界についての不十分な解釈」であることを認めなければならない。
そして、科学者のオリジナリティは、まさに「彼に固有の不十分さ」を示すというかたちでしか発揮することができないのである。
私が「剽窃」plagiarismということの犯罪性を自明のものであるように語ることに対して、わりと懐疑的なのはそのためである。
私の書いている考想のほとんどは先賢からの剽窃である。
使っている日本語は私が作り上げたものではないし、私が頻用する修辞やロジックもすべて「ありもの」の使い回しである。
それでもなお私にむかって「ウチダは剽窃者だ」という批判がなされないのは、「先賢の考想を借用」しているつもりでいる私の借用の仕方が微妙に「他の人とは違う」からである。
私は聞いたとおりのことを繰り返しているつもりなのだが、必ずそれは他の聴き手とは違う聞こえ方で私に届いているのである。
この「他の聴き手とは違う聞こえ方」や「他の読み手とは違う読まれ方」を差配しているのは、私自身ではない。
私の中の「他者」である。
「剽窃者」とはこの「私の中の他者」が十分に他者でない人のことである(わかりにくいなあ)。
情報の伝達を汚す「私の中の他者」の未知度が高まると、それは「剽窃」ではなく「霊感」と呼ばれる。
私たちは模倣や反復を脱して真にオリジナルな知見や考想を語ることはできない。
これは原理的に不可能である。
私たちにできるのは、「私たちのうちなる他者」ができるだけ未知のものであることを願うことだけである。」
ロシア文学者の江川卓は、「謎とき〈罪と罰〉」で、視点を見事にひっくり返した。
「謎とき『罪と罰』」(新潮選書)江川卓(著)
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ロージン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、天才には、それができると言って金貸しの婆さんを殺したのであるのだが、この奇妙なイニシャルはロシア文字ではPPPとなる。
Pで始まる名前の実効的な比率は0.2%でしかなく、ぞろ目になるのは、600万分の一の確率しかない。
当初ドストエフスキーは、ロジオンでなく、ヴァシリー(B)、すなわちBPPとしていたが、ある時、BをPにして、これを逆さにすると、666という数字になると気づいた。
ヨハネ黙示録13章では、凶悪なネロ皇帝をヘブライ語で書くと「その数字は666」となるというのだが、これを主人公の名前に忍ばせたのだ。
つまり、「オーメン」なのだ。
『オーメン(Omen)』 予告編 Trailer 1976年
また、「ラス」+「スコーリニコフ」の「ラス」は、<分かれる>、「スコーリニコフ」は、<派>で「分離派」、つまり、当時の宗教的異端派だということが分かる。
逆に、彼には、殉教者たるキリスト自身も投影されている証拠が、テキストのそこかしこに見いだされるという。
さらに、当時のロシアのカルト的宗教の落とす影、「罪」の意味、「罰」の意味、なぜ、彼は「斧の峰」で殺したのか、ソーニャを愛していたのか、彼とソーニャに肉体関係はあったのか・・・・・・などが書かれた面白い本になっている。
「罪と罰〈1〉」(光文社古典新訳文庫)フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー(著)亀山郁夫(訳)
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「罪と罰〈2〉」(光文社古典新訳文庫)フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー(著)亀山郁夫(訳)
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「罪と罰〈3〉」(光文社古典新訳文庫)フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー(著)亀山郁夫(訳)
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更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。
第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。
また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。
この刻印とは、あの獣の名、あるいは、その名の数字である。
ここに知恵が必要である。
賢い人は、獣の数字に、どのような意味があるかを考えるがよい。
数字は、人間を指している。
そして、数字は666である。(「ヨハネの黙示録」13章14~18節)
「ヨハネの黙示録」(講談社学術文庫)小河陽(訳)
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視点を変えると芸術になる。
現代美術は、視点を変えただけのものが多い。
福田美蘭は、古典の視点を変えることで創造している。
ボッティチェリの「春」でも、別の角度から見たらどうなるか、という絵画が多い。
サンドロ・ボッティチェリ 「プリマヴェーラ(春)」
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「だからどうなの?」といってしまえばお仕舞いなのだが、それを楽しむのが文化なのである。
作曲家ジョン・ケージの「4分33秒」は、演奏されない音楽だ。
4'33" John Cage(Orchestra with Soloist, K2Orch, Live) / 4分33秒 ジョン・ケージ けつおけ!
演奏者は4分33秒の間、一音も発しないのに、全3楽章ある伝統的傑作。
「4分33秒」の第2番は、「0分00秒」という演奏すらしえない曲である。
でも、観客は、何も演奏されなくても、勝手に、自分の先入観から音楽を考えて奏でているし、演奏者も観客の音が聞こえる。
その場の人数や雰囲気で、同じ演奏のはずが、違うし、受け止め方も様々だ。
音楽通の人に対する嫌みでさえある。
ただ、こうした芸術は、やったもの勝ちで、みんなに模倣されると困る。
発想の勝利なのだ。
文学が有効であるのは、今まで省みられなかった視点から描いているからである。
こんなところにも真実があったのか、と読者に考えさせるから人を感動させるのである。
人生には、別解が必要なのだ。
土佐日記は、紀貫之が女性に仮託した仮名文で、旅のこと。
「土佐日記(全)」(角川ソフィア文庫)紀貫之(著)西山秀人(編)
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失った愛児のことなどを記したものだ。
アメリカの田舎の駅に、時計が二つあった。
いつも違った時刻を指しているので、ある老人が駅長を捕まえて、「この二つの時計、合っていたことがない。いつもバラバラになっている。みっともない。合わせておいたらいいだろう」といった。
すると駅長は、「同じ時刻だったら、二つある甲斐がありませんから・・・・・・」と答えた。
この話から言語学者のマーティン・ジョーズは、言葉にも同じことをいうのに、いくつもの言い方、スタイルがある。
ごくごく丁寧な言い方、改まった言い方、普通体、会話の調子、俗語的表現、全部で5つのスタイルがある。
というので、5つの時計(The Five Clocks. Indiana University Press, 1962)という本を書いた。
The Five Clocks (International Journal of American Linguistics,)by Martin Joos
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もちろん、冒頭に駅長のエピソードが引用されている。
そう言えば、鮎川哲也も推理小説「五つの時計」を書いていたのを思い出した。
「五つの時計―鮎川哲也短編傑作集〈1〉」(創元推理文庫)鮎川哲也(著)北村薫(編)
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桃太郎は、おとぎ話ではなく、侵略的な物語だという話を聞いたことがあるだろう。
これを更に、異質な物語に変えたのが、芥川龍之介である。
「桃太郎」(青空文庫)芥川龍之介(著)
鬼ケ島が「天然の楽土」として描かれる。
平和な島を侵略し、あらゆる罪悪を犯すのが桃太郎だ。
降伏した鬼との問答が興味深い。
「征伐の理由は?」に「犬猿雉の忠義者を召し抱えたからだ」と桃太郎。
「召し抱えたのはなぜ?」には、「征伐のためだ」と、大義のなさを痛烈に皮肉った。
その少し前、彼は、中国旅行をした。
そこで出会った知識人に「最も嫌悪する日本人は桃太郎だ」と言われ、虚をつかれたようだ。
その衝撃が桃太郎像の転倒につながった。
大正末期のことだった。
そう言えば、松岡圭祐が都内で改造ガスガンを使った殺人事件が発生した際、被害者ふたりのうちひとりの胸の上に芥川龍之介の『桃太郎』が小冊子風に綴じられて置かれていた見立て殺人ものの推理小説を書いていおり、面白かった。
「´ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論〈6〉見立て殺人は芥川」(角川文庫)松岡圭祐(著)
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太宰治の「走れ、メロス」が書かれた昭和15年(1940年)より、
「走れメロス」(ハルキ文庫)太宰治(著)
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20年前の大正9年に鈴木三重吉が同じ題材で「デイモンとピシアス」というのを書いている。
「日本児童文学名作集〈上〉」(岩波文庫)桑原三郎/千葉俊二(編)
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ピシアスがメロス、デイモンは人質となった友人セリヌンティウスであるが、三重吉版では、二人ともピタゴラス派の知識人であり、3日の起源は切られず、太宰版のようなメロスの迷いと諦めがない。
だから、メロスの「私を殴れ」や「私は、途中で一度、悪い夢を見た」、友人の「同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った」がない。
金子みすゞの詩「大漁」なども、視点を変えたものとして有名だ。
「金子みすゞ童謡全集」金子みすゞ(著)矢崎節夫(監修)
![](https://assets.st-note.com/img/1705747106294-DxqT7ZyN1Y.jpg)
ただ、弔いをするから人間なのだ、という視点に立てば、また、違った見方が生まれる。
「大漁」金子みすゞ
朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰯(おおばいわし)の
大漁だ
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらい
するだろう。
詩人、宗左近の「詩のささげもの」には、発表当時、作者は小学2年生という、たきぐちよしお君の「さかなは/目を あいたまま/しんで いる/きっと/たべられるのまで/見ようと/しているんだね」(「さかな」1968年)という詩がある。
「詩のささげもの」宗左近(著)
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宗は、読後の感想を、「恐れ入りました。・・・・・・深々と頭を垂れるよりほかはありません」と書き留めているが、これもみすゞと同じ視点だ。
ジョン・アップダイクの「ガートルードとクローディアス」も視点を変えた、美しい物語である。
「ガートルードとクローディアス」アップダイク,ジョン(著)河合祥一郎(訳)
![](https://assets.st-note.com/img/1705747135002-ELornwsURT.jpg)
ヒロインのゲルータは、16歳の頃、父の薦めで粗野な大男と結婚し、一人息子をもうけるが、武骨な夫は、女心を解せず、満たされぬ結婚生活を送っている。
31歳を迎えた時に、外国暮らしが長くて、話題が豊富で「ぞくぞくするほど奔放な話し方」をする男、クローディアスが現れる。
仕事で不在の夫の空白を埋めるかのように、彼とのつきあいが始まっていく。
相手は、夫の弟で「トリスタンとイゾルデ」の物語と同じ構図の禁断の愛だ。
「ワーグナー トリスタンとイゾルデ」(オペラ対訳ライブラリー)ワーグナー(著)高辻知義(訳)
![](https://assets.st-note.com/img/1705747148403-FyunORuG34.jpg)
やがて夫に知られることになって、悲劇的な様相を帯びてくる。
息子は、理知的でハンサムなのだが、神経質で、カンの強い一人っ子だ。
夫と息子ハムレットに翻弄されてゲルータ(ガートルード)は、次第に消耗してくる。
映画では、ニコール・キッドマンが好演した「アザーズ」も面白い。
ピエール・グリパリの「木曜日はあそびの日」の中に、やさしい、子どもの悪魔が出てくる。
「木曜日はあそびの日」(岩波少年文庫)ピエール・グリパリ(著)金川光夫(訳)
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昔むかし、緑色の大悪魔と黒い悪魔の間に生まれた、由緒正しい子どもの悪魔の話である。
子どもが学校から帰ってくると、お父さん悪魔が何をしたと聞いた。
「え・・・・・・と、書き取りと、問題を二つと、歴史と、地理をちょっと・・・・・・」
これを聞くと、父さん悪魔は、かわいそうに、両手で自分の角をつかみ、まるで、むしり取らんばかりに引っ張るのでした。
「いったい何の因果で、こんな子供ができたんだろう?
思えば何年も前から、お母さんとわしは、いろいろな犠牲を払って、おまえに悪い教育を受けさせ、悪い手本を示し、おまえを立派な、意地悪い悪魔に育てようと努力したものだ。
ところがどうだ!
おまえときたら、誘惑に乗るどころか、問題なんか解いておる!
さあ、いいか、よく考えてみろ。
いったいおまえは、これから先どうするつもりなのだ?」
「ぼくは心やさしいひとになりたいのです。」
子供の悪魔は、答えるのでした。
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