「わけ」
「理由」というものは、原因を求めてやまないのでしょうね。
ここで少し、なぜ?どうして?の問題について考えてみると。
子どもはいつも「なぜ? どうして?」と質問してきます。
とってもいいことなんだけど、大人は時々それを嫌がります。
うまく答えることができないから。
子どもはそれにめげないで、問いかけ続けなきゃいけない。
「なぜ?」と訊くとき、または訊かれたときには、その問いが「原因」と「理由」のどちらを求めているのかを考えてみる必要があると思うんですよね。
英語で言えば「Cause」と「Reason」の区別ということで、これ、実はかなり重要な区別だと思うんだけど、いかがですか?
いかがか、って訊いてみたのは、何をかくそう私も区別に気がついただけでそんなに深くは考えていないから^^;
一般には原因も理由も、何かを説明するために、区別なく使われていますが、哲学的には、両者は区別されるべきです。
原因(cause)が「惹き起こす」、理由(reason)が「推論する」という動詞として使われることが手掛かりになるかも。
だから、原因と理由、似て非なるものです。
すべての出来事になんらかの原因となんらかの理由の両方があるようには思えない。
特にさしたる「理由」のないことは多い。
また、「原因」がシンプルな言葉でまとめられないような複雑なことであることも多い。
強いて言うなら、原因は科学的で、理由は哲学的と考えていいかも。
「すべてのことには原因がある」という「Causal Principle」は古代哲学の時代から強調されてきたし、そう考えるのは自然ですね。
カントのヒューム批判を持ち出すまでもない。
これに対して理由というものは極めて曖昧な概念だと思う。
「理由なんてないさ」とロック歌手は歌うし、「なんとなく」という単なるフィーリングも理由と考えられることがある。
また、理由とか原因を殊更に問題にすると、人生は味気ないものになってしまう気がする。
まず言いたいのは、まるで原因を解明するかのように理由を突き止めようとすることが多すぎるのではないか、ということです。
テレビ番組の「なぜ? どうして?」には、この過ちが多いと思う。
「何が少年をあのような犯行に導いたのか?」
「どうして彼女はあのような行動に走ったのか?」
・・・・・・まるで一つの暴かれるべき明確な答えがあるかのようにコメンテータは話を進める。
生きること、殺すこと、愛すること、愛さないこと、生理的な原因を科学者が説明しても誰も満足しないだろうに。
「理由」を問う時、「なぜ?」は形而上学的な言葉なのです。
問題なのは、そんな「理由」なんてものはないかもしれない、ということなんですよね。
理由と原因を区別すると、時と場合によってどちらを求めるべきなのか考えなければいけないと思います。
このあたりで私の思考は止まっているわけだけど。
原因を究明しても理由がわからなければ意味がないように思えることがあります。
逆もある。
でもそれはどういう時か?
子どもに「なぜ? どうして?」と訊かれたとき、どうやって答えるべきか?
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