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【雑考】複雑系思考法

複雑系(Complex System) というパラダイムがあります。

これまでの科学が捨象して成立していた現実を、リアリティのあるものとしてとらえるものです。

複雑さそのものの中に、ある種の「解」とか「方向性」を見出そうとする試みです。

1+1=2にならない世界を考えるのですが、実際の人間の動き、自然現象などは、1+1=2に決してなりません。

さまざまな要素が絡んでくるからです。

複雑(complicated)ということとは違う点に注意する必要があります。

要素が多くて複雑なだけだったら、時間はかかっても分析できますが、要因が絡んでいて、容易に解けない状態だと思っておいてほしいと思います。

『ジュラシック・パーク』の中でカオスの専門家イアン・マルカムが「たとえパークの恐竜を全部メスにして繁殖を防いでも、100%安全はありえない。生命は生きる道を自分で見つけ出す。」とパークの失敗を予言して、その通りになります。

自己組織化というものがあるからです。

カオス理論というのは、「北京で蝶々が羽ばたくとアメリカでハリケーンが起きる」というものです。

これは、日本人には分かりやすいと思います。

パチンコは、天釘を狙って打ち出すのが普通ですが、同じところを狙っていても結果は大きく違ってきます。

筒井康隆のSFに大物理学者がパチンコ屋に行って、研究を重ねて衆人が見守る中で打ち始めるのですが、あっと言う間に負けてしまう、というのがありますが、あんな単純なゲームでさえ、予想ができないんです。

これは「初期値鋭敏姓」と言いますが、ほんのわずかの違いが結果を大きく変えて北京の蝶々の話になります。

単純系の思考というのは、実験室の中だけの話です。

ガリレオがピサの斜塔から重さの違う球を落としたら(実際にはやっていないといわれる)、軽い球の方が遅く落ちるはずです。

2倍勉強すれば2倍賢くなるというのは、机上の空論で、中には、勉強のしすぎでアホになる奴も出てくるのが現実です。

これが当てはまるのは、受験と受験戦争に勝ち残ったキャリア官僚にしか通じない話です。

どんなに努力しても報われるとは限らないけれど、努力せざるを得ないのが人生です。

つまり、ゆらぎがあり、カオスであり、ファジーであり、非線形なのが現実なんですね。

線形で考えてはいけないってことです。

非線形で物事を見なければならない点に注意が必要です。

サファリというのは線形ですが、テンベアは非線形です。

自然現象にはゆらぎがあり、人間の行動にもゆらぎが見えますよね。

鳥などの群は、中心がなくても全体として意志を感じますが、相互関係だけで行動しています。(ボイド【birdoidの略】の研究と言います。)

1.衝突回避=近すぎる群の仲間と離れ、衝突を避ける。

2.速度調節=周りと速度を合わせる

3.求心力=群の中心の方へ向かおうとする

要素還元主義と呼ばれる要素間の関係を無視して、分解していけば真理に達するという「因果律」による科学では、全体がつかめなくなってしまいます。

古典力学は、相対性理論や量子理論の挑戦を受けて大転換をしなければなりませんでした。

進化という不可逆でエントロピー拡大の法則に反するような現象を扱っている生物学は、もともと近代的方法と無縁の分野でしたが、科学の新しいあり方を提案しています。

生命現象を見ると、生きていることと死んでいることはまるで違うのですが、なぜ生きているかという原因を探ろうとしても分かりません。

生きていることは死んでいないこと、死んでいることは生きていないことと脱構築的な解釈しかできない点を理解しておくことが肝要です。

まして、人間はどこでどうなるか分からない複雑系の動物です。

ドーキンスの「わがままな遺伝子」のように、利他行動が当たり前のように日本人は働くのですが、自分とは無関係の要因で会社が倒産することだってあります。

不条理に生きなければならないのが、この世の理だと理解しておくべきです。

大砲の弾丸の軌道を予測する時には、「初期条件」が明確に与えられるとこれによって微分方程式が立てられるなど弾丸の性質は変わりません。

ところが、人間はその間にどんどん変わっていきます。

人は変われるのです。

不可逆的な時間(生物は誕生→成長→死)のことをノーバート・ウィナーは、「サイバネティックス」の中で、「ベルグソン的時間」といい、可逆的な時間のことを「ニュートン的時間」と呼んでいました。

【参考図書】
「サイバネティックス―動物と機械における制御と通信」(岩波文庫)ウィーナー(著)池原止戈夫/彌永昌吉/室賀三郎/戸田巌(訳)

多くの学問は、原因があって結果が生まれる「因果律」で考えられています。

医療の場合、これを医学パラダイムということがあります。

ウイルスがあって病気になる、という因果関係が分かるから治療するということになります。

これに対して、臨床心理学パラダイムは原因を考えないというものです。

例えば、父親の死によって心の病になった場合、父親の死を元に戻すことはできません。

フロイト理論などは、原因よりも治療に重きを置くのはこのあたりの事情があります。

臨床心理学には、臨床心理査定、臨床心理面接、臨床心理的地域援助、研究・調査・発展があります。

臨床心理査定は「診断」、臨床心理面接は「治療」と医学パラダイムで語っていたのを現在では言葉を変えています。

例えば、「醜貌恐怖」というのがあり、誰が見ても美人である人が醜いと思い込んでしまうことがあります。

フロイトは、この主観的な現実を「内的現実」と呼んで、いわゆる客観的な「外的現実」から区別していました。

臨床の知で必要なのは、こうした仮想現実も、また現実であると考えることなのです。

ユングも、もっとラジカルにイメージこそが現実をつくるのだ、としていました。

イメージが本物か偽物かは、そもそも問えない。

イメージそれ自体に意味があるのだと。

ユングは、これらから「元型」という普遍的なものを見出しました。

仮想現実も、人が体験しているという限りでは現実性をもつという考えです。

ちょうど触れたり嗅いだりするものを体験することと、何ら変わりがない。

イメージを通して「現実」を作り出しているのだから。

「胡蝶の夢」ではないですが、何が現実性を持っていると言い切れるのだろうか?

ある製品がどうして流行したか、という問いは考えてみるのも面白いかもしれませんが、たった一つの答えを見つけることはできないだろうと推定されます。

現象の全体を、複雑なものを複雑なまま、「あるがままに」とらえることが大切なんだと考えられます。

言語学は、「ハマグリ」が「浜+栗」から来ているということは問題にしますが、海岸が「ハマ」とされて理由までは問わないし、問えない。

今ある言語を「あるがままに」とらえる学問が言語学であるし、記号論も、また、世界を「あるがままに」をとらえる学問です。

カオスというのは「混沌」です。

「荘子」(内篇七「応帝王篇」)に有名な“渾沌(混沌)”の説話があります。

【参考図書②】
「荘子 内篇」(ちくま学芸文庫)福永光司/興膳宏(訳)

「中央の帝(渾沌)にたいへんなもてなしをうけた南海の帝・(しゅく)と北海の帝の忽(こつ)はその好意に報いるべく、目・鼻・口がない渾沌の不便さを助けてやろうとして、その顔に毎日一つずつ穴を開けてあげた。

ところが7日めになって渾沌は死んでしまった。

(二人の帝の名の“・忽”とも漢字で“すばやい・たちまち”の意味)。

生きるのに便利な目鼻をつけてやって一安心と思ったその相手(渾沌)が死んでしまった。」

「渾沌(混沌)」は、“自然の姿”であり、それに目鼻をつける(秩序づけをする)と自然本来の姿が失われるという寓意が込められています。

倨傲にも“人間は自然と峻別されるべき存在、人間こそ自然を統御する存在(自然の支配者としての人間)”であるなどというのではなく。

荘子の世界では、「自然のささやかな一部にすぎない人間よ、おごるなかれ」の思想が貫かれていると言ってよいと考えられます。

なお、荘子には、「万物斉同」の思想、自然環境に関連する「共生」「棲分け」の思想、空の青さ/楽器の共鳴/落雷の電気に関する興味深いテーマが並んでいました。

「あるがままに。 」

「構わないでおいて。 」

つまり、「レット・イット・ビー」なのでしょうね(^^)

The Beatles「Let It Be」

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【雑考】垂直思考と水平思考
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